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世界名作劇場から生き方について考える④毒になる親から自由になるには

※注意事項※
・毒になる親、という問題は、各家庭、個人の数だけ違いがあり、回復の過程も個人差が大きく今回の記事もあくまで私個人の経験則による個人的なものです。
・各作品のネタバレご注意。

 最近ますますハマりつつある不朽の名作「赤毛のアン」
毎話ごとに新しい事件を起こす、天真爛漫なアン・シャーリーから目が離せない。アンを一番近くで見守るマリラ、マシューはそれまで子育てなどしたこともない初老の兄妹だけども、ふたりともアンのことを大層気に入っていてマリラは愛情表現が乏しくとも心の内には確かな愛情を持ち、マシューのほうも人間として不器用ながらもいつでもニコニコとしてアンの楽し気なおしゃべりを聞いたりしていて、2人はいつでもアンの味方ですね。

赤毛のアンはまだアニメ、小説ともアンの少女時代の序章まで見てきたにすぎないんだけど、一つ思うことがあります。
果たして、世の中どれだけの家庭がカスバート家のように温かく、多少問題行動の多い子どもだったとしても心に深い傷を負うことなく、健やかに成長していけるような健全な家庭なんだろうかって。
あくまで私の認識ですけども、実はそういった比較的健康的と思われる家庭の方が少なくて、だいたいは何らかの機能不全家族の方が普通なんじゃないかって思います。

なかなか難しい内容ではありますが、イラスト多めでなるべく楽しく書こうとした記事になります。


「赤毛のアン」と毒のある親について

 赤毛のアンのアニメを初めて視聴したのは2023年の11月末~12月はじめ頃。ちょうど11月にはアニメコンサートが開催され、参加された方々による評判はすこぶるよくて盛り上がっていたようで、ここで初めて赤毛のアンという作品に興味を持ち視聴してみることにしたのです。

 1話、女性ぎらい(恐怖症)のマシュウが、農場の手伝いにと孤児院から来る”男の子”を引き取る手はずでブライトリバー駅に向かったところ、待っていたのは女の子のアンでした。
女の子が苦手だったマシュウは最初こそしどろもどろだったものの、あっという間にアンの魅力に取りつかれ、グリーンゲイブルズの家まで馬車で連れ帰ります。

マシュウ・カスバート驚く(小説版だとマシュウ→マシュー表記)

この時の馬車で駆けていく情景描写など見事としかいいようがなく、純粋に感動を覚えたものです。

 しかし、その後グリーンゲイブルズに到着しマリラが現われるやいなや、孤児院から連れてきた子が男の子でないということでマシュウと言い争いに。その二人のやり取りを聞いていたアンは激しく悲しみます。
「私が男の子じゃないから、いらないのね!」と。
あの素晴らしいりんご並木の道「歓びの白い路」を通った後ですから、余計落胆しますよね。
その後アンはマリラに対し、おばさんは自分がもし同じ立場だったらどう思うだとか、アンのその時の気持ちをすべて言語化してそれはもう激しく泣きますね。
こんな時にでも自分のことを「せめてコーデリアと呼んで」とか言えちゃうあたり、アンのずうずうしいほどの前向きさには感嘆させられます!

さて、その後マリラはアンを孤児院に返すつもりでホワイト・サンズに一緒に馬車で向かうわけなんですけど、結局その間アンの生い立ちなど聞いているうちに一見仏頂面だけど中身ハートフルおばさんなマリラは、アンをかわいそうに思い引き取る決心をしますね。

その後はなんやかんや口うるさくいいながらもいつもアンの話をしっかりと聞いて受け止めていて、自分の経験から度々適切なタイミングで的確なアドバイスをするマリラ。小説版を読んでいますとしっかりしてそうに見えるマリラも実は内心不安だったり自信なかったりなんですが、実に温かくアンを見守っていることがよくわかります。

模写。ナレーションがいつも的確すぎて真面目なのに面白い。
牧師夫人のお茶会があまりに素晴らしく、思わずマリラのお膝元にいくアン。

最近では名劇シリーズ中で、この中年どころか初老のマリラおばさんが実は一番可愛いのでは🥰などと思ってきております。少女目線で楽しむ物語でもあり、マリラやマシュー目線でも楽しめるところが赤毛のアンの面白いところですね✨✨

