オートバイのある風景20 機材としてのバイクと愛すべきライダー達
会社の将来性や仕事のやりがい、自分らしい暮らしについてそれなりに考えた上で始めたバイク便の仕事だったが、時代の変化と自分自身の環境の変化などから廃業という決断に至るまで、約7年に渡って営業する事が出来た。
その間、僕が仕事の機材として使ったバイクとライダー達の事を少し思い出してみたい。
まずは何と言ってもこれ
ホンダVTR250
トータルで5台使い倒した。うち1台は10万kmを超えた時にアルバイトの中でも1番のメカ好き、自動車系専門学校に通っていたK谷にエンジンをオーバーホールさせてみたのだが、オーバーホールする前もした後も回転のフィーリングにあまり変化が無いというのもかえってホンダの凄さを感じるところであった。
また、20万kmも走ると思いもよらない所が壊れるというのもVTRで知る事になった。まずサイドスタンドの底のプレートが剥がれて落ちた。それからキーがイグニッションONでもスルッと抜けるようになる。ストップ&ゴーの多いバイク便ならではである。ちなみにうちは地域性からか市街地走行より長距離便が多かったがそれでも、なのである。
とにかく丈夫で故障知らず、僕自身も長距離で疲れない乗り方、走り方はVTRに教わったと思っている。
それからO倉君からもらったセローでトレール車のメリットも感じて増車したのがスズキのジェベル250GPSバージョン。プライベートも含めて唯一のスズキ車だが、要は僕がちょっと乗ってみたかったんだと思う(笑)。スズキらしい硬質な乗り味。こっそりキャンプツーリングにも使いました。
ライダーから「スクーターを買ってくれ」と何度頼まれてもガンとして首を縦に振らなかった僕が営業後期にやっと導入したのがホンダのPS250。
まぁ、これも乗ってみたかったんだと思う。娘とタンデムツーリングにも出掛けたなぁ。
機材というからには思い入れなどは抜きにして選択すべきなのだろうけれど、こうやって思い出すと「機材」という大義名分の元、随分好き勝手にバイクを買う事が出来たこの7年間は本当に僕にとって楽しく、今でも大切な時間だったのである。
また、人にも恵まれた7年間であった。このシリーズにも登場した、マネジャー役のY下をはじめ、甲子園出場経験のあるN島、夜中に寒気がすると言って電話をかけて来て一晩中僕に看病させたI川、卒業して自A隊に行ったはずがいつの間にか逃げ帰って来たY山…といった地元国立大の学生たち。中には一部上場企業に就職して卒業した学生もいたし、何しろみんな卒業ギリギリまで勤めてくれたのが嬉しかった。学生が卒業まで勤めると僕は決まって飲みに連れて行き、スウォッチの腕時計を手渡すのが恒例になっていた。
地元企業の御曹司で有名私大卒業なのにウチでいつまでもバイトを続けた挙句、僕に「就職活動をしろ」と命じられたU畑、こいつは距離ガバでも群を抜いていて、出勤するとホワイトボードを見て先発ライダーがロングに出ていると悔しがっていたっけ。一度は東京帰りでそのまま名古屋行きに出発した事もあったなぁ。
それから面接で
「バイク便で道を覚えたり、運転が上手くなりたいっス」
と言って僕に
「ウチは道も知ってて運転も上手い奴が応募してくるんだけどね」
と言われたもののウチで働き始めたI村はしばらく勤めた後、一度辞めたのにまた出戻って来てバイト仲間から「ライディングサービス依存症」と揶揄われていた。
ちなみに、そんな面白おかしい7年間の営業中、僕は一度も風邪をひいていない。まぁ、人間の身体なんてのはそれほど都合良く出来ているというわけである。
しかし時代は変わり世界、いや世間ではインターネットが普及し始めていた。それまでは新聞社からは35mmのフィルム、TV局からはβのテープ、印刷会社などからはフロッピーディスクといった情報媒体の配送依頼が多かったのだがそれらが目に見えて減って来たのである。情報は鮮度が命なのでバイク便で緊急輸送という需要があったが、モノとなると緊急輸送はトラブル絡みのことが多く予定が立たない。
そんな不安定な経営をしばらく続けた後、僕は廃業という選択肢を選んだ。最後に残った数台のVTRとともに僕は自分のバイク(最後はR1100GSだったかな)も処分して事務所をたたんだ。父親らしく、自分らしく生きるために選んだ自営業だったが、気がつけば3人の子供たちは進学を控えこの先は面白いお父さんではなく、ちゃんと稼ぐお父さんが必要になっていたのだった。
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