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ザ プロクラスティネーター/リー モーガン


ザ プロクラスティネーター/リー モーガン
BLUENOTE LA582-J2
1969/9/12、10/10

1960年代を迎えてからブルーノートに録音したリー モーガンのアルバムは、ほぼ本人がヤクに浸っていたとは到底思えないほど、バラエティーにとんだ内容で楽しく、聴き応えに溢れたものばかりだ。この時代、このクラスのレーベルとミュージシャンにとっては良いアルバムを作るのとヤクをやってるやっていないは関係はなかったのかなあ、と思う。でもヤクのせいで消えて行った多数の素晴らしい才能を持った音楽家や板挟みになりながらも苦労して傑作を作り続けたアルフレッド ライオンのことを思うと、やはりヤクを巡る当時のジャズ他の黒人ミュージシャンらが置かれた状況を無いことにしてしまってはいけないのだ。阿呆か!アメリカ合衆国。

もう一度、1960年代を迎えてからのブルーノートのリーモーガンのアルバムがバラエティーにとんで楽しい、からこの章に入り直すことにしよう。
それらを録音年月日順に並べると、
LEE WAY 1960 BN4034
SIDEWINDER 1963 BN4157
SEARCH FOR THE NEW LAND 1964 BN4169
TOM CAT 1964 LT-1058
THE RUMPROLLER 1965 BN4199
THE GIGOLO 1965 BN4212
CORNBREAD 1965 BN4222
INFINITY 1965 LT-1091
DELIGHTFULEE 1966 4243
CHARISMA 1966 BN4312
THE RAJAH 1966 BN4426
STANDARDS 1967 BNCDP7243
SONIC BOOM 1967 BNLT-987
PROCRASTINATOR1 1967 GXF-3023
THE SIX SENCE 1967~68 BN4335
TARU 1968 BNLT-1031
CARAMBA! 1968 BN4289
PROCRASTINATOR2 1969 GXF—3024

となる。ある程度突っ込んでブルーノートのレコードを聴いてきた人ならば、何か一枚でも大好きでたまらないアルバムはあるのではないでしょうか?そんなリーのアルバムが好きな人が、何故この期間のものに特別に愛着を持っているのか、理由をあげるなら、おそらくリーの不要なカテゴリー分けなどを無視した天真爛漫な姿に魅了されるからではないだろうか。とにかくリーのアルバムには所謂モダンジャズの主流はもちろんのこと、ブルース、スタンダードナンバー、ポップス、ジャズロック、カリプソ、そのうえ日本の唱歌まで取りあげていて、この点に彼のチャメっ気のある器用さと好奇心に心を奪われるのであろう。もちろん僕もその一人だ。
そしてそういう点が当時のリーが大スターとクリエイティブな音楽家と名トランペッターという三つをかけ持つ要素となったのだろう。

そんなリーの魅力が最も現れるのが、彼のカリプソの上手さだと僕は思っている。いや何を演っても最高級に上手いのだから、ここはその爽快な吹きっぷりの楽しさが凄いとしよう。リーが吹くカリプソナンバーが収録されているだけで、そのアルバムはリーの魅力に溢れた傑作となるのだ。例えば「ザ ランプローラー」に収録のECLIPUS。それに「デライトフリー」収録のCA-LEE-SOである。もうどれも参りましたと申し上げるしかないくらい心が弾んで楽しい。そしてこの2枚のアルバムは現在でも名盤としてジャズファンに愛されている。

ではリーのカリプソナンバーが収録されたもう1枚の、恐らく僕にとって一番好きなリーのレコードを紹介しよう。このリストでは最後になった、つまり60年代の最後を飾る「PROCRASTINATOR」である。録音はまさに1969年秋。
このアルバム、それでも世に出たのはリーの死後70年代になってから、BNLAの2枚組未発表シリーズとしてである。実はDoodlin’が所有しているのはこの2枚組なのだけれど、それは2つのセッションが1枚づつ収録されていて、その両方がPROCRASTINATORとしてまとめられ、しかもタイトル曲は今回は取り上げない方に収録されていてややこしいため、先ほどのリストにはその後日本のキングから別個で発売された方の番号で記載した。しかもそれも両方PROCRASTINATORで出たのだが、GXFというのがブルーノートファンが探し求めているキングのレコード番号である。そして今回紹介するのはその2だ。どうでもいいが、ご存知のようにBNLAシリーズよりキング盤の方が音が良いので、レコードを探してみたくなったオーディオ好きな方にはそちらをお勧めいたします。ただし値段は知らん。多分だけど個別で日本盤CDも発売されたことはあるはずだ。

