ぼくは くまのままで いたかったのに
「でも、ぼくには わかってる。わかってるんだ。ぼくは くまなんだ」
「それがどうして ほかのれんちゅうには わからないんだろう?」
工場で 作業服をわたされたとき、 くまはもう さからわなかった。
ひげをそれと いわれると、おとなしく ひげをそった。
文イェルク・シュタイナー、絵イェルク・ミュラー、訳大島かおり
『ぼくは くまのままで いたかったのに』
すでに絶版となってしまった絵本。この本は、剣淵町「絵本の館」で見つけた。一読してすぐに惹かれ、amazonで中古本を手に入れた。
一匹のくまは木の葉が散り、がんが南へとんでいくころになると、眠くなり、冬眠にいたる。自然のままの生活を送っていた。そこへ人間が木を切り倒し、大きな工場を建ててしまう。起き抜けのくまはどんな事態がおきたのかも飲み込めないまま、工場の人間に「とっとと仕事につけ!」と言われ
「ぼくは くまなんだけど・・・」
という。しかし、なすすべもなく、くまがくま であることを立証できぬまま、工場に従事するようになる。くまは5つまでしか数えられないし、スイッチの押し方もわからないまま、来る日も来る日も労働者として明け暮れる。
ついには、雁が列をつくって南にとんでいくのをみおくる。そのときにはもう、くまには眠気がおそい始めてしまって...
熊がくまであり、他の存在から分けて言い得るのは、「賢い」とか、「好奇心旺盛」といった性質があるのかもしれないけれど、そういう性質をもってしても「くまじゃない」と言われたら。主熊公のくまは、くまであることを熊たちから否定されるのだ。
くまがついに、くまであることを思い出す、確信するのは、冬眠の訪れによる。生理的な現象なんだ。生理的現象は、他熊の承認を必要としない。くまはそのおかげで、本当のくまらしさを心から思いだす。
人間も、、とは安易にはいえない。でもくまの登場しない最後の頁には、脱ぎ捨られた服。しんしんと降る雪とほら穴にひきこもる。きっと幸せだ。人間も、と言いだしたくなる。
雁が南にとんでゆく様は、シーンの切り替わりで印象的に登場する。わたしにとっても懐かしくて、大切にしたい景色。良い絵本だとしみじみする。
追記
友人が「大変なことが続いてるけど、クマゲラが自宅近くの森に来てることを知って、コーフンした。わたしこれでいいんだ!」というような趣旨の話をしていた。これでいいんだ!というのは熊にとってはほら穴の冬眠で、僕にとっては電線のないお空に鳥が列をなした景色を見ることかもしれないナ。
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