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経験値で人の価値を測ることはできないとしても

人生の経験で「同じ」と思っていることが実際は同じではないということは意外に多い。

具体的には、食べ物の味。

イカのお寿司が好きな人同士なら、同じことを好きといってると通常は思う。そして、仲間のような親近感を覚え、どんなところが好きなのかと話を広げていくと「同じこと」を好きではないことが判明することもあるのだ。

イカのお寿司、より具体的に話を深めるなら、イカのお寿司のネタとなる生イカは、モノによって随分と味が違う。

より広く普及している「イカのお寿司」というと、やや柔らかめの印象だったり、少し噛みきりにくかったりすると思う。だが、新鮮なイカをさばいて造ったネタであれば、歯ごたえがよいコリコリという食感でありながら噛み切りやすいと感じるものだ。

前者が好きな人もいるだろうし、後者が好きな人もいるだろう。

それぞれにファンはいてもよいのだが、問題は、それを同様に「イカのお寿司」と表現するところだ。

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このようなことは、世の中には多々起きうる。

そして、その違いに目を向けることなく、うやむやなまま会話を続けることもある。違いを明確にせずに会話をしたい人なのだろう。

一方、うやむやなところを残さないことを心がけ、それぞれの違いを明確にしながら会話をしたい人もいる。

前者は違いを言葉にすると角が立つと思うのだろう。

それに対して、後者は違いを明確にして互いを理解したいと思うのかもしれない。

これもまた、どちらが正解ということはないのだけれども。

その場の流れや空気を読まずに、自分が望ましいと思う話の進め方でぐいぐい会話の舵取りをする人がいると、場がシラケてしまうことは確かだ。

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そもそも、新鮮なイカのお寿司を食べたことのない人にとっては、広く普及しているイカのお寿司が全世界にあるイカのお寿司の全てでしかない。

だから、新鮮なお寿司の解説をクドクドとおこなうことはナンセンス。

たが、経験値によって、その人の持つ言葉の意味は違っていることを意識して、言葉を選ぶことは大切。

それを意識しなければ、永遠に誤解をしながら、理解したつもりを継続していかなければならないのだ。

コリコリのイカのお寿司の食感が好きだと思う人と、柔らかいイカのお寿司の食感が好きだと思う人が互いに、「イカのお寿司の食感が好きだ」といって「同じことが好きなのだ」と親近感を持つような状況は、滑稽な話である。

経験値で人の価値を測ることはできないとしても、経験値を知ること、そしてその違いを知ること。そこからが真の理解を求めあうコミュニケーションの原点。

互いの経験値を知り、その違いを共有することは相互理解のための懐が広くなる行為なのだ。