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テアトル シャンゼリゼのジャズメッセンジャーズ


テアトル シャンゼリゼのジャズメッセンジャーズ
RCA RGP-1179
1959/11/15

1958年、クラブサンジェルマンでパリの人々を興奮の渦に巻き込んだアート ブレイキーとジャズメッセンジャーズは翌59年もフランスへのツアーを行う。メンバーはブレイキーにジミー メリット、リー モーガンが同じで、ピアノはキャノンボール アダレイ グループに移ったボビー ティモンズの代わりにウォルター デイヴィス(代わりなどとは失礼なほど、素晴らしいプレイ!)、始めから短い期間と約束してて、アート ファーマーとのグループを結成したベニー ゴルソンに代わってウェイン ショーターというメンバーである。レコーディングデータ上ではゴルソンとショーターの間にはハンク モブレーの出戻り参加があったのだが、モブレーの芸術家であるがゆえの悪癖で、いつも時間など守らないばかりか、ギグにも来るか来ないかわからない状態で、大きなフェスティバル出演にも穴を開けたのにブレイキーがとうとう引導を渡し、その時たまたまメイナード ファーガソンのビッグバンドで吹いていたショーターに白羽の矢が立ったという。なにやらファーガソンのバンドを見ながら、あいつを呼んでこい、とリー モーガンをけしかけてファーガソンから強引に奪い取ったという。ショーターはその時、ニューアーク フラッシュと呼ばれシーンでは話題になりかけていた矢先だった。ちなみにその時のファーガソン バンドのピアノはジョー ザビヌルであった。
そういう経緯でショーターはメッセンジャーズ入りをし、その後の1959年11月10日にはブルーノートに「アフリケイン」を録音。そしてその4日後の11月14日には荷物をまとめさせられ、フランス行きの飛行機に乗っていた。ショーターにとって初の海外遠征だった。飛行機ではファーストクラスより上のVIPルームが用意され、ショーターはそもそも好きなコニャックをガブ飲みしたという。多分何が何やらわからなかっただろうな。

今回紹介するメッセンジャーズのパリ、オリンピア劇場のコンサート実況盤は、そんな一行が到着した当日の11月15日の公演の模様であるので、ショーターはまだ飛行機の酒が残っていた状態だったかも知れない。

しかし、そんな戸惑いや二日酔いなどどこ吹く風、このコンサートではとんでもない凄いテンションの演奏をくりひろげ、その模様がレコードになってしまった。ただ、このレコードの邦題であるテアトル シャンゼリゼとオリンピア劇場の関係はよくわかりません。
ブレイキーは何かにとり憑かれた様にソロイストを煽り上げ、終始雷神の如くなグルーヴを送り続けているし、それに乗せられたフロント陣は目が行っちまってる様子が音を聞いていても感じられる。大爆音!大激演!大グルーヴの嵐に聴いているこっちが頭パーになってしまいそうだ。特にバップチューンのレイズ アイデアは元々の楽曲がこんなだったか?と疑問を持ってしまうほどの大熱演で、メッセンジャーズの恐ろしさまでをも知らしめてくれる。また新人として紹介するために選ばれたのだろう、ショーター作のレスター レフト タウンはその前の「アフリケーン」でも取り上げられていたし、帰国後の「ザ ビッグビート」にも収録されていたが、ここで一人フィーチャーされたショーターはまるでかつてのイリノイ ジャケやアーネット コブを彷彿させるブローテナーを吹きこなしている。その後のリーも交えての4小節交換バトルは間違いなくジャズ史に残る荒々しさだ。いざ始まれば以前のカテゴリー分けなどお構いなし、人類の平和にためにジャズを演るブレイキーの魂の表れとしてのジャズメッセンジャーズはここで一旦完成している。遊び上手でトレヴィアンなパリジャン、パリジェンヌも、クラブの様にはいかないが、我を忘れるかのごとき歓喜の声をあげているのも当然だ。