 それはさておき、本題の毒のある親について。マリラ、マシューは昨今よく聞く子どもにとって害のある親、所謂毒親(私はあまりこの略称が好きではなく、あくまで子供にとって時と場合により毒になり得る親という意味で「毒になる親」とか「毒のある親」という表記にします。)
これら毒のある親とは正反対ですね。

この解釈は正確ではないかもしれないです。
もしかしたら、グリーン・ゲイブルズに来た子どもが快活でお喋りなアン・シャーリーじゃなければ、いかに心温かい人たちであるマリラ、マシューであっても、もしかしたら毒になる親たりえたかもしれない、と思ったりします。

マリラは当時流行しアンが憧れていたパフスリーブの洋服には否定的でした(この時マリラがせっかく作った3着の地味な洋服に対し、子どもらしく素直にわがまま言ってしまえるあたり、アンは相当マリラを信頼していることがわかりますね)
学校にステイシー先生着任後、クラスでお芝居をすることになりアンが遅くまで劇の練習をしたりしていることを快く思っていなかったり。
アンが憧れをもっていたり楽しみにしていることを、非常に現実的な性格のマリラは度々否定的だったりするので、そんなマリラに対しいつもよく回る舌で思いをすべて言葉に出来てしまうアンでなければマリラも毒のある親になりえたかもしれないと思ったりするんです。

マシューはいつでもニコニコしていて、アンのお喋りを一切否定することなく聞いてくれて、アンがマリラに叱られてしょぼくれてる時には助け船を出してくれたりして、常にアンの味方であるところが心強いですね。
ただ、第一話とか顕著ですがマリラの言うことには逆らえない気の弱さや、女性不信気味だったり、お茶会や日曜学校が苦手だったりと少々社会に馴染めないようなところがありますね。
そんなところもマシューという人の魅力であったりすると思っていますけども。

 カスバート家は現実的でしっかり者のマリラと、少しシャイだけども穏やかで安心できるマシューとで、お互いに欠点を補いつついい感じにアンが安心して健やかに成長していけるような家庭になっているなぁと思いますね。

一家団欒のひととき。アンが来てからというもの常に明るく笑いの絶えない食卓に。

少々記事のテーマとはズレていますけども、現状私が考えている「毒のある親」とは、親自身の問題である場合が多いかもしれないけれど、親と子の相性にもよる場合も多いと思っています。
アンのように自分の気持ちを全て言葉に出来てしまえるような、前向きで明るい子でなかったら果たしてそもそもマリラが引き取ると決心しただろうかって。女の子じゃダメなんだと絶望しつつも自身のことを「コーデリアと呼んで」とか、マリラに聞かれて身の上話を事細かく話していなかったらどうだっただろうとか思うわけです。


レ・ミゼラブル少女コゼットはコゼットとともにジャン・ヴァルジャンが癒されていく物語

 レ・ミゼラブル少女コゼットも赤毛のアンの少し後に視聴し始めた作品で、これまたかなりのハイペースでハマってきており原作本も少しずつ読み進めているところです。

 アニメ版ではちょうど19話まで視聴し終わったところですね。
このお話、コゼット自身の最大のトラウマが呼び起こされる内容で、見ていてつらかったな~(^-^;💦

「また、私を預けるの………😢😢😢」

う~~~~、見てられないね!
フォーシェルバンとジャン・ヴァルジャンとの会話から不安になって、一時は小屋から逃げ出してしまって………💦

ジャン・ヴァルジャンに見つかったとき、正直に気持ちを伝えられたのよかったなって。お母さんのファンティーヌもあの極悪な一家テナルディエ夫妻に自分を預けていってしまって、それから二度と会えずに………と。
ジャン・ヴァルジャンとともに旅立つことが出来たのはせめてもの救いでしたね。小さな女の子が背負うにはとても過酷な運命だけど、小さなコゼットからも学べることは沢山あるなぁと思いつつ視聴しています。

 ここでジャン・ヴァルジャンは察しがいい人ですから、コゼットが他の人に預けられると聞いて不安に思っていることには自然と気が付きますけど、 
きちんと言語化して伝えなくては伝わらない場合も多いと思うのです。

その点、アン・シャーリーを見習いたいなと思う最近ですね。
彼女はとても語彙が豊富で、ウィットに富んだ言い回しが出来るほど頭の回転もよく、ものごとをいちいち大げさな言い方で何度も繰り返したりして人によっては少々うんざりするかなぁ(かくゆう私自身もアニメや小説を見ながら彼女のお喋りが過ぎる点には少々時々うんざりしつつも楽しく見ています)などと思いつつ、コゼットやアンのような物語の小さな女の子たちから勇気をもらったりするのです。



「毒になる親」とは?

