劣等感のたどり着く場所
大なり小なり誰の中にもあるであろう劣等感。
私はこれまで「それを感じること」から距離を取るという形で劣等感と向き合ってきた。
なぜなら、「日常生活」に密着する事象に劣等感を刺激することが少なく、距離を取ることが可能だったからだ。
もしも、字が汚いといったことに劣等感を持っていたとしたら、自分の名前を書くたびに劣等感を刺激されてしまっただろう。
だから、日常生活に密着していない劣等感だったことを「ラッキー!」とさえ思ってきた。
◇◇◇
生まれた家は、特に音楽を生業とする人はいなかった。むしろ音楽など金持ちのすること。我が家には縁がないという空気があり、音楽に「距離」を感じながら私は育った。
ところが、私のきょうだい達には「音感に優れた耳」があることがわかり、3人きょうだいの中で私にとっての劣等感として根付いていく。
私には「音感に優れた耳」がなかったとはいえ、音楽が苦手だったわけではない。
人並みに歌うことはできる。
でも、相対音感には限界がある。
人並みに鍵盤楽器を弾くことはできた。ギターも弾いていた。
でも、20歳代半ば、左腕の腱が断裂したのを機に、楽器そのものから離れることとなる。私は完全に音楽との縁を切ったのだ。
音楽を生業としたいわけでもない。特に優れた耳があるわけでもない。だから、こんなケガはたいしたことないと思っていた。むしろ劣等感を刺激する音楽と関わら無くなれるのでよかったとさえ思った。
劣等感への刺激を極限に減らすことはできたが、「音楽の楽しみ」さえも手放していたのだ。
◇◇◇
劣等感を意識したくないのなら音楽から距離を取るという形もよいだろう。それを選んだ過去の自分を否定はしない。
けれども、今、自分がこの世を去るときのことを思い、この劣等感を喜びに変えたい気持ちになっている。
ピアノを弾いていたころは、頭の中で流れているメロディを音符に書き取ることが好きだった。
それは、自分の思いや自分が理解したことを、文字にすることにとても似ている。
大掛かりなことをする必要はない。ただ、自分の頭の中で流れているメロディを書き出してみたいだけ。
それを人が音楽と呼んでくれるのなら、きっとそれが私にとっての劣等感の克服。
イマドキはWEB上に独学で作曲を学ぶ情報があったり、鍵盤楽器が弾けなくてもメロディを音符にする手段もあるようだ。
まずは小さな一歩から。
作曲、始めます。