そんなブレイキーが1959年末にここまでテンションが上がりきった原因は何だったのだろうか?
僕はまずウェイン ショーターという風変わりな天才を得た事で怖いものがなくなったという開き直りともいえる感情の爆発と、この頃からいよいよ激化した黒人人権運動により、イスラームであり元々黒人意識が高かったものが我を忘れるほど鼻息荒く駆り立てたのが原因なのではないかと思う。
しかし、この鼻息の荒さは、このフランスツアーの後半にとんでもない事件を巻き起こすことになる。

メッセンジャーズはこの劇場への出演後、同じくフランスのマルセイユに行きギグを行う。そこでは何のトラブルもなく、ショーターらは地元民の歓待を受け大いにご機嫌なひとときを過ごした。
事件はその2日後、同じフランスでもアフリカ大陸に渡ったフランス領アルジェリアの首都アルジェで起こる。よりによって当地の劇場に招かれてしまったのだ。事件の発端は一行がアルジェの空港に到着した直後に起こった。メッセンジャーズの付き人として同行していたアメリカ黒人であるゴールディーさんが、鷲鼻で顔が中近東ぽいという理由でフランス当局に連行されてしまったのである。なお、リー モーガンは優しくてメンバーにも慕われていたゴールディーさんを題材にこのツアーに先立ってゴールディーという曲を作ってオリンピア劇場でも披露している。

フランスの植民地であったアルジェリアは1954年から独立を叫び、まさに戦争状態だった。しかも時の大統領シャルル ドゴールはこの2ヶ月前の9月、コロンと呼ばれるフランス植民地人への支援を打ち切り、まさに両国間で殺戮に次ぐ殺戮の無法地帯と化していた。一行がアルジェ入りした時も街のあちこちには銃を構えたフランス軍兵士が並び、アトラス山脈からは絶えず銃声が鳴り響いていた。そしてどこに行ってもテロによる爆発の恐怖。
こんな状況の下でブレイキーとJMにはコンサートを行えという事である。知らないというのはわかりやすいというか怖い事で、フランス側の主催者はブレイキーが他のアルジェリアの民と同じイスラームだとは知らなかった。知っていれば自らそんな地雷を踏む訳はない。しかし踏んだのだ。

まず、ブレイキーはこのコンサートに同じイスラームのアルジェ市民にも鑑賞してもらえる様に値段を安くして、席の分離など行わない様にと主催者に申しつけた。
しかし、結果として幕が上がると劇場に来ていたのはタキシードを着た白い顔のコロンばかりだった。
そもそも、我々はジャズミュージックを世界に広める使命を神に仰せつかった使者である、という理念でメッセンジャーズを運営していたイスラム教徒のブレイキーがこれに怒らない訳はない。ブレイキーは第一部が終了する前に自らマイクの前に歩み出て、あのドスの効いたガラガラ声で「皆さん、こんな不公平がまかり通っているところでは、これ以上ステージを続けられません」とアナウンスして、会場を去ろうとした。突然のこととはいえ会場からはヤジと怒号が高らかと鳴り響く。そこでブレイキーは振り向き、メンバーに「みんな死ぬ勇気はあるかな」と言う。気持ちが最高潮に高まっていたメンバーは「はい、あります」と答えてしまい、イスラームの神典であるコーランを手に取ったブレイキーに続いたという。会場はまさにパニック。怒った白人達は暴徒と化し一行を取り囲み、罵声を浴びせかける。何とかしてお迎えの車に乗ってリーモーガンがドアを閉めるやいなやガラスに唾が吐きかけられたという。
アート ブレイキーのメンバーを束ねる能力の高さは今さらながらに取り上げる必要もない。またその人並み外れた身体能力とぶっ飛んだまでの言動で、何かとエピソードが多い人物である。しかし、いくら何でもこのエピソードは衝撃的で、こんなことがあったなんて、にわかには信じられない事だ。僕はこれを2006年に出版された「フットプリンツ 評伝ウェイン ショーター」で知ることになったが、こんな事があったなんて、今まではおそらく当事者だったフランスとアメリカの一部の人達しか知らなかったのではないか?だとしたら1961年の来日以降、我が国でアート ブレイキーについては色々と論じられてきたのだが、その全てがこの話を知らないで語られていたことになる。僕もそうだ。このブレイキーの行動をどう取るかは宗教も絡むので人によって違う。だから僕は何もこれによってブレイキーが偉大だと思えとは強要しないが、ブレイキーにはまだまだそんな強烈なエピソードが残っているかも知れないし、残っている可能性は高い人物だと主張したい。そしてそれらのほとんどに日本人が知ろうとしなかったジャズという音楽の正体が隠れているのではなかろうか。僕はそんなブレイキーとほんの数年でも時代を共有できたことを心底から有難いと思う一人だ。