そんな呆れたレコードマニアの寝言はさておいて、本レコードの参加メンバーはリーモーガン tp. ジュリアン プリースター tb. ジョージ コールマン ts. ハロルド メイバーン p. ウォルター ブッカー b. ミッキー ローカー ds.というブルーノートのリーのアルバムとしては幾分小ぶりというか地味なメンバーだが、その分本当にジャズが好きな人には好感度が高いプレイヤー達の集まりと言えるだろう。そしてこの高感度はまさに仲間意識にあふれたグルーヴ感に現れている。もう全曲が乗りに乗って、しかも全員がこれ以上望めないくらいの熱演ぶりなのだ。特にピアノのメイバーンの相変わらずそもそも手の抜き方を知らないのではないかというガッツ溢れる力演は聴いてて何度悶絶することか?
実は2枚あるもう片方の1としたPROCRASTINATORはウェイン ショーター、ハービー ハンコック、ボビー ハッチャーソンが参加したものなのだが、これが優れた芸術家が集まってしまったものの典型的なものらしく、知的で音楽性は高そうなもののそれほど面白くないため、購入した時に数回聴いてみたものの、その後全くというほど聴いておらず、印象はゼロだ。対してこっちのPROCRASTINATORはそれほど高度な音楽性は認められないものの、ジャズミュージシャンがそんな高名なアーティストを軽く笑い飛ばすが如く爽快感とブルース感覚に溢れていて聴きやすい。勝手にやらせてもらいまっさ、と言っている様だ。芸術家とジャズメンとの差か?そして全6曲がとてもポップで楽しいときた。
リーのアルバムとしては本作のもう一つ後が2枚組でかなりファンも多い西海岸ライトハウスのライヴ盤(70年7月録音)で、その前から仲間としてリーのアルバムではおなじみであるメイバーンとローカーはすでにグループの一員だったことはわかる。そして最近わかったことなのだが、サックスのジョージ コールマンもライトハウスのベニー モーピンの一つ前にリーのグループで活動していたそうだ。本作でもビッグ ジョージは目の覚める様なスマートでカッコいい力演を聞かせてくれているので、このジョージ参加のモーガン クインテットの録音もひょっこり出ないかな?と期待している。

そんな魅力にあふれたPROCRASTINATORに収録された6曲のうちの1曲が嬉しいことにカリプソナンバーのCLAW-TIL-DAである。作曲は何とドラムのミッキー ローカー。そしてこれが恐らく僕が考えるジャズカリプソ史上最高の名楽曲であり名演である。時間を測るとたった3分というこのカリプソは簡潔にまとめあげられている分、物凄いキレを持って軽快に演奏されていて、まさにリー モーガンここにありな楽曲とアレンジで、まるで南の島に一瞬で通り過ぎるブリーズの如く爽やかだ。そして重厚とくる。メイバーンも楽しく軽快なラテンフレイバーを本当に上手く弾いてくれている。僕はこれがあるので、このレコードを最高に愛する訳だ。本当にこの曲だけ売り出しても評判を取れるのではないかと思っているほどだ。

それにしても、あのドラム名人、ミッキー ローカーがこんなに素晴らしい楽曲を作ったことも驚きだが、彼のカリプソドラムのまあ上手いこと上手いこと!。実際このナンバーが心ウキウキさせられて傾聴に値してしまうのはミッキーのしなやかで縦横無尽なドラミングに圧倒されるからだというのは間違いない。
これまでのリーが取り上げた2枚の名盤のカリプソドラムは共通して名手ビリー ヒギンズである。当然上手過ぎるほど上手い。しかしあくまでもジャズ的に上手く、プロのドラマーがテクニック論で分析したら説明できる上手さであると思う。もちろんそれはヒギンズの素晴らしさとは何の関係もない。それに対してミッキーのカリプソの上手さは何か土着的というか体内に流れる血からくるものだと感じる。

ミッキー ローカーは1932年フロリダ州マイアミで生まれた。もうこの時点でマイアミとカリブ海というキーワードでピンと来られる人もいるのではないか?そう、あのギャング映画の名作、ブライアン デパルマ監督アル パチーノ主演の「スカーフェイス」(1983)はキューバから流れてきたチンピラがマイアミの暗黒街でのし上がり自滅する物語だった。つまりマイアミという街はカリブ海諸国から渡ってきた人々が集まる街なのだ。あとは「お熱いのがお好き」に出てくる金持ち白人か。ウィキペディアによると現在は65.76%がヒスパニックまたはラテン系であるという。ということは、そこで生まれたミッキーにはカリプソを生んだトリニダード トバゴなどの西インド諸島の血が入っているのは充分考えられる。ミッキーは10歳の時に母を亡くしフィラデルフィアに移住して、ジャズが好きな叔父さんにドラムセットを買ってもらい、ジャズドラマーとしてのキャリアが始まったらしいが、アメリカという国は都市に行くと同国人で集まりコミュニティーが生まれるものである。フィラデルフィアも例外ではないだろう。ミッキーもそんな西インド諸島出身者の街角でカリプソのリズムを吸収して行ったのではないだろうか?

