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日本の美意識9 さび

「自然をもとにした日本の美意識」9 さび

「さび」は寂しさや枯れたものに風情や趣を見出し、そこに「美」を感じる繊細な感性で、世の中のものは全て劣化し、朽ち果ててゆく運命にあるが、そんな時の経過と共に移りゆく姿や、いつかは消え去ってしまうであろう劣化が進んだものを、美しいとか風情があると感じる心とされる。「寂しい」、「錆びる」が転じた語である。

「さび」の語は『万葉集』において「さぶし」あるいは「さびし」としてみられる。

愛しと念ふ吾妹を夢に見て起きて探るになきがさぶし
 作者不詳 巻十二 2914 
櫻花今ぞ盛と人はいへど我がさぶしも君とし在らねば
  大伴池主 巻十八 074

鈴木恵子は、これらの歌におけるさびは、「「わび」と近似した「愛の満たされない状態の嘆き」である」が、「勅撰集時代になると「自然界の風物を対象につかわれて来る。自然界の風物のきびしさの情調を、美意識をもって、詠む傾向がでてくる(中略)勅撰集時代以降、「さび」には、「寂」の意味の他に「錆」「古び」「荒ぶ」という意味を持ってくること、そして、美的要素が伴って(49)」くると述べる。
さびは、わびたものに対する感情的な美意識ではないだろうか。

わびたものに対する感傷

ヒトは、自然に何を求めるのであろうか。それはヒーリング的な安らぎであったり、変わりゆく自然を愛でることであったり、あるいはそこに自らの感情を重ねたりと多種多様だろう。
そのひとつとして、いつか朽ちてなくなってしまうものに、心を動かすという面があると考える。
生命体であれば、それは命つきる死であり、物質であれば消滅だろう。植物であれば、枯れてゆく様子、建造物であっても、そのかたちが崩れおちてゆくさまであり、石や岩であれば苔むし、あるいは水などに浸食され、その形や姿をかえてゆく様子など、自然には果てるまでの変化があり、我々は、そこに心をひかれる。
「錆び」という現象は、全てのものが逃れられない朽ちてゆく姿である。そこには、無常観でみた、いつかなくなるという考えが重ねられる。このように、錆びにみられるような、果てに向かうものに対して感じるものが「さび」である。
果てに向かうものとは、秋から冬に属するものである。つまりわびたものである。

俵屋宗達《風神雷神図屏風》

ここで、俵屋宗達の《風神雷神図屏風(以後「宗達本」)》の「錆び」に注目してみたい。宗達や本阿弥光悦(1558~1637)が手掛けたものは、王朝文化復興の気運がみられ、春夏属性のインパクトのある華やかなものが多い。
宗達本は、二曲一双の右隻に緑の風神、左隻に白い雷神が描かれ中央は金箔のみの大きな余白となる。このように、色彩的にも二神のポージングも派手であるが、シンプルで最小限のものしか描かれない構図は、わびたものであると考える。
宗達本の風神雷神は災いをもたらす邪神という点からみるなら、秋冬に属するだろう。二神の足元を覆う雲には銀が用いられているが、現在はそれが燻銀となって黒雲としてみられる。私は、わざわざ経年変化がある銀を用いた理由を、宗達が「変化すること」をみせるために意図していたのではないかと考える。キラキラと輝く効果だけなら、扱いにくい銀より雲母を使うなど他の方法もあるだろうが、風神雷神の秋冬の属性が、変化する銀により、時の移ろいを感じるように強調されているのではないだろうか。
林進は『宗達絵画の解釈学』において、風神雷神はそれぞれ勢至菩薩と観音菩薩をあらわしており、中央の大きな余白には阿弥陀如来の面影を感じると述べる。風神雷神は秋冬の属性だが、観音と勢至菩薩及び阿弥陀の三尊は春夏の属性だろう。ここに属性の転換がおこるが、それもこの屏風の面白さであり、そんなことを思うのも「さび」なのかもしれない。
阿弥陀三尊といえば末法思想のころ描かれた「来迎図」があるが、そこには、肉体はいつか果てるという無常が浮かぶ。この果てるという無常観も、経年変化する銀が象徴的に表しているともとれる。
これらから、宗達本は、構図、モチーフ、基となる無常と、幾重ものわびの仕掛けが施されている。
そしてそこからみえるものは、かつて心敬が説いた「冷え」ではないだろうか。つまり、秋冬属性の誘導材から、しみじみと感じる眼には見えず言葉に表せない冷えの感覚が「さび」なのではないだろうか。