 世界名作劇場シリーズでいうと、ロミオの青い空のエッダ・ロッシ、レ・ミゼラブルのテナルディエの妻とかすごいわかりやすいですよね。一見子供たちを溺愛しているように見えますが、その実子どものことを”見ていない”人たち。

レミゼラブルの19話以降の話を少し知ってしまったのですが、今後テナルディエ一家は借金からワーテルロー邸をやめ夜逃げしてパリに移り済み、そこで反発した娘エポニーヌに対しつらく当たるのだとか………💦
うわ~~(^-^;💦毒になる親の典型ですね。
それまで、まだお金があるうちはよかったけれど、本当に困窮してきて余裕なくなってしまうと誰でも精神的に落ちぶれてしまい(ファンティーヌも一時そうでしたね)特に弱い立場の人とかにつらく当たるようになってしまうんですよね、どこにでもある話です。

 さて、ちょっと今回のテーマ”毒になる親”についてはとても一つの記事では語り尽くせない難しいテーマであり、昨今のXとか見てると度々トレンドに上がるあたり、この問題が近年表面化してきていて悩んでいる人がいっぱいいるのだなって印象です。

 今現在の「毒になる親」についての私自身の考えは、現在読んでいるこのテーマについての古典ともいえるスーザン・フォワード著「毒になる親 完全版」をはじめその他関連書籍、アダルトチルドレン自助グループのミーティングに参加してみた経験などによるものです。

書籍「毒になる親」からの引用になりますが

・毒になる親とは、子供に対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子供の人生を支配するようになってしまう親

スーザン・フォワード著「毒になる親」より 

と書かれています。その前置きとして、どんな親も人間なので問題がない親なんていないし時には怒りを爆発させてしまうこともある、とありますね。
では上記の定義に当てはまるような「毒になる親」は、どこからが毒になってしまうんだろうかと考えてみます。
 上記の定義だと”継続して”とありますが、例外が二つあるそうで「身体的な暴力」と「性的な行為」はほんの一回でも子供にとっては深刻なトラウマとなり得るとあります。この二つについては明らかに”毒”であることがイメージしやすいので、とてもわかりやすいですね。

問題は”心理的虐待”と呼ばれる、境界線が曖昧なものについて。
以降はこの心理的な問題について”毒”になりうる親について考えます。

 私自身の考えでは

・親が毒になるかどうかは子どもとの相性もある

といった考えが強くありますね。きょうだいが複数人いる場合、仮に親自身が毒性の強い親であったとしても、きょうだい全員が同様に悪影響を受けるとも限らない。その子供の性格にもよるし、どうしても親も不完全な人間なのできょうだい間で接し方に偏りがあったりする場合も多いものです。

 つい最近、ほんの数人で自主的に集まるアダルトチルドレン自助グループのミーティングというのに初めて参加してみました。
どうしてもこういった集まりに参加するには勇気がいるものですが、参加してみてよかったと思っています。
内容に関しては守秘義務があるので詳しいことは何も語れませんが、
きょうだいの間でも特に「娘」でさらに「長女」である場合に、
親自身の問題を一身に引き受けやすい傾向にある
ということがわかりました。どうしても親、特に母親からして何かを頼むとか話をしやすいのは長女である娘である場合が多いようなんですね。

私自身もきょうだいの中で長女ですから、これには思い当たる節があります。長女か娘かに関わらず、その家に生まれる第一子というのは親にとってはじめての子育ての経験になるので、何かと問題が発生しやすくなるというのも聞いたことがあるしその通りなんだと思います。

 


「毒になる親」が子供の将来に与える影響

 心理的な問題については多岐にわたるため、今回の記事では語りきれませんが、毒になる親の影響により将来子供がどのような問題を抱えやすいかについては驚くほどに似たような症状が現れるそうです。それは、