そんな背景になったアルジェリア戦争だが、親父譲りの映画ファンである僕は、かつてその戦いをセミドキュメンタリータッチで描いた映画「アルジェの戦い」があり、これは映画通の間では、映画史上最高の戦争映画であると評価されていることは知っていた。
「アルジェの戦い」は戦争がアルジェリアの勝利で終結した1962年から4年後の1966年にイタリア資本で制作されたモノクロのセミドキュメンタリー映画で、監督はジッロ ポンテコルヴォという人。「自転車泥棒」を観た後のトラウマが尾を引いているので、辛すぎるイタリア映画は詳しくなく、どんな監督さんか知らない。しかし「評伝ウェイン ショーター」を読んでブレイキーのエピソードを知った僕は、映画「ジャッカルの日」も好きだったこともありアルジェリア戦争自体に興味を持ち、一度その映画を観てみたいと願う様になったが、DVDも出ておらず半ば諦めていた。
が、待った甲斐はあったというもので、映画を観れるチャンスはやって来た!今から2年ほど前だっただろうか、神戸の新開地の映画館シネマ神戸において、「アルジェの戦い」が上映されるニュースが舞い込んで来たのだ。まだ元町Doodlin’はやっていたし、コロナ禍まっ只中で暇だったので、僕は初日にレッツゴー!

「アルジェの戦い」は噂以上に緊迫感に溢れた恐ろしいまでにリアリティーのある作品であった。いや、これは確かに戦争映画史上の最高傑作かも知れない。緊張感でいえば、「ディア ハンター」を超えているところもあるくらいだし、コントラストの効いたモノクロ映像は常に不安を煽り、その通りむごたらしくアルジェリア人もフランス人も銃弾か爆弾で次々と倒されていく描写やアルジェリア人に対する拷問の描写が恐ろしい。まるで自分が銃撃戦の中に立たされたか爆弾を持たされた様だ。映画が好きな方ならお分かりでしょうが、このカラーが普通になってからの、あえてのモノクロ映画のリアリズムによる迫力である。
そして映画には一切ジャズなど使用されていないにもかかわらず、僕の頭にブレイキーの事が残っていたものだから、劇中のあらゆるシーンに常にメッセンジャーズのクローズ ユア アイズやレスター レフト タウン、ジャイアンティス、ゴールディー、ヤマなどがどのシーンでも頭の中で鳴っている始末だった。こんな所にメッセンジャーズがいたのかという感慨が心をえぐる。メッセンジャーズがこの紛争の全てを物語っていたのだ。それにこんな状況でイスラームのミュージシャンがコンサートをボイコットしたら、テロの恐怖におののく毎日を送っていたフランス人はそりゃ怒るはな。いや、怒るというよりも命がかかっているのだから仕方がなかったのかもしれない。映画はそんなことまで感じさせられた。
映画の音楽はかのエンニオ モリコーネだ。なのにその音楽を心にきざまず、映画とは関係の無いジャズメッセンジャーズを心で聴きアルジェリア戦争を知る。ブレイキーの持つ強い黒人意識から生じるメッセンジャーズの社会性が僕の脳を支配してしまったのだ。エンニオさんに対して非常に失礼なことをしてしまったが、映画「アルジェの戦い」は僕にとってメッセンジャーズをもっと知る映画になった。。ブレイキーの信念通りジャズメッセンジャーズは神の使者として世界を巡っていた。言い換えれば神が必要としたところにブレイキーはいたのだ。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。

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