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占い師が自分を占ってもらい、良い占いは当たる当たらないを超えたところにあると痛感する。

「占いっちゅうもんはね、当てにいくもんやないんですよ」

テレビ画面の向こうでツバの広い派手な帽子をかぶった豚の人形がこう言った時、私は思わずそのとおり!と呟いた。
ささやかではあるけれど、まがりなりにも占いに関わってきた人間として、この言葉には胸がすく思いだったのである。

『ねほりんぱほりん』は、モグラの人形がMCをし、豚の人形に身をやつしたゲストが語るNHKEテレの人気番組だ。
あらゆる世界の裏事情をその世界の住人から直接聞こうという趣旨が大いに受けて、2016年からシーズンを重ねている。
顔出しは一切なし、全て人形の口を借りて語るという設定が安心感を生むのか、そこで語られる内容はかなり生々しく、過去の放送一覧を見ても元談合屋、元国会議員秘書、ライバー、宗教二世など意表をつくタイトルが目白押しだ。
その中で、視聴者からの再放送リクエストが最も多かったのが「占い師」の回。
そしてそこでカリスマ占い師が語ったのが冒頭の台詞だった。

派手な出立ちに身を包みキレのいい関西弁を喋る彼女は、早くにご主人を亡くした後、見ず知らずの易者に「あんた占い師になれるで」と声をかけられたらしい。
そのまま幼い子供を抱えて占いの世界に飛び込み、奇抜な占い師としてメディアで評判になるものの、子供が思春期にさしかかると母の仕事に猛烈に反発し始め、あわや刃傷沙汰寸前にまで発展してしまう。
それでも占い師として働き続けて掴んだのが「占いとは当てにいくものではない」という極意だったそうだ。

そもそも占いとはシンボルを言語化して相手に提示する作業のことである。
そして「この意味は〇〇ですよ」といった《A=B》的なキッパリした公式は、シンボルには馴染みにくい。
けれど占いの場面では、そこをなんとか言葉で伝えなくてはならない以上、「もやもやとした形のないものにハッキリとした輪郭を与え、混沌から切り離す」という言語本来の働きから逃れることはなかなか難しい。
こうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、いや〜はっきり言えませんねぇ、では占いの体をなさず、「〇〇は△△です」とある程度断定することは、占いの現場では避けられないのである。

ここが占いのはらむ一つの矛盾点であり、難しいところでもあると思う。
確かに、本格的に相談を受ける前に「あなた最近〇〇でしたね」とか「過去にこういうことありましたね」と軽く断定するのは、占い師と相談者の間に信頼関係(ラポール)を作るという点でかなり役に立っているとは思う。
けれど、それが占いのメインではないし、目的でもない。
つまり、当てにいくのが占いの主旨ではない。
では占いとはなんなのか。

占い師とは、配管修理工のようなものだと思っている。
たとえばシンクやトイレ、お風呂場あたりの排水溝が詰まったら、即対処しなければエラいことになってしまうのは容易に想像がつくだろう。
だから慌てて排水溝に手を突っ込んで詰まっているものを取り除いたり、強制的に圧をかけて詰まりを押し流したり。
そうしてゴーッという音と共に汚水が流れていく時の安堵感と爽快感たるや…

占いに頼りたいと思う時、私たちのメンタルでもたぶん同じようなことが起こっているのではないだろうか。
要するに、思考や感情が目詰まりを起こして流れが滞り、そのせいでメンタルに多大な負荷がかかっているという状態だ。
自宅の排水溝同様、少々の詰まりなら自分で対処することもできるだろうけれど、自分ではどうにもならなくなったり、詰まりが長期間に及んでいたりするとプロの手を借りたくなる。
占ってもらうというのは、こういうことなのではないかと思っている。

なので占い師の本来の役割は、まずは流れが滞っている箇所を的確に見つけ出し、その詰まりを解消することではないだろうか。
そのために当てにいく必要はあるかもしれないが、当てることだけに(相談者側からすると当たることだけに)フォーカスすると、かえって詰まりが酷くなってしまうこともあるんじゃないかと感じたりもしている。
(占ってもらってスッキリしたかったのに逆にモヤったり…)

「あなた、〇〇ですね」と軽く断定され、その結果ハッとして心を開くきっかけになったり、そう言えば…と思考が深まったり、この際モヤモヤを話して聞いてもらおうと思ったり。
それは充分アリだと思う。
けれど、そうやって相手が緩んだことを占う側は絶対に悪用しない、決してマウントを取らない。
というのが本来の占いの現場ではあって欲しいと秘かに願っている。

「私はね、白い魔法を使うんです」
これも前述のカリスマ占い師の発言だけれど、なるほど、そのとおりと言う他ない。
白い魔法。
それは恐らく、ラポール(お互いの信頼関係)が形成され開かれ始めた心に向かって送られる『愛ある言葉』のことだろう。
愛ある言葉だけが自身を見つめる勇気を相手に与え、感情の詰まりを押し流す「圧」となり得るのだろう。

良い占いは、当たる当たらないを超えたところにあるし、もっと言えば信じる信じないも超えている。
結局のところ占いも、愛があるかないかに帰結するのだと思う。
占い師の愛ある言葉に触れ、不意に涙が溢れてきたりする。
これを、内なる循環が再び始まりサラサラと感情が流れ始めた証とみても良いのかもしれない。

怒りも苦しみも悲しみも、流れてさえいれば自分を蝕むことなどないのだろう。

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この記事を書くきっかけとなったのは、六花さんの投稿です。

先日六花さんのご好意に甘え、自分のホロスコープを読んで頂きました。(下の投稿を参照して下さい)

そのお返事であるこちらの記事を読んだ時、外出先であるにも関わらず、思わず泣いてしまいました。

六花さんとは直接の面識はありません。
このnoteで繋がっているだけです。

それなのに、精一杯の愛を注いで下さっている。
テキストのみの繋がりだからこそ、愛を込めて書いてくださっている。

六花さん、本当にありがとうございました。

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