ひとりの人間として存在していることへの自信が傷つけられており、自己破壊的な傾向を示す

スーザン・フォワード著「毒になる親」より

自分に価値を見出せず、人から本当に愛される自信がなく、何をしても不十分な感じがしてしまう。

セルフイメージが限りなくマイナスになってしまうんですよね。

果たしてこの状態が「毒になる親」によるものなのか、はたまた自分自身が繊細すぎるからなのかはいつも悩みどころでありましたが、
書籍「毒になる親」にはセルフチェックの項目もあり、こちら3分の1に当てはまるようならば、何かしら毒の影響を受けており自身を解放する道を模索する必要があるように思いました。

思い起こせば………自己破壊的衝動が顕著になり始めた時期が15歳くらいで、ちょうど高校一年の青春真っ盛りな年代。
この時期に私は少し特殊なスポーツをやっており、毎日海に出ていました。

当時の写真がないので適当な海の写真なのですが。
高校生以前から、どうにも少し意地の悪い人がいて人の上手くいったこととかを(別に自慢などしていないのに)いちいち水を差してきたり、私に対して度々不満を口にするような人がいたため、
私はこのような輩に絡まれるのは
「自分が弱いから悪い。強くならなければ。弱いからサンドバッグにされるのも仕方がない」などと考え、あまり得意とも言い難い運動を一生懸命にやることにしたのでした。

それである時、練習中に盛大に指を挟む怪我をしたんですけど、大会も直前で先輩と組んでやっていたこともあって、すぐには病院に行かず応急処置だけして変わらず大会出たり練習したりしていたんですがだんだんと痛くなり。そこで初めて病院に行ったら

「親指が壊死しかけてる、あと少し来るのが遅かったら指を切り落とさなければいけなかった」

なんて言われました。確かにいつもよりは痛かったけど、そんなにだったんだ。気が付かなかったよ。
ただでさえ、自宅療養中の余命少ない家族がいて(当時のスポーツはその家族が一番楽しみにしていることの一つだったから始めたのも大きかった)
自分自身のことなんてそう大したことでもないと思っていたのに。(思い込まないとやっていられない状況だったわけですね)

全治一か月、その間活動禁止でそのことをきちんと他メンバーに話をしたわけなんですが、パッと見では親指の先に包帯が巻かれてるだけでそう大したことないように見えるので「筋トレくらいはやれるでしょう」と言われていました。
こんな時、アン・シャーリーであれば饒舌に誰にでもわかるように説明が面白おかしく出来たのかな?

自己破壊的行動は他にもありますが、これは極端な例ですね。
この時は指の一本くらい、そう大したことでもないと本気で思っていたし、だけどその後は流石にこの一件を機に怪我には気を付けるようにはなりました。



自己破壊的な行動をしがちな名劇キャラ「アルフレド」

 私が世界名作劇場シリーズを視聴するきっかけとなった最初の作品は、「ロミオの青い空」です。特に序盤に颯爽と登場する美少年キャラクター「アルフレド」には相当入れ込んでるので、現在も趣味でかなりのペースでファンアート描き続けていたりしてもうすぐ3年になりますね。早いものです。
 なぜアルフレドにそうゾッコンなのかというと、単純にカッコイイからなのはもちろんなんですけど、初見の時点で明らかに人を信じられない様子であり人間不信気味なところから共感を持ったということもありますね。

4話模写。完全に信用してない風の初期アルフレド。その後速攻でロミオと打ち解けますが


後にわかりますが、叔父叔母の策略により陥れられたことで常に内心は復讐心を持っているところも共感ポイントが高い。
「ロミオがいなければ僕は復讐を誓うだけのつまらない人間になっていた」とも言っていますし、ミラノの街で叔父を見かけた時にはそれまでロミオが見たこともないほどの憎悪に歪んだ表情をしていた、と小説版aには記述があります。

自分たちを陥れた叔父を街で見かけて憎悪するアルフレド

まだ、妹のビアンカが一緒にいるうちは妹を守りたい一心で自己破壊的な行動はしなかったと思うアルフレドなんですけど、
最愛の妹と別れて煙突掃除夫としてミラノに向かう頃には(ロミオと出会う頃には)少なくとも私から見たらですが、少々自己破壊的な行動としか思えない場面が沢山あります。

 15話でロミオがアルフレドを探していた時に、アルフレドから食べ物をもらったり狼団に襲われたところを助けてもらった他の煙突掃除の子が沢山いました。24話で分かりますがアルフレドは普段から自身も満足に食べさせてもらっておらず、親方からの扱いも相当酷い様子で、それなのに他の煙突掃除の子たちをいつも助けていた。
大変素晴らしい精神ではありますが、少々自己破壊的な行動ではないかって。↓すごい古い絵ですいません。

