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言葉の「毒性」

言葉には力があると信じている。

人を慰めたり、寂しい心を癒したり。

疲れた体を軽く感じさせるような力さえある。

これほど言葉の力を信じている私だからかもしれないが、言葉の「毒性」には非常に敏感だ。

多数の人が何も感じないような言葉に引っかかりを感じる。その引っかかりは、独特の感性によるものだと指摘されることもあるが。

でも私は、ある種の言葉から発せられる毒々しいモノを感じずにはいられないのだ。

言葉の毒性の分類

言葉の毒性にはいくつか種類がある。毒性の分類とはいっても、あくまでも感覚的なもの。だが、できるだけ伝わるように記してみたい。

▼読み手を突き放すような態度

一見、寄り添っているかのような文言が並ぶ文章。書き手の思考に寄り添いながら読み進め、文章に引き込まれていった先に、突然現れる「あなたには理解できないでしょうけど」という言葉。

その言葉がストレートに記されていることもあるし、そのように受け取れる表現が記されていることもある。

同じ目線で理解しあえていたという読み手の気持ちを情け容赦なく奈落の底に突き落とすのだ。なんという残酷な展開か。

そんな文章は、何のために書かれているのだろうか?

なぜ、人の目に触れるようなところに曝すのだろう。

「あなたには無理」と書くことで、書き手は何か得たいものがあるのだろうか?

「無理でしょうけど」という挑発をおこない、読み手が書き手の主張を無条件に受け入れるしかない状況に追いこもうとしているのだろうか。

▼シレっと上からモノをいう言葉

明らかに上から目線の文脈であれば、それなりのスタンスで受け入れることが可能だ。

上からの物言いは、どこにでも存在するし、内容によっては上からの物言いが適切なこともある。

それに対して、私が毒だと思う言葉は、傷ついた立場の人が弱々しく嘆きの言葉を連ねる文章に仕込まれたモノだ。

直前まで涙を誘うような苦し心境が吐露されていて、もらい泣きすらしそうな状況に読み手を引き込んでおきながら、その先に毒が置かれている。

その毒は微量であっても、とても効く。なぜなら、書き手の気持ちに共感し、慈悲の心で労わろうという気持ちでいっぱいになっているからだ。

この毒の本当に困ったところは、書き手の毒にやられて、相手が被害をうけたと主張する「加害者」への憎悪をかきたてるところ。

冷静に判断できずに思考を操られてしまうのだ。

毒のある言葉を使う人は

常々思うのだ。

言葉の毒を使う人というのは、その毒に気づいているのだろうか?

それで敢えて使ってるのなら、私は、そういう人との距離を取ることが望ましいのだろう。

だが、普段の言葉使いからして、毒と知らずに使っているのではと思ってしまうことも多々ある。

人というものは、本質的に「他人を傷つけてでも自分が生き残りたい」という本能を持っているのだろうか?そう思うと合点がいく。

自分の行動を省みることなく、本能のまま「毒」を使うことで人を傷つけることも是としている可能性はあるだろう。

だが、もし誰かを傷つけていることを好まず、毒のある言葉を発する書き手自身が改めたいという気持ちを持ちえたとしたらどうか?

仮にそうであっても、自らが他人のリアクションに違和感を感じなければ始まらないだろう。他者から受け取る違和感から、自分の文章を省みて、きっかけをつかまなければ、永遠に自らが発している文章の「毒」に気づくことはできないのだ。

未知なる毒性を

自分が気づいている言葉の毒性以外にも、まだ知らない毒のある言葉が存在するかもしれない。

たまたま接したことがない種類の毒という可能性もある。

ある人には平気だが、別の人には毒となる、アレルギーを引き起こすタイプの毒もあり得るだろう。

言葉の力を信じているから。

その毒性の扱いにも細心の注意を払おう。

未知なる毒性の存在を心に留め置きつつ。