ナウシカ粘菌

ここすき1 宮崎駿のうごめくドロドロ

極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます     
                   ――宮崎駿

 私は宮崎駿のアニメーションによく出てくるあの気持ち悪いうごめくドロドロの描写が好きだ。代表的なのは、『もののけ姫』の冒頭に登場するタタリ神だろう。映画版『風の谷のナウシカ』の肉を腐らせつつ動く巨神兵をあげてもよい。あるいは『千と千尋の神隠し』における暴走するカオナシなんかもその範疇に入るかもしれない。
 ドロドロと形を崩しながら、のたうち身をよじって暴走し、ただ一心不乱に動く。このダイナミックな動きの表現は、私の眼を惹きつける。
 さて、二〇一六年十一月十三日、「NHKスペシャル 終わらない人 宮崎駿」というドキュメンタリー番組が放送された。この番組のある一シーンが話題を呼んだことをおぼえている方はいるだろうか。
 ドワンゴの会長でもある川上量夫の率いるCGチームがその技術をプレゼンテーションする、という一幕である。彼が宮崎駿らに見せるのは、黒ずんだ肉塊のような人間が転がるように這って移動しているCG映像である。彼は言う。

「これは「速く移動する」っていう学習をさせたやつなんですね。これあの、頭を使って移動しているんですけど、基本は痛覚とかないし、頭が大事とかっていう概念がないんで、頭を普通の足のように使って移動している。この動きがとにかく気持ち悪いんで、ゾンビゲームの動きに使えるんじゃないかっていう、こういう人工知能を使うと、人間が想像できない、気持ち悪い動きが出来るんじゃないか。うちはこんなことをやってます。」

 宮崎駿は少し考えて次のように述べる。

「あのう、うーんとね、毎朝会う、このごろ会わないけど、身体障害の友人がいるんですよ。ハイタッチするだけでも大変なんです。彼の筋肉がこわばっている手と、僕の手でハイタッチするの。その彼のことを思い出して、僕はこれを面白いと思って見ることできないですよ。これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら、勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めてなにか、生命に対する侮辱を感じます。」

