『人間失格』太宰治著を評論する

 評論するのである。まずは主人公の名前である。春の彷徨、か、著者の『晩年』という処女創作集に、大庭葉蔵、を使っている。国木田独歩の『竹の木戸』かに、似た名前の主人公が採用されている。芥川龍之介も国木田独歩を『河童』に書いている。主人公の名前は重要だから、太宰治は、この二人は意識した。 
 一言で言えば、太宰治は、あの、信じることの天才だった妻が寝取られた時に、見た、白装束の御神像に神社で出会ったあの恐怖の場面を、書きたかったのだ。世間など関係なく、君たちは、人間に与えられている基本的な罪に、無関心じゃねえか。伝わる人にしか伝わらない、を、彼は、わかる人には言わなくてもわかる、と書く。太宰治は、ベクトルが上向きである。
 世間とは、君じゃないか。という名言も書かれている。家庭の幸福は、祈る、と、捨て、それでも、自殺の他になくなった。『我が半生を語る』という随筆があるが、太宰治はこう書いている、引用、
(キリストの己を愛するが如く汝の隣人を愛せよといった言葉を、私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別な意味があるのではなかろうか。そう考えた時、己を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、或いは己を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきましたが、然しそれはただ理屈です。自分の世の中の人に対する感情はやはりいつもはにかみで、背の丈をニ寸くらい低くして歩いていなければいけないような実感をもって生きてきました。こんなところにも、私の文学の根拠があるような気がするのです。 )
 人間失格、と、作者の自殺とは、切り離して読むのがたぶん正しいが、それは芥川龍之介が自殺したからなのだが(太宰治は太平洋戦争中に生きていた)とにかく、あんなものは、人間ではないのだ、もっと、上手に、生き延びよ、ただ、その姿は、私を殺すのだがな、と、さらに言えば、これは少しクサイが、 
 人間失格は、隣人愛から外れた隣人を殺す者だ。
 と言えば、さらに我々の読後感に近づく。

 このように、評論は、作品の主題を掘り下げ、その上で、作品を目立たせなければならない。

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