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宝塚歌劇「ポーの一族」観劇感想

宝塚歌劇団 花組
ミュージカル・ゴシック「ポーの一族」
作演出:小池修一郎

東京宝塚劇場
2018年3月20日13時30分開演

初めての宝塚を観に行ってきました。
宝塚劇場に入るのも初めてです。びっくりするくらい独特な文化があふれてましたね。
入って正面に赤い絨毯、螺旋のような階段、豪華なシャンデリアに「宝塚」の世界観の作りが凄まじかったです。

ポーの一族
原作に感化されて生まれ育ってきたので宝塚で舞台化されるのが楽しみでした!
私の美術観とか思想とかの底に流れてる作品の一つなので、あの情緒的なモノローグ。耽美な描写と繊細な感情のゆらめき。永遠を生きる少年少女という思春期ならではの揺らぎ・・・。とても楽しみで、宝塚という耽美な世界観を表現する力が強い劇団に舞台化していただけるのが単純に嬉しかったです。

お話としてはエドガーを起点にメリーベル・アランをすごく丁寧に描いているのと、娘役のトップの方がシーラだったからかシーラとクリフォードのところも印象的に描かれているなと思いました。
むやみな改変はなく、多少メリーベルの描写に関してはバッサリと切ったところもありましたが、エドガーが永遠という時を共に歩こうとするアレンに出会い、二人が歩き出すまでの流れが美しくまとまっていました。

私はアランが好きなので、アランの我の強く短気で、偉そうな感じとエドガーのつかみどころがないところがしっかり描写されていたのがよかったです。
アランの強く、孤高であろうとするけれど根が深く傷ついていて、一人ではさみしい。けれど弱さを出したら大切なものを失くしてしまう・・・だから強くあろうと振舞っているという思春期ならではの閉塞感が好きなのですが、エドガーも最初はこんな感じでしたね。
メリーベルと別れ、メリーベルのためにバンパネラになり、自身がバンパネラということを受け入れきれなく、ぶつけどころのない感情を持て余し人をひとり殺してしまう…。メリーベル自身の話を大きく削っていたので、バンパネラとしての運命を受け入れられないエドガーと、メリーベルをバンパネラにしたエドガーで自分の行き所のない感情に折り合いをつけたんだなっていう変化が良かったです。
根底は変わらないと思うので、時に悲しみ苦しくなったりするエドガーなんですが、そばにはメリーベルがいてアランがいたというのが、エドガーのソロ曲で随所に感じられて良かったです。

寄り添っていきていても互いに孤独。この感情ってほんと思春期ならではだなって感じがする。
孤独に向き合い見切りをある程度つけると思春期が終わると私は思っているので、永遠の少年少女であるエドガー・アラン・メリーベルはずっとこの孤独と生きていく。アランはこれからずっとその孤独と生きていくんだなって感じがしました。

生身の人間が演じるから、紙や二次元で表現するよりも生々しく感じることができるのがコンテンツの「実写化」の強みだと思っています。だから今回は「拒絶」が強く感じられたのが良かったなと思います。
エドガーがアランに正体がバレた時、アランは聖書の一節で拒絶しますが、その時の演じるお二人の立ち位置、息づかい、目線。それがすごく生々しくて、そのあとのエドガーが孤独を感じるのがとても切なく感じました。
この「孤独感」をただ美しい作品の中で描くのでなく、少しの生々しさを混ぜて魅せるっていうのが本当に素敵で大好きです。

ちょっとそれますが、宝塚さんの演技を始めて観て思ったのはみなさん「聞く」演技をしっかり意識してらっしゃるんだなってことです。板の上で一番難しいのって、セリフがない動きがない時だと思うのですが、宝塚の皆さんは本当にそこを意識してるんだなって感じました。
シェイクスピアとかギリシャ悲劇とかは、もともとは朗読劇でセリフのない人はじっと聞いているっていう根底があるんです。今はどちらかというか目で「見せる」ことに重きを置いていることが多くて、「聞く」ことができる役者さんがすごく少ないなって個人的に感じているのですが、宝塚さんはおそらく「トップスター」を据えることによって「聞く」ことを表現しているんだなと感じました。
同じく日本の歌舞伎とか能も「聞く」ということに重きをおいているので、こういったどんな演目にも関わらず「聞く」芝居が観れるのはとても魅力的だなと思いました。