田中は「心敬が至った、行きつく先の、無いものから、冷えを感じるという、説明が難しい境地は、「「幽玄」を突き抜けて「さび」に近づいているように思われる。」と述べる。
わびたものに感じる冷えが「さび」であり、それは、「冷え」から「冷え」を感じ至るという、それまでの価値観や美意識を総合させた美意識であるだろう。

しかし、秋冬属性のものの価値を見出すのは、春夏属性のものに比べて難しい。

秋冬属性のものの価値

例えば、1980年代に大ヒットをとばしたTM NETWORKのライブが7年ぶりにあった(2022年9月)。還暦をとうに過ぎた3人の姿は、秋属性の老人であった。人気絶頂のころの姿は、夏属性であり、若々しくパワーあふれる姿はキラキラとまぶしく、誰もが素敵と感じただろう(好き嫌いは別である)。そのように、春夏属性の「良さ」は理解しやすく伝わりやすい。比べて現在は、そのキラキラとまぶしい姿はみられない。そこに昔の姿を追う者は残念な気持ちになるかもしれない。あるいは、還暦をすぎても頑張っていて素敵だと見る者もいるだろうが、それは「頑張っている」という、向上するような春属性の感情に対しての賛美であり、老いた姿への価値をみいだしたものではないだろう。しかし、姿こそ老いて輝きはないが、そこには今でしか感じられないものがあった。それまでの経験から得た技術や表現、あるいは人生の苦楽からにじみ出る哀愁のようなものが感じられた。

春夏属性の価値は、表面的にも伝わりやすく、対して、秋冬属性の価値はその内面に眼を向けなくてはならない。そのように、その価値を見出すためには、受け手もテクニックが必要なのではないだろうか。それは、物事を一面からだけでみるのではなく、視点をかえてみることであり、そこに感じる心も、ひとつではなくいくつかの感じ方ができることを必要とされる。それらは、一朝一夕に身につくものではなく、多くの経験を得て、心に感じられるようになるものである。それを心敬は、道とあらわし、冷えの境地に至るためには、鍛錬(修行)が必要であるとしたのだろう。


唐木も『日本人の心の歴史』で「心敬のそれは無における有の幽玄、否定を経たそれ」であるとした上で、「畢竟空を媒介にしての有から無への転換、深きから浅きへの再出発はまた芭蕉の、格(型・基本)に入りて核を出るや、高く心を悟りて俗に帰るの自在の風雅を思い出させ、また最後の境地も軽みへの進みを思い出させる」と述べる。

菅基久子『心敬 宗教と芸術』
いかばかり堪能利根の好士も、心地の修行をろそかにてはいたりがたしの也。『ささめごと』末
をあげ、「道」について述べる。

また、唐木も心敬の心の修行について、仏道視点からの修行を重んじ、心を無にしたときに得ることができる境地であろうと述べる。


さび

自然に対し何かを感じるということは、古来から誰もが持っていた。その感性のひとつである「しみじみ感じる」ものを平安のころに「あはれ」とあらわした。
中世になり「あはれ」はどこにあるのか考えるようになり、それは特に目には見えない、あとをひく面影のようなもので、余情としてある。と長明が説いた。余情は、以前から目には見えず心に感じる「幽玄」として認識されていた。
同じく中世は、殺伐とした世にあり無常観が浸透していた。欠ける月、散る花などの消極的なものに己を投影し、それらに儚さや寂しさを感じた。
無常観で認識された、衰退へ向かうものや不足のものは、「わび」として価値を見出された。そして、わびたものに感じる幽玄のしみじみ思う心、とりわけ「冷え」の感覚をみるのが「さび」である。
つまり、さびは、秋やあるいは無となる冬属性のもの(わびたもの)でも達することができるようになった冷えの心持ちで、いきつくところまでいきついた究極の美意識なのであろう。




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