カリプソを演奏したジャズジャイアントといえば一も二もなくソニー ロリンズだろう。ソニーは母が西インド諸島のセントトーマス島出身であったため自分で作ったカリプソにセントトーマスと名付け発表し、決定的な評価を勝ち得た。彼は70年代になるともっと積極的にカリプソを演奏し出し、THE EVERYWHERE CALYPSOやDON’T STOP THE CARNIVALなど素晴らしい名曲名演を残しているが、ロリンズはセントトーマスを発表した1956年から70年までの中間に当たる1965年にも大変素晴らしいカリプソを演奏している。インパルスに移籍してすぐにワンホーン編成として出された「ソニー ロリンズ オン インパルス」に収録されたLET ‘EM JOEである。こちらはロリンズらしく止め処もなく溢れるフレージングを時間を気にせず思い切り吹き切るといったカリプソだが、このレコードでも軽快に心地良いカリプソドラミングを披露してくれているのがミッキー ローカーだ。当然これぞカリプソというもので血湧き肉踊る。このレコードの他メンバーはピアノがレイ ブライアント、ベースがPROCRASTINATORと同じウォルター ブッカーだ。レイ ブライアントもフィラデルフィア出身だが、ブレイキーが「ドラム組曲」や「オージー イン リズム」「ホリデイ フォー スキンズ」などアフリカ回帰物を作る時は必ず呼ばれて素晴らしいピアノを聴かせてくれたし、自身が作曲したCUBANO CHANT(キューバの祈り)はラテンジャズの紛れもない名曲中の名曲である点からして、恐らくロリンズの母上と近いルーツを持っているのだと思う。両方で土着的でアーシーな快演を披露するウォルター ブッカーは確信はないがミッキーの作ったCLAW-TIL-DAの曲名にヒントを与えた可能性を後述するとして、やはりカリプソピープルに近い所にいた可能性は高い。そういえばウォルターの名が最初に知られたのはフロリダ出身のジュリアン キャノンボールとナットのアダレイ兄弟のグループに入ってからだ。この様に「ソニー ロリンズ オン インパルス」はカリプソナンバーが1曲だけとはいえ、それが圧倒的に凄まじく聴き応えがある所からしてロリンズのカリビアン血筋繋がりで集められたメンバーでの作品だったといえるのではないか。

そんなCALYPSOというのはどんな歴史を持つ音楽だったのか?
まずアメリカ合衆国が生まれる前、1492年にコロンブスが最初に上陸したのは大陸ではなくサン サルバドルというコロンブスが勝手に名付けた西インド諸島のある島であった。まあそれ以外のコロンブスの知識なんて全く無いので今回はパスするが、この西インド諸島というのは地球が丸いことを証明しようとしたコロンブスが、てっきりそこをインドだと思い込んだおかげで名付けられたという。島の人々からすれば迷惑な話だ。しかし迷惑な話としてはそんなものは序の口で、これが新発見の土地だとわかった欲深いスペイン、フランス、イギリス、オランダといったヨーロッパの強国は瞬く間に占領して植民地化し、その開拓のためにアフリカから大量の奴隷を送り込んだ。そして後で発見して開拓しようとしたアメリカ大陸に奴隷を送り込む途中でどこかの島の港に立ち寄り奴隷を降ろした。アメリカの黒人音楽が常にカリブ地域とリンクしているのも、ニューオリンズがアメリカ南部文化圏ではなく、実はカリブ海文化圏の最北端であるといわれている理由はそういう所であるとか。
カリプソはそんな奴隷達が言葉の代わりに音楽でコミュニケーションを取る手段として、またその気候に合った形でアフリカ人独特のリズム感と融合して生まれた。これはアメリカ合衆国でブルースやジャズが生まれた経緯とさほど変わらない。

