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関わりたくないのに関わってくる人には

関わりたくないのに関わってくる人には警戒せよ。

ただその一言に尽きる。

私が子どもの頃に戻って人生をやり直せるとしたら、この言葉だけを忠実に守って生きなおしたいほどだ。

「魚心あれば水心」という。相手が好意を寄せれば、こちらも好意的な対応をしようという意味の言葉ではあるが、本当にそれでよいのだろうか?

これまでの経験から思うに、困ったタイプの人の中には「魚心あれば水心」を巧みに利用して人を自分の思い通りに操作するタイプがいる。

だから、自分のペースを乱してまで相手に合わせていることに気づいたら全力で逃げるべきだと思うのだ。

仕事の場合は利害もあるし、大勢に迷惑をかけるケースもあり得るので、慎重な対応が求められることもあるだろう。だがプライベートなことでは、そのことをヒシヒシと感じている。

思い返せば、高校の時から、関わりたくないと意志表示をしても、その考えを尊重してくれないような人に付きまとわれていた。

具体的には、「私達は友だちだから」という縛りのもと、通学途中の角で友人に待ちぶせされていた。

友だちであることに異論はなかった。だが、一緒に通学はしたくなかったのだ。私はその人と一緒に通学をしたくないため、直接「別々に通学したい。私のことなど待たずに先に通学するように。」と告げたのだが、聞き入れてもらえなかった。そして、通学路の途中で待ちぶせをされることは続いた。

嫌で嫌で仕方ないため、敢えて遅刻するくらいの遅い時間に通学をすると、やはり彼女は待っていて、結局一緒に通学するハメになる。

その上、「遅刻の巻きぞえにあった」被害者として周りに触れ回るということをするのだ、そういう人は。

これと同じようなことが大学でも起きた。

「今度の土曜日は何をしているの?」と聞かれたので、「特に決めてはいないけど図書館にでも行くかなぁ?」となんとなく口にした。その言葉を理由として、彼女は朝の9時から図書館の前で私のことを待っていたのだとか。

昼過ぎに図書館に行くと、彼女は大泣きで私を責めたてた。

それからしばらくの間「3時間以上も遅刻した!ヒドイ!」と私の悪口を触れ回ることをされたのだ。そもそも私は、図書館で会うと約束などしていないというのに。


そのような言動をする人はどういう「つもり」でこういうことをするのだろうかと不思議に思う。

「迷惑な隣人」的な心理学の本を読むなどして、そのような迷惑行為を行う人の分類などあるのではないかと期待していた時期もあったが、そういう迷惑行為はみつからなかった。

ただ単に人格が未熟なだけなのだろうか?

関わりたくないのに関わってくる人というのは、「自分が嫌われているかも」という想像ができないのだろう。いや、実際には嫌っているということではなく、ただ別行動をしたいだけ。だから、余計に状況は複雑だ。

結果として、そういう人は、私の悪口を触れ回りながら私のもとから去っていく。

だが、そういう人はどこにでもいて、私に近づいてくる。私の何かが惹きつけてしまうのだろうか。

関わりたくないのに関わってくる人には警戒せよ。

何度でも言う。

ただその一言に尽きる。

これから先は、「過去から学べた自分」でありたいとの願いと、自戒をこめて。