猛盲

8 目を開けていても見える自分以外には見えないもの

 点滴の不快な感覚はおそらく昼食の最中にあらわれはじめ、ナースコールをしてみたが、一向に人がこなかった。だからこの感覚を無視してやりすごすことにした。はじめのうちはそれが可能だった。だから点滴について語る前に、この昼食の時間に現れたもう一つの変化について語ろう。
 目を開けていてるときに見える幻覚が出現しはじめるようになったのである。

 目を閉じたらさまざまなイメージが動いている。これは驚くべきことだが、しかしよく考えれば普通の人でも目を閉じればチカチカとした光のもやを見ることができるはずで、私が見ているこれも、実はそれらと同じカテゴリーの体験なのだろう。このような誰もが見たことがあるがしかし共有できない視覚現象と言えば、飛蚊症もまたそうである(目が良い人にはそんなものはないのだっけ?)。すると、この飛蚊症も、私の場合これまでと違ったものになっていてもおかしくない。大体このようなことを考えて、私は目を開けていても自分にしか見えない何かが見えるのではないかと予想した。
 すると、中空に小さな黒い点のような塵がいくつか浮かんでいるのが見えはじめた。それは周囲をただよっている。飛蚊症の黒いもやと同様に視線を勢いよく動かすと風で飛ばされるように勢いよく移動する。そしてただよううちに、なんとなくまとまっていき、なにか不定形の立体の輪郭をとるようになったのである。
 まばたきをすると、その立体は霧散してまたバラバラになってしまう。視線をうまい具合に動かすとはやく形にまとまっていく。ちょっとコツがあるようだ。なんだか面白くなってきた。

 しかし、目を開けているのに見えているわけだから、私は今幻覚を見ているのだ。幻覚といえば、やっぱりおなじみなのは虫だ。うねうねしているやつだ。学校で見せられる麻薬ダメゼッタイ系の映像でも、幻覚といえば虫だった。
 昼食を眺めてみたら、案の定サラダのかげからひょこひょこと出てきた。芋虫系と言おうか、足のないジェリビーンズをいくつかつなげたような半透明の虫が這いだしてきている。想像していたようなおぞましさはなく、むしろかわいらしくさえある。おそらく、麻薬中毒者とちがって私はこれが幻覚であるということを知っているからこのように冷静でいられるのだろう。そのように考えた。

***

 しかし、今になって考えてみると、皮膚の下でうごめく虫どもに苛まれる麻薬中毒者と、胸のあたりを通り過ぎる点滴の冷たい液の流れ(普通は感覚できるとしても腕の血管のあたりだけである)と臓腑が肋骨にはさまれて起きる感覚(何なんだその感覚は)に悩まされる当時の私との間にはさして大きな違いはない。
 これらの感覚は徐々にどうにも無視できないものになってゆく。

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