やがてカリプソを生んだ国とされるトリニダード トバゴは合衆国より26年遅い1834年、奴隷輸入は禁止され、奴隷達は街の年に一度のカーニバルへの参加が許されることになるが、このカーニバルを盛り上げるのに大いに貢献したのがカリプソだった。だからロリンズのドントストップ ザ カーニバルはカリプソを止めるなという社会的な意味も持っていることになる。
第二次大戦後の1940年代後半、カリブ海域の黒人達は徐々に祖国を離れ、アメリカやヨーロッパに移住して行きソニー ロリンズ、ウィントンケリー、ディジー リース、チャノポゾなどカリブ地域の血を引くジャズミュージシャンが各地で一斉にアフロキューバンなどラテンジャズを広めるきっかけとなる。カリプソに関してはアメリカではハリー ベラフォンテがバナナボートを流行らせるなど世界に紹介されて行くと同時に、グレナダ出身の人気カリプソミュージシャンであるマイティー スパロウはケネディーとフルシチョフやマーティン ルーサー キング、スレイヴ、バナナを食べるカストロなど社会風刺を帯びた内容のカリプソを発表する。

黒人社会に目を向けたというならミッキー ローカーも同じだ。ミッキーが作曲したCLAW-TIL-DAというのは1859年または1860年にアメリカ合衆国に最後の奴隷を密輸したCLOTILDA号をもじったものではないかと考えられる。この船が最後に奴隷という荷を降ろしたのは石油会社で有名なメキシコ湾に面したアラバマ州モービルで、その後証拠隠滅のためか、そのモービルの沖合いに沈められた。僕はこの船を捜索するドキュメントをNETFLIXで観た途端に気づいた。この船は恐らく合衆国に入る前はメキシコ湾を航行して来たのだろうから、それをカリプソに絡めるのは理解できるし、もしそうならやはり当時便利屋と心ない日本のジャズファンに揶揄されたミッキーも黒人人権運動に目を向けた黒人意識の高いジャズミュージシャンだったのだなあと思う。

しかし別の説も浮上する。それは「フットプリンツ 評伝ウェイン ショーター」で知ってしまったのだが、このレコードでベースを弾くウォルター ブッカーの義理の娘の名前がクロティルドちゃんというらしい。
ウェインはアナ マリアという女性と恋に落ち結婚する。そのアナはウォルターの妻であるマリアの妹だ。つまりウェインとウォルターは義理の兄弟になるのだが、そのことはあまり知られていない。で、クロティルドちゃんはマリアのいわば連れ子であったが、ウェインのライブを観に来た叔母のアナにウェインを紹介した張本人であったという。この姉妹も娘もポルトガル=ブラジル系の絶世の美女でウォルターとマリア夫妻は当時のニューヨークのヴィレッジ界隈では有名なオシャレカップルであり、ものすごい人脈を有していたという。ただしその義理の娘の名前とミッキーのCLAW-TIL-DAに関係があるのか、または単なる偶然かは、この本にクロティルドちゃんの英語表記が記載されておらず謎のままだ。

ミッキーのCLAW-TIL-DAは奴隷船からつけられたのか?仲間の可愛い義理の娘からつけられたのか?ジャズ界は名が通ると文献も出て色々と解明されていくのにミッキーの様な、しょうもないジャズ喫茶族に「ああ、便利屋やん」(本当に聞いたのだ)と片付けられるアーティストのことは全く研究されない。さみしい話だ。

もちろんあのミッキーに便利屋なんて言われて僕が黙っているわけはない(35年も前の話だけど)。
しかし、ミッキーの偉大さはナニが上手い、ナニを開拓したのどうのこうのよりも、彼を必要とした偉大なるジャズアーティストを列記するだけで充分事足りるのであって、その方が反発心だけが先走りして、結局言葉足らずでちゃんと説明できないノータリンの僕の考えなんか述べるより100,000,032倍早い。
そんなミッキー ローカーを必要としたジャズアーティストは、リー モーガン、デューク ピアソン、 ホレス シルバー、レイ ブライアント、ジュニア マンス、ミルト ジャクソン、レイ ブラウン、ディジー ガレスピー、スタンリー タレンタイン…ちょっと思い出すだけで軽くこのくらいは挙がる。ミッキーを必要としたジャズアーティストの数は錚々たるを通り越して壮絶ではないか?このうちミルトやレイ ブラウンなどは、伝統的なジャズの上手さを買われてのものだろうが、デューク ピアソン、ホレス、ガレスピーなどは激変する黒人社会に対して常に変動した音楽性を取り入れた人物であったといえる。ミッキーはそのどちらにも対応できたうえ、人を惹きつけるドラマーだ。どれだけ柔軟だったのだ。そして絶対に見逃してはいけない事実として、それらのアーティストのほぼ全員が、ミッキーの参加アルバムを1回切りで終わらせてはおらず、何度もレギュラー的に起用している点だ。こんなドラマーは他に見当たらない。これが便利屋だと?、恥ずかしげもなくよく言えたものだ!