好きなシーンの話をします。
クリフォード先生がメリーベルを撃ってしまった後、エドガーに「消えろ!お前たちは実在しない」っていうんですけどエドガーが「実在している。あなたがたよりずっと長い時間を」返すんですよね。その後に続くクリフォードの「消えろ!何故生きているんだ!悪魔!」っていう叫びの後のエドガーのモノローグがとても好きです。

なぜ生きているのかって……それがわかれば!
創るものもなく 生みだすものもなく
うつる 次の世代にたくす遺産もなく
長いときをなぜこうして生きているのか

原作でも大好きなんですが、曲と、ひとりオケピ前の通路で苦しみながらこのセリフをいうエドガーがとても切なく美しく孤高でかっこよくまさしく、楽曲「哀しみのバンパネラ」に合っていて鳥肌が立ちました。
このセリフを、このモノローグを物語の1番の盛り上がるところに持ってきてくださったのがすごく嬉しくて、だからこそアランへの「おいでよ、ひとりではさみしすぎる」がとてつもなく素敵なシーンになったと思いました。
永遠の孤独に誘う誘い文句が「ひとりではさみしすぎる」ってすさまじくいいですよね。

ミュージカル・ゴシックということで、暗転はすごく少なくて曲が波のように途切れずに流れていく印象でしたがとても気持ちよく観れました。曲が素敵なものが多くて、特に「哀しみのバンパネラ」が好きです。メインテーマの「ポーの一族」もこれから幕が上がる、そして幕が降りてもどこかでポーの一族が存在する。そんな気分にさせてくれるのがとっても良かったです。

「哀しみのバンパネラ」の歌詞に「人に生まれて 人ではなくなり 幸せの残り香を忘れた 悲しみを抱いて生きる 僕はバンパネラ」という歌詞があるんですが、本当にこの歌詞につまっているなって思います。

単純な悲劇、喜劇でもなく、耽美な美しいものの象徴としてではなく、切なさと苦しさと、思春期がすぎさってしまった人にとって少しの懐かしさと、思春期の真っ只中にいる人にとっては寄り添うような孤独を、感じる作品でした。
観に行けてよかったです。

最後に宝塚のお芝居そのものの感想です。
舞台の使い方としては上手下手の袖まで使うのはもちろん、オーケストラピットの前の通路までしっかりと使って魅せてくれるのと、これでもかってくらいの種類の舞台装置。ほんと回転劇場の強みを存分に活かした感じで、場面を作り込むことに対してのある種の敬意を感じるくらいでした。すごい。

あと、衣装もものすごい数があって、安っぽさも感じず素敵なものが多かったです。
おそらく「女性」だけの劇団だからだと思うんですけど、衣装の作りが男性キャストも女性キャストも体のラインにすごく気を使っている感じがしました。男性キャストは肩幅をしっかりだしつつ、大きく魅せれるよに。しかも少年として舞台に立つエドガーとアラン、大人として立つポーツネル男爵やグリフォードとの違いも出そうとしていたのはすごく良かったです。少年の特にエドガーの体重を感じさせない華奢で、人間味のなく、どこか浮世離れしながらも強い意志を感じるように美術から作り込んでいるのが素敵でした。
衣装といえばメリーベルは少女らしく体のラインを見せないものが多かったですね。シーラがしっかりと「大人の女性」として魅せる衣装なので、対象的で二人のエドガーに対する立ち位置が表れたようでした。

あと、1つの舞台に出てくる人めちゃくちゃ多いですね。ちょっとびっくりしました。
でもこの「たくさん出てくる人」っていうのがポイントなんだなとも思いました。
ハーモニーに男性がいないので低音のドンと構えるような厚みが出しにくいと思うんです。でもそれは人数とか、いわゆる意味のある「群衆」を丁寧に描くことで感じさせないようになってました。
人数の使い方がアンサンブルと、エドガーの心理的描写の象徴として使うのと2種あったんですけど、その時の表現もそれぞれが個性を出す出さないをうまく加減していて、宝塚や歌舞伎の人ができるいわゆる「聞く」演技がしっかりしている根底がここにあるんだなと感じました。

噂に聞いていたトップスターにはずっとスポットライトが当たっている。というのは観て理解しました。
本当にあんなに当たっているんですねってくらい。でもその光に負けることなく、その光ごと魅力に変えていくのがトップスターなんだなと思いました。明日海りおさん、とても素敵でした。

いい体験をしました。
これからも積極的に宝塚も観ていきたいなと思う観劇でした!

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