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記録という絵画を紡ぐ

僕の新年は、中高生時代のノートを捨てることから始まった。

僕は中学校時代や高校時代の授業ノートや参考書を全て実家に保存していた。「大学生になったら塾講師のバイトをするかもな〜」なんて考えていたので参考書として取って置きたかったし、なんとなく捨てるのが嫌だったからだ。

しかし、高校を卒業してから早10年。このコロナ禍で僕の子供部屋は父の書斎に変わり、ひっそりと放置されていた僕の思い出の品々は邪魔者になってしまったのだ。この10年一切ノートを見てないよね。それっていらないことだよね。ということで思い切って全て捨ててしまうことにした。

捨てる前にノートを一回パラパラとめくってからゴミ箱に突っ込んでいくことにした。

ノートを開くと、その当時の自分が何に影響されていたのかが丸わかりだった。憧れていた塾の先生が青色ペンを使っていた時は青色のペンだけでノートを取ったり。同級生の女子が蛍光ペンを使いまくってカラフルなノートを作っているのを真似してみたり。文字より映像の方が記憶が持続すると知った時はノートに挿絵がいっぱい描いてあったり。こうやって書いてみるとなんて外部に影響されやすい人間なのだろう、とちょっと恥ずかしくなる。

こうやってみると、普段何気なく取っていたノートは絵画のようだ。パラパラとページをめくると、その時の感情や思い出が一緒に蘇る。自分だけがこっそり楽しむことができる、自分専用の絵画だ。

写真ができる前、人々は自分の思い出を残す手段に絵を用いた。風景画や肖像画である。自分がこの世にいたという証を記録することで後世に残そうとしてきた。

そう考えると、僕がノートを捨てたくないと感じた1番の理由は、「自分が存在したことの証明」だったからなのではないか。中学生の自分。高校生の自分。様々な時代の"自分"が確かに存在し、授業という環境を自分のフィルターを通して、文字として刻んでいるからなのではないだろうか。

なんてことを考えているうちに、あっという間に全てのノートはゴミ袋に収まってしまった。もう今頃は燃えるゴミと一緒に燃やされている頃だろう。

一抹の寂しさを抱えつつも、さっぱりした気分になった自分もいた。

きっと、作業を通じて過去の自分を客観的に振り返り、咀嚼したことで "ノートの思い出を受け取った自分"ができたからだと思う。zipで圧縮したような感覚でいる。

でもこの感覚も時間が経つと忘れていってしまうだろう。だから僕はまた、noteという場を借りてこの想いを記録する。10年後にまた笑いながら「そんな事もあったなぁ」と言えるように。

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