そんなミッキーの功績に気づく前に、関西に住んでいる僕は思いがけず、ミッキーの凄さを知る機会にありついている。80年代末くらいだろうか?関西在住のベーシストで、アメリカからミュージシャンを呼ぶプロモーターも兼用していた西山満さんが、このミッキーを呼んで関西の凄腕ミュージシャンと共演するライブを年に2回くらい主催してくれていて、毎回楽しみにして観に行っていたのだ。会場は主にロイヤルホースという老舗ジャズクラブで、たまに芦屋のレフトアローンなどでも行われていた。忙しいはずのミッキーだが、この時のほとんどは西山さんに呼ばれたというだけでの単身来日だった様で、関東方面で演奏したというのは聞いていない。
ミッキーはこの時、トランペットの唐口一之さん、テナーサックスの宮哲之さん、ピアノの竹下清志さん、岩佐康彦さん、田中裕さんといった当時ベテランの域に達しようとした関西が世界に誇る凄腕達とギグをしてくれたのだが、まあこれらの内容の濃いことと言ったら、到底口では言い表せないものだ。バップチューン、スタンダード、バラード、その他全てで間違いなくホンモノのジャズドラムを聞かせてくれ、おまけにそれらが風貌通り優しさに満ち溢れていた。今思い出しても人生で最良のジャズ体験であり、僕はミッキーと西山さんにジャズとは何かを教えてもらったと断言する。
よく良いドラマーに対しての賛辞として、大音量で叩くのにうるさくない、というのは僕も聞いてはいた。そういう意味ではミッキーはその典型的な例の良いドラマーだ。しかしミッキーの場合はそんな手垢のついた賛辞の範囲を超越していたのは明確で、とにかくレヴェルが違うのだ。これでも僕はその素晴らしさを上手く表現出来ないのがもどかしいのだが、なにせそれを素で演ってしまう上に、ジャズの本質を教えてくれるのだから。
そんなミッキーのドラムの素晴らしさは毎回演奏してくれるBlues Marchで特に堪能出来た。
そして、ホンモノ志向の西山さんとミッキーというホンモノが組んだからこそのSlow Bluesは、もう全員がどっぷりとブルースに集中し、聞いていて凄いミュージシャンが本当に集中すると、ここまで壮絶なものになるのかというのを知らしめてくれた。

そして!必ず出ますカリプソナンバー。いつもブルー ミッチェルのFungii Mamaだったが、僕らはあのミッキーのカリプソを生で拝聴したのだ。この時のミッキーの背後には400年のカリブ海の人々の魂が降りて来ていたのを僕ははっきりと見た。嘘ではない。
それ以降、僕はスローブルースとカリプソを演らないジャズライブに不満を持つようになった。

当時月刊プリーチャーという関西限定のジャズフリーペーパーの編集に携わっていた僕は、このミッキーとカリプソの関係についてインタビューをさせてほしいと西山さんの経営するジャズ喫茶SUBに頼みに行く計画を立てた。ミッキーが何故こうもカリプソが上手いのか、そしてCLAW-TIL-DAを作曲した背景は?を探りたいという思いだった。そうすれば、少しでも毎回こんな素晴らしいホンモノのジャズが人々に認知されないまま終わることはないのではないかと思って。というのはSNSの無いこの時代、いつもそれほどの集客が無く、ファンの僕が悔しい思いをしていたからだ。
といってもまだジャズ喫茶で、便利屋などとミッキーが片付けられていた時代、それも無理だったとは思うけど。

しかし昔のジャズ喫茶でジャズを覚えた人って、なんで既に評価の固まった人物だけが偉大で、そうでない人を見下す言動を取るのかね?今回のテーマからは脱線するが、権威主義って言うのかな、そんな人がちょっと多すぎやしないか?それとも「あとは駄目」とか「あとは邪道」という発想をするのは日本人の性質なのか?何にせよ悲しい話だ。

そんなインタビューの話は、西山さんに会った時にミッキーは現在フィラデルフィアでスクールバスの運転手をしている、そんでミッキーほどの人格者はアメリカのジャズ界にはいない!と教えられたにとどまり、残念ながら持ち出せずのままになってしまった。もし依頼すれば西山さんのことだ、喜んで乗っていただいたのでは無いかと思う。後悔が残るところだ。

そんな西山さんは2011年、数日前まで元気にベースを弾いておられたのに突然の訃報が届く。

ミッキー ローカーは最後のMJQのドラマーとして来日した後、2017年逝去。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。

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