あくまで煙突掃除夫ベナリーボ(左下)のイメージになります。

それだけでなく、ロミオと再会し黒い兄弟結成後は暇があればカセラ教授から借りた本を読み(それまではたった一冊だけ持ってた本を読んでいて)
黒い兄弟の作戦会議の後も自分一人で作戦を練ったり。

16話模写 黒い兄弟の作戦会議後にひとり秘密基地に残り真剣に本を読むアルフレド

 非常にリーダーとして頼もしいことこの上ないですが、少々無理しすぎているようにしか………💦煙突掃除夫の仕事だけでも1日に10時間もあります。
満足に食べることもままならず(しかも寝床はズタ袋に毛布もなく)恐らくアルコール中毒と思われる親方からは日常的に暴力を振るわれ、果たして体力がもつのかって。

 これらアルフレドの行動は少なくとも「毒になる親」によるものではないし(毒のある親戚による影響は多大だけど)
ただ単に自己破壊的な行動というより”若さゆえの”行動ともとらえられなくもないです。

26話で倒れて診察受けたあと、もう少しだけ療養してほしかったですけど(せめてパンだけでも食べてって………💦(;´Д`)って何度思ったか)
あれも自己破壊的な行動と言えばそうだし、単に小説版に書いてある通りなら時間がなくて余裕がなかったから少しでも早く行動しなければと、使命感からそうならざるを得なかったのでしょうけども。

 「毒になる親」とは少し主旨がズレて(ほぼアルフレドというキャラの紹介)いますが、必ずしも毒になるのが血のつながった親ばかりとも限らないと思います。それこそ親に近い親類、叔父叔母や祖父母とかも身近に住んでてしょっちゅう顔あわすようだったら影響力は少なくありません。

特に彼の叔父叔母マウリツィオやグラゼーラのように、恵まれた兄夫婦のことを快く思っておらず悪意ある人物であった場合なんて最悪です。

24話あたりのマルティーニ兄妹編イメージイラスト

ああ、これ私ですね。アルフレドとほぼ同じです、貴族ではありませんが。

私に対しては悪意があるのを隠し切れない人でした。
もちろん今ではほぼ会うことはありません。今後も関わりたくありません。
あまりにも悪影響が過ぎました。

詳細はあまり書かないですが、私自身の「毒になる親」問題はこの悪意ある人物によるものの影響が大きく、さらに悪いことにこの人物に逆らえない私の母による二次被害といったところです。

なのでこの人たちからは少なくとも悪影響を受けない程度には距離を取り続けるしかありません。普段、赤毛のアンとかで一家団欒とか、仲間の絆とかのテーマでファンアートなんて描いているけど実際にはその逆と言ってもいいかもしれないですね。



「毒になる親」による負の影響からの解放。乗り越えるにはどうするのがいいか?

 生育過程でなんやかんやあって、残念なことに身内や近しい存在が信じられなくなり、それにより特に親しいという人間関係もなかなか築けなくなり、セルフイメージが限りなくマイナスになってしまうと色々と生活する上で不都合が出てきます。

子供のうちにはこの問題を解決するのはなかなか難しいかもしれない、選べる環境が限られているから。
なのでロミオの青い空でもアルフレドには選択肢が限りなく少なくて、煙突掃除夫になるしかなく、結果的に早くに天に召されてしまった。

毒のある親で最悪の場合は、その子供は大人になるまで生きられないのかもしれない。

ただ、幸いなことに、今現在「毒のある親」による悪影響で後遺症に苦しんでいるとしても、ある程度大人になってくると選択肢が増える。

自分に合わない環境ならば距離を取ることもできるし、仕事も自分に合うものを出来る範囲で選べばいいだろうし、住むところや人間関係も選ぶことが出来ます。

日本には親を大切にするという文化が根強く、やたらと「母の日」や「父の日」での贈り物を煽ったり、親孝行すべき信仰みたいなのがあったりしますが、私は必ずしも血縁関係だけにこだわる必要はないと思います。
親孝行なんて子供が生まれてから~8歳くらいまでに一生分の親に対する幸せを届けてるという話もあるくらいで、この説は一理あるし無理に親孝行を親に対しする必要もないと考えています。

