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精神的モデリングガイドとしての「老子」

「老子に学ぶ○○」というと自己啓発系ビジネス書のようで恐縮ですが、老子を読んでいると「これ模型の指南じゃん」と思う部分がたくさん出てきます。


模型をやっていてまずぶち当たるのが「完成させなければいけない」というプレッシャーで、未完成の模型が部屋に散乱し、積みプラだけが増えていくという状況に陥りがちです。完璧に仕上げないといけないという思い込みのせいで完成から遠ざかり、模型がおっくうになったり、気分が乗らないプラモデルでも嫌々ながら手を進めたりしてしまいます。

そこで老子は「大成は欠けたるがごときも其の用は廃れず(45章)」と言っており、大いなる完成は欠けているように見えるものだが、そのパワーは失われることはない、と説いております。兼好法師の「徒然草」にも、「優れた仏典や書物にも章段の欠けているものはずいぶんとある。書物は装丁がほつれてから、螺鈿細工は貝殻が抜け落ちてからが良いのだ。皇居ですら作り切らない部分を残すものだ。(82段)」というようなことが書いてあります。完璧を追求することはあまりたいして重要なことではない、という思想が通底しており、「飽くなき厳密」を座右の銘としていたレオナルド・ダ・ヴィンチの思想とは真逆を行く思想です。

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これをもって「模型を完成させなくてもいい」というのは暴論ですが、完成させなければならないという思い込みで苦痛を感じながらなんとか完成させた「完璧なプラモデル」だけがゴールではないような気がして幾分か心が軽くなりました。
 思えば、博物館に収蔵されているような精密な模型よりも、素人がパッションで作り上げたような模型に心を揺さぶられることもあるものです。実際、夏休みの宿題コンクールの展示会で小学生が作った船の模型が素晴らしく、「親御さんが仕事で乗っている船の話を聞いて作ったんだろうなあ」「よく勉強しているなあ」と感じとることができ、涙を流したことがあります。技術的には拙い模型でしたが、それは紛れもなく完成していました。

次に、模型を作るための資料との付き合い方にぶち当たります。模型を作るために多くの資料を集めていくうちに、どこまで再現すべきか、どう考証すべきか雁字搦めになり、挙句の果てにはその資料を持っていることを誇り、この資料を持っていないのは素人だとか、他人の考証にまでケチをつけ出したりしてしまうことがないでしょうか。SNSや展示会でのトラブルの事例もよく耳にするところです。

老子はこれについても、「徳のある者は契を司り、徳のない者は徹を司る(79章)」と書いています。契とは金銭の貸し借りの契約書ことで徹とは徴収のことをいい、徳のある人は人にお金を貸した契約書を持っていても管理するだけだが、徳のない人は徹底的に徴収しようとする、というのです。模型の世界に置き換えると、徳のあるモデラーは資料を眺め、徳のないモデラーは資料を基に他人を糾弾したり際限のない作り込みに走る、といったところでしょうか。

老子に一貫しているのは「無為」、すなわち作為を加えないという思想ですが、模型を作っていると他人の評価が気になったり、他人の模型に口を出したくなったりと色々と雑念が生じがちなものです。技術的な面でも、まだ乾燥しきっていないのに重ね塗りをしたりマスキングテープをはがしてしまったり、デカールをうごかしてしまったりと余計なことをして台無しにしてしまうことがあるものです。

老子はこうも言っています。「小魚を煮るがごとし(60章)」。デカール貼りも、パテ盛りも、接着後の押さえも、小魚を煮るときのようにあまりかき回したりつついたりせず…。

いまでこそちょっと細かい工作ができるようになったり、資料も集めたりできるようになりましたが、今でも脳裏にあるのは先に書いた小学生の工作の展示会で見た船の模型です。関係者しか知らないでろう荷役方式や、ネットで調べても出てこない船の細かい部分が実によく表現されており、親御さんが船員さんなのかな、親御さんの仕事に誇りを持っているんだろうなあ、ものすごくよく調べたんだろうなあ、と万感の思いがこみ上げてきて、こんな模型が作れるようになりたいなあ、と思ったものです。

そういえば、ゲーテもこんなことを言っていました。
「真の教養とは再び取り戻された純真さに他ならない」

子供のような純真さで、無為の気持ちで模型と向き合いたいものです。


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