「余白の価値」を1円玉に見出して
キャッシュレスの時代になりつつある。
そのうち、全てのことがキャッシュレスになるのではという向きもあるが、私としては、そうそう浸透するものではないだろうという考えだ。
自分が田舎暮らしだからかもしれない。
たまぁに都会のほうへ行くと、キャッシュレスをササっと華麗に使いこなせたらなぁと思う。
そんな私ではあるが、ある目的のために1円玉を貯めている。
道端の脇にあるお地蔵さんや、お寺の隅にあるような小さな祠に、1円をお供えするためだ。
特別な思いがあるというわけではない。何となくぼんやりと祈るだけ。ただそれだけのために1円玉を貯めている。
キャッシュレスという仕組みはメリットが多数ある。その1つ「お金の流れを把握されること」には大きなメリット(=価値)があると思う。だから、お金の流れが把握されることに意味があることについては、キャッシュレスが浸透していくことに異論はない。
ただ、何もかもが把握されればよいということではないと思うのだ。
もちろん、道端のお地蔵さんに備えた「1円玉」がどう動いていくのかを考えたことがないわけではない。
その上で思うのだ。
どういう動きをするにせよ、キャッシュレスで追跡されることに意味があるような動きではないだろうと。
お金に困った人が、1円や10円を懐に入れ、食費の足しにしているのかもしれない。
子どもが何気なく手にして持ち帰る可能性もあるだろう。
そういうお金の流れを許容することに、この1円玉は存在しているのだと思っている。
把握されない余白の意味があるような気がしてならないのだ。
小さく寂れた神社や寺院にも由緒があり、地域に根差した信仰があったのだと思う。同じく、道端にあるお地蔵さんにも、それぞれに何らかの経緯があって、そこに佇んでおられるのだと。
それらの「だれ彼とはなく」信仰の対象になってきた存在への敬意が、1円玉を貯めたいという私の思いへと繋がる。
把握されない「余白の価値」が、そこにはあると思うから。