 「毒になる親」問題で第一にした方がいいのは”問題となる人物と悪影響を受けない範囲まで物理的精神的に距離を取る”ことなので、その部分については十分達成できたかと思います。
何かしら問題を抱えた人に限り、いざ離れようとするなり「どうして離れるんだ」とか「なぜ帰ってこない」とか言ってくる場合が多いように思いますが、そこまでさせるくらいの悪影響を継続的に与えてくるほうが悪いのです。
罪悪感がないと言ったらウソになりますけど「毒になる親」問題というのは、その子供の人生全体を支配してしまうほどの非常に複雑で根深い問題だと思っています。
たまにこの問題について特に理解のない人は「親のせいにするな」などと言う人もありますが、毒になる親問題は”今の自分の不遇を親のせいにして後ろ向きに生きる”ではなくて、親から受けてしまった負の遺産を自ら解放するために前向きな生き方をしようとすることに意義があると思っていて。

家庭や家族の問題なんてそれぞれだと思うので、外野のよく知らないひとの意見なんていちいち真に受ける必要もないですね。


 なので私自身可能な限り前向きに生きようとはしていて、それで今まで取ってきた行動は以下の通りです。

①問題となる親自身の問題行動(言動)について言及する(私にとってそれは不快である、私はあなたと同一の考えではないと主張する)→これを続けても全く理解が得られなくさらに負債を負わされたため、物理的、心理的に距離を置くことに決め実行(仕事、住む場所、人間関係ほぼ全ての環境をカスタマイズする)

②それまで負った傷やトラウマからの回復に、その時点で最も信頼できると思われるパートナーと共に暮らす(◎これがおそらく回復には最重要であると思われます)、他に信頼できるグループ(主に趣味関連)に複数所属して精力的に活動したり、ブログやSNSで絵や文章にして想いを綴り消化し続ける←いまここ実践中。

③物理的に離れても、根本的に問題が解決せず二次被害を受ける可能性が高かったため、ある程度の”脅し”をして今後同じようなことが起こらないように毒になる親自身の意識を変革させることにある程度成功(ただし油断は禁物である)

④今後同じ問題が起こらないにしても後遺症がかなり残っているため、今後さらに心理について理解を深めたり、クリニックの受診やアダルトチルドレン自助グループのミーティング参加により過去の傷ついた自分自身を癒す
↑今ここの段階

①について
私は可能ならば、問題そのもの「問題となった人物やその行動」に働きかけ改善できる部分があるのであれば改善出来ることが一番であると考えます。
なぜなら、その問題となる「毒になる親」自身が、問題を問題と認識していない(もしくは認識できない状態)である場合も多いと思うからです。

 私の場合も問題が発生したかなり初期の段階から、ずっと問題を指摘し続けていたのですが、その人自身に”共依存”傾向があったために改善が出来ませんでした。よって一時物理的、心理的に距離を置くことで冷静になり、
その上で数年がかりで意識改革を行ってきて(最終的には、私自身の命を使って脅すなりして)ある程度改善してきたところです。
ここまでで約18年近く。気の長い話です。

私は安易に血縁関係を切るというのはいいと思っておらず(日本には分籍という制度はあっても、親子関係解消という手立てはない)
よって、もし家族関係があまり合わないのであれば適度に悪影響を受けない程度に距離を取り、必要な時に関わればそれで充分という考えですね。

②それまで負った傷やトラウマの回復について
この過程は人によるんだと思います。私が特に重要だと思うことを書きました。まず、かなりの深手を負ってしまった場合はカウンセリングや専門の心理療法的機関を頼った方がいい場合もありますが、日本ではカウンセリングは自由診療であり少々ハードルが高いと思っており、これらをすぐに頼るということはしませんでした(そもそも金銭的な問題で負債を負わされたも同然のようなもので、転居してすぐはあまりお金に余裕がなかった)

それよりも、それまで続けていた趣味の活動を継続して自信をつけるとか、自分を温かく迎え入れてくれるようなコミュニティに複数箇所所属する、
一番いいのはその時で最も信頼できると思われるパートナーと一緒に暮らすです。(※ただし若い頃に経験ありますが、自己イメージが下がっている人が温かく迎えてくれるコミュニティを探した結果「マルチ商法」だったり「悪徳ビジネス」やその他怪しい団体に引っ掛かりやすい傾向にはあるので、これだけは十分に事前情報を得て、直感を頼りに注意をしなけらばなりません)

