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不平等を受け入れて、目の前のチャンスに飛び乗ること

寒い冬がやってきた。

この季節になると決まって思い出すのは大学入試のこと。

ある一定の時期、自分の人生の最終ページは「大学入試」で終わるのではないかと思うほど大事なイベントであったからだ。

入学試験は、そもそも不平等なのではないか

入試の点数が年齢で減点されるということを「大変な問題だ!」と大騒ぎしている。

だが、大学の入学試験は、そもそも不平等なのではないかと思う。家から通えるところに大学がない人も多数いる。家から出るための経済力についても「自由競争」の名のもと不平等といわれても仕方のない状況だ。

だが、いわゆる問題となっている入試の点数操作は、公然の「えこ贔屓」のようにも見え、生まれながらの環境や経済力といったものとは一線を画しているように映る。

しかしながら、大学は大学で実績を上げることも「業務」のうちというビジネスモデルであるから、「えこ贔屓」というわけではないだろう。

大学の運営側としては「素晴らしい教育が受けられること」を内外に示し、優秀な学生を集めていくという大きな柱がある。

その目的を達成するため「実績」を公表するのが通例だ。

卒業生のうち大学院に何人進学し、どれだけの有名大学院に進学したかを公表する。それと併せて、就職率を数字で示し、知名度の高い企業に就職をした人数を公表する。

それらにより「素晴らしい教育が受けられること」を内外に示し、優秀な学生を集めていくという運びだ。

そのためには、卒業後の進路で不利となるような学生は取りたくない。それが正直なところであろう。

大学で教育を受ける機会の不平等を知り得た過去

紆余曲折あったため、私は、学士号を修めた大学には、24歳で入学した。その経験から、年齢による点数操作については「当たり前」だと思ってるのだ。

学校によって方式は違うが、点数操作に類したことは実際に行われている。

今では子どもの数も減ってきて、昔ほどではないだろうが、少なくとも20年前頃には点数操作が疑われる「状況証拠」は多々あった。

そもそも、その事実を知る目線を持っていなければ、知る機会のないことだとは思う。

だが、知る機会のある人は知っているのだ。そういう不平等がまかり通ってきたことを。

進路指導で聞いた衝撃の話

今から30年ほど前の話だ。

大学入試に備えて予備校に通っていたときのこと。私は23歳の時だった。夏休みが終わった頃だろうか。出願校を決めるにあたり進路指導の担当者から次のような話をされた。

新卒の学生と1年の浪人までならば、同じ土俵で戦わせてくれる大学はそこそこ多い。だが、2年以上の浪人は、「過年度生(=かねんどせい)」といって、現役とは別扱いにする大学は多いのだとか。

その上で、大学の特色を見極めて受験校を決めることが最善の策だとして、次の2点に注意するように促された。

過年度生を受け入れる可能性がある大学を選ぶこと。入試で満点を取れるというレベルの大学ではないと合格は難しいと考えること。

半信半疑ながらアドバイスに従った結果

この話を聞いた時、にわかには信じられなかった。

だが、いわれた通りにした。どんな大学でもよい。とにかく合格しなければ、永遠に大学への道は閉ざされると考えたからだ。

半信半疑ながら、進路指導担当者のアドバイスに従い、受験校を決めた。

その結果は次の通り。

入学試験で「満点、あるいは、もしかしたら1問くらいのケアレスミスはあるかも」という点数が取れたという確信のある大学には合格。合格ラインを余裕で超えていたと思うが9割程度の得点しか取れなかったという大学には補欠で合格した。

大学に入学後、私が「過年度生」であることを知ると、数名の友人が内々に打ち明け話をしてきたのを覚えている。各々の事情により「過年度生」は入試で不利になる話を知っているのだという。そして、私の年齢で大学入試を通過できたという事実に「静かな尊敬の眼差し」を向けてくれた。

不平等はダメと一律にいえるのか?

不平等な扱いを受ける側であれば、確かに不平等を解消して欲しいという気持ちもわからないわけではない。だが、大学の教育方針、経営方針からして、過年度生の入学数をコントロールしたいという意向を理解はできる。

簡単には答えの出ないことかもしれないが、ある程度の不平等はあって然るべきと受け入れるしかないと私は考えている。

ただし、こういう事情を知らずに年齢に関係なく、平等にチャンスがあると思っていたら、それに対して不満を感じるのは当然だろう。

だからこそ、こういう事実を伝えてくれる人の存在は大きいのだと思う。

当時の私も不満や苛立ちを感じながらも、進路指導者のアドバイスに従い、受け入れがたい現状をも受け入れたからこそ、チャンスをつかむことができたのだ。

不平等を受け入れて、目の前のチャンスに飛び乗る

不平等なチャンスしか与えられないことを嘆くより、不平等でもチャンスがあることを肯定的にとらえ、それに挑んでいくこと。

命の時間は有限で、その有限の時間の中でベストな解決方法を見つけることも、サバイバルスキルである。

もちろん、誰にでも平等に訪れる「加齢による差別」の話ではなく、自分の意志では選べないことで差別するなら話は別だ。

しかしながら、不平等な現状を変える働きかけと、学びの機会を得ることを切り離し、当座のチャンスに飛び乗ろうという考えは同じでよいと思う。

不平等という現実を受け入れて、目の前に少しでもチャンスがあるのなら、飛び乗ろう。

今の自分が選びうる「最善の選択」と信じて。