聞くも因縁、聞かぬも因縁。
「見るも因縁、聞くも因縁。」という言葉は調べれば意味が出てくる。見たり聞いたりすることと同じモノを自分も持っていることを示唆しているということ。
例えば「人の気分を害して平気な人がいる」という状況をよく見聞きする人は、その人自身も「内面に同じような要素を持っている」ということだ。
それに対して、父の口癖は、「聞くも因縁、聞かぬも因縁。」だった。
自分の内面にない「要素」は聞くこと(=知ること)ができないという意味で使っていたのだと思う。
人は自分自身の都合がよいように「事実を解釈する」傾向がある。
例えば、共依存のような関係。ひとりが搾取する側で、もう一方が搾取される側という関係になった場合。
「搾取される側」は、心身の健康を犠牲にしても「搾取する側」に尽くす。
搾取される側には、搾取するという発想がないから、搾取されることに全く気づきようがない。こういうことが「聞かぬも因縁」ということなのだ。
私は、自分が思うほど世の中のことを知らないのかもしれない。そういう考えに囚われるとき、もっと知りたい、もっと深く理解したいという気持ちになる。
けれども、父の言葉を思い出し、知らなくてよいコトがあると自分にいい聞かせてみるのだ。
聞くことができないコトは聞かなくてよいコト。
聞くことができないコトは知らなくてよいコト。
囚われを手放して、心安らかに生きていこう。
眠れぬ夜に、そのようなことを思ってみた。