③私としてはその当時出来る限りの行動と態度で示したつもりでした。
しかし、言っても全く改善しないから、行動で示したのにそれでも改善しなかったため、最終的には脅しコミュニケーションをするしかありませんでした。そうしないと、私自身の生活が破綻すると思ったからです(それまで会社を休む回数も増え、交通事故も起こしてしまったり、ということをそのまま伝えた。ついでにクリニックの診断結果も添えて)
結果的には最初から、脅しておくくらいにすればいいと思いました。

なぜ脅すまでしないといけないかと言ったら、私の問題の場合は「不当に金銭を要求し続けるという心理的虐待」に相当するからです。
これが虐待ということに相当するとはつい最近知ったのですね。
数十万ならまだしも数百万単位で要求されて、しかもそれを許せなどという二次被害にも遭っている。私は幾度となくこのことを忘れようとしましたが、一向にそれが出来ませんでした。それで④の次なる対策が必要になりました。

④「毒になる親」からの後遺症に対し、直接心理的なアプローチをかける。

②の好きなこと、趣味に没頭する、ブログやSNSで想いを綴り発信するだけでも十分回復できる見込みでした、当初は。
しかし、この”好きなこと”を追求するにあたり、「トラウマや心の傷を好きなことに夢中になることによって解消する」というアプローチは少々問題になる場合が出てきました。
私が現在主に行っている創作は「世界名作劇場シリーズの二次創作」で二次創作にはもともとの作品のファンが少なからずいます。
この創作活動によって、トラウマや心の傷を解消しようとするというのは少々危険が伴います。
なぜならば、時には創作物そのもの自体が「問題のある内容」になってしまう場合も度々ある(これは創作の根本が憎悪によるものなので当然と言えば当然ですね)
さらに、SNSというのは依存性が高いように作られているものなので、ただでさえ発達段階で心理的に問題を抱えた人間不信な人は依存症に陥りやすくむしろQOLが下がってしまう。
なので、「SNSの活動や創作を楽しむこと」と「トラウマや心の傷の回復」は別に考える必要があり、今後は後者に直接アプローチをかける行動をすることにしました。
もちろん、今後もSNSやこのブログでは想いを綴ったり、イラストを描いたりということは継続してやっていく感じになりそうですが、
”SNSや創作をしないと、トラウマや心の傷は癒えない”という一種の脅迫観念からは卒業するときが来たかなぁという感じですね。

創作は創作そのもので楽しむ、SNSも好きなこと楽しいことをゆるく呟く、トラウマや心の傷はそれはそれでそのものを見つめ直す。

といった感じでそれぞれを分けて考える方が健全かもしれないというのが今の心境です。このように考えることが出来てよかったと思いました。

なぜならばもし、創作やSNSでの発信のみで心の傷なりトラウマが癒されたなどという”間違った成功体験”を積んでしまった場合、
本来は向き合うべき”弱い自分””傷ついた心”が置き去りになっており、
それら捨ててきたはずの弱い自分に類似した特徴を持つ人と出会うたびに

「なんだかイライラする」

という症状を抱え、最悪にはその人達を攻撃(マウントを取るかのような発言を自身のブログで発信する)ということになってしまうからです。
というより、もうすでになりかけ、なっていると言っても過言ではないですね。
なので、きちんと”弱い自分”に向き合い置き去りにせず、癒すという途方もなく骨が折れそうな作業を今後は継続してやっていきたいと思います。


すっごく長くなってしまいましたが、「毒になる親」問題は千差万別であり、人それぞれ、あくまで今回の記事は私個人の経験によるものです。

余談ですが、創作によって何か鬱屈したものを表現するなら“一次創作”であればそんなに問題にはならないと思います。そうして調べたところ、
面白そうな企画を見つけました!

しかもテーマが「あなた」と「わたし」
毒になる親問題はけっこうな確率で”自他境界が曖昧”だったりして、それで子ども自身の存在が尊重されないことも多く、このテーマは描きやすそうではあります。う~ん、一次創作、何がいいかな?


 毒になる親問題は非常に根が深くて難しい問題であると思いますが、
時々「幼少期から健全に育った人とは同じにはなれない」などと絶望することもありますが、それでも諦めなければ救いはあるんだと思っています。

ここまで長々としたまとまりのない文章でしたが、お読みくださった方どうもありがとうございました。

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