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働くことの意味

生きるために、働くしかないと思っていた。

仕事をしていれば、多少なりとも嫌なことがあるのは当たり前。毎日、身体が動かなくなるまで働いた。

次の休みまでを指折り数えて仕事をする。疲労感と戦いながら必死の努力で「成果」を残しても、妬みの対象になるだけだった。それを解決する道が浮かばないのは社会的に幼い証(あかし)。

唯一浮かんだ解決策を実行することもできなかった。妬みの対象にならいようにするために「失敗」を演じる勇気が持てなかったのだ。

働くことの意味とは何か?

ミッションのため、即ち、客の満足度を上げるため、制限の中で想定しうる最大のサービスを提供することだと当時の私は考えた。一方で、価格に見合うだけのものを提供すれば、それでよしとする空気が当時の職場にはあった。

勤労の対価として報酬を得て、そのお金で生活をして余暇を過ごす生き方を否定はしない。けれども、私は、それ以上の何かを働くことの意味として求めたいのだ。

働くことによって得られる報酬はお金だけではないと考える。

「ここまでできるなら、あなたにもっと責任ある仕事を任せよう。」

担える「仕事の質」がステップバイステップで変化していくことも報酬の1つだと私は考えて、賃金以上の働きを常に意識してきた。

生来の勤労好きの気質も手伝って、かつての職場でも任される仕事がドンドン増えた。そして、働き手としてノリにのった絶頂のタイミングで、私は退職した。

どんなに鞭打っても身体が動かなくなってしまったからだ。

表向きは円満退職。

けれども、かつての仕事で感じた「働くこと」に対する疑問は、払拭されることはなく、身体が回復して、再就職をしようとしたが、なかなかうまくいかなかった。

働くことの意味は、人によって違うのは当たり前だけれど、違うなりに、私の考え方にも耳を傾けてくれる職場で働きたいと願っていた。

かつての仕事は、大好きだったし、あの場所にいつかは行きたいと思っていたが、「働くことの意味」を解決できないうちには無理だという考えに囚われて、月日は流れた。



この夏のはじめ、何気なく目にした「貝殻を拾えるところを知りたい」という言葉に、かつての職場が直ぐに浮かんだ。

一度も会ったことのない子どもの素直な言葉が、その子の親を通じて私のところに届けられ、気が付くと、かつての職場と縁(ゆかり)ある海辺にいた。

懐かしい海の匂いと、慣れ親しんだ景色と、勤労に汗した日々。海辺の日差しは強く、肌を刺すほど痛く感じたが、脳内に浮かぶ想い出の全てがキラキラとしていた。

今の仕事が軌道に乗って、ようやく「前の職場」を過去の自分として処理できるかなと思っていたこの時期。あの海辺を訪れるチャンスが巡ってきたことに、1つの時代が終わることを感じた。

と同時に、新しい時代が始まることへの期待が膨らんだ。

「辛い過去は、もう手放していいよ......。」

そんな囁きが聞こえたような気がした。



昭和の終わりを、私は渋谷で知った。

一人で映画を見て、外に出ると、新春の晴れやかなムードから一転、静寂に包まれた静かな街となっていたのだ。

華やかな街並みから、音が消え、色が消えていた。

あの時の私も、人生の岐路にいて、最初に入った大学を辞めるかどうかを思案しているところだった。

大学を続けることで「普通の流れ」に近い生き方を選べると思ったから迷った。普通の生き方をしたいと思っていても、それを叶えるためにどれだけの努力が必要かをよくわかっていなかった私は、普通を手放すことに必死で抵抗していたのだ。

結局、私は「普通」を手放した。

普通の人なんてこの世にはいないと結論を出したからだ。

平成は、私にとっては、自分の意志で自分の道を決めることを確立するための時間のようだった。

「普通」に憧れ、「人並み」という響きをいつかは手に入れられると信じていた昭和の時間。それが叶わないことを悟り、その宿命を受け入れるために精進した平成の時間。

受け入れるのに30年もかかるとは、少し長すぎたような気もするが、時間をかけた甲斐あって、自分の意志で自分の道を決めて生きるという「強い覚悟」は持てた。

今もまだ葛藤は続く。けれども、そんなモヤモヤとの付き合い方はとてもうまくなった。

モヤモヤを払拭するのではなく、モヤモヤをそのままに愛し、日々葛藤と戯れるように私は生きている。

夏の日差しが傾いてキラキラと光る海を見つめながら、

「そうだ、こんな私に自分はなりたかったんだ。」

と呟いた。