 このやりとりは当時話題になったものである。基本的には、宮崎駿に同意して川上量夫とこの気持ち悪いCG映像を批判する、という反応が多かったように見えたが、中には「生命に対する侮辱」などという物言いについて宮崎駿を批判する人もいくらかいたことをおぼえている。「新しい技術を受け付けない老害」、という視点で批判するものもいれば、「気持ち悪いもの」を表現しようとすることが「生命に対する侮辱」であると言われるのはおかしい、と言う者もいた。また、「気持ち悪い動きから身体障害者の友人を想起するなんて差別じゃん」なんてツッコミをいれる者もいた。
 そして、そういった批判のなかには、「巨神兵はどうなんだよ」というように宮崎駿がかつてした「気持ち悪いもの」の表現についての言及もあったことを思いだす。そう、「気持ち悪いもの」の表現について言えば、宮崎駿はそれを回避しつづけた作家であるどころか、それを何度も作品にのせた作家なのである。
 身を崩しながらもただただ動きつづける、という宮崎駿の表現を取りだすと、むしろ、頭も何も気にせずにただただ「速く移動する」ことを目指して跛行する川上量夫のゾンビとまったくそっくりである、と言うことすらできる。では何故宮崎駿は「生命に対する侮辱」などと口走るのか。耄碌の果ての馬鹿馬鹿しい自己矛盾なのだろうか。
 さて、ここで、たとえば『もののけ姫』のタタリ神のシーンを見返すならば、われわれは両者の対照的な違いを見いだすことができるだろう。それは、CGとアニメーションだとか、映像の質だとかいったものの差ではない。川上量夫のゾンビは「痛み」をもたないためにめちゃくちゃに跛行できるのだとされた。だが、このタタリ神は、何よりも痛みと苦しみのためにのたうちまわり、暴走するのである。猪神である「ナゴの守」が石火矢の弾を受けて、その痛みと苦しみにより人間を憎むタタリ神に変化したもの。『もののけ姫』の冒頭を飾るドロドロの怪物の正体はこれである。
 宮崎駿にとって、この「気持ち悪いもの」は、まさに痛みによって駆動されているのだ。
 ところで「巨神兵はどうなんだよ」というコメントはニコニコ動画から拾ってきたのだが、巨神兵はどうなんだろうか。
映画の中では、巨神兵はただただ恐るべき兵器として王蟲をなぎ払うばかりで、痛みなどはほとんど描写されていない。ここで漫画版『風の谷のナウシカ』を参照してみよう。すると、ここでは巨神兵がドロドロに腐って崩れ落ちてしまうのは物語の終盤の終盤、シュワの墓所を攻撃するシーンである。
 『風の谷のナウシカ』が映画版と漫画版とで物語がかなり異なるということはよく知られていると思うが、ここで巨神兵は単なる兵器ではなく、人格をもった存在である。彼は、ナウシカを自分の母とみなして、その願いをかなえるために呪われた技術を人間に提供するシュワの墓所を破壊しようとする。たしかに最終的にドロドロに腐ってしまうのだが、この描写はタタリ神や映画版『風の谷のナウシカ』の巨神兵のような手の付けられないドロドロとはまったく様相が異なると言っておかねばならない。
 だが、漫画版『風の谷のナウシカ』はドロドロの怪物という宮崎駿のモチーフについて極めて雄弁に語っている。土鬼(ドルク)の開発する生物兵器たる瘴気をはなつ粘菌、それがこの作品におけるドロドロの怪物である。
 ここで漫画版『風の谷のナウシカ』のあらすじを簡単に紹介しておこう。文明の崩壊した荒廃とした世界にトルメキア王国と土鬼諸侯国連合の二大国が戦争をしている。「風の谷」はトルメキア王国に自治権を認められている辺境自治国の一つだが、辺境自治国とはトルメキア王国を宗主とする実質的な属領である。安全を保証されるかわりに戦時にはともに出征しなければならないのだ。
 物語はそんな自治国の一つであるペジテから避難民をのせた飛行船が風の谷の近くの腐海のほとりに墜落するところから動き出す。ナウシカはこときれる直前のペジテの王女ラステルから大切な石を託される。これがためにトルメキアは盟約をたがえてペジテをほろぼしたのだ(これは巨神兵を蘇生する鍵となる「秘石」である)。
 ここから物語はトルメキアからきたクシャナ率いる部隊から「秘石」を隠し立てして一騎打ちになったり、盟約を盾にクシャナらとともに出征することになったり、そこをラステルの兄アスベルが奇襲し撃ち落とされたり、そのアスベルを助けるためナウシカが身を挺するも気絶して腐海の下層部へ転落する、という具合に転がってゆく。
 この下層部は不思議にも瘴気のない清浄な空間だった。腐海はこの世界をどうやら浄化しているらしいのだ。映画版ならば、それは母なる地球の自然治癒力なのだと観客は理解しただろう。だが漫画版は違う。
 この空間から脱出したナウシカらは土鬼軍の王蟲の群れを敵へけしかけるという作戦を目の当たりにする。ここから物語に一つの方向が生まれる。土鬼軍は王蟲の子供を痛めつけることで作戦を可能にしていたが、いくら子供でも王蟲を捕獲することは人間には到底不可能だ。何か呪われた技術の気配を感じたナウシカは、その先に待つ「とてつもなくおそろしいこと」への予感を胸にその源をつきとめるために、対土鬼のクシャナの戦線に志願して加わることを自ら選択する。人工的に培養される王蟲、人造人間ヒドラ・・・・・・呪われた技術を追うナウシカは、土鬼の首都シュワにある「墓所」なる施設がその源であることを知って・・・・・・。
 さて、粘菌の生物兵器であった。これはナウシカが目撃する呪われた技術の一つである。瘴気をはなち一気に増殖して短期間で死滅する一代かぎりの作られた生命、それがこの粘菌である。
 だが、事態は技術者らの思い通りにはいかない。粘菌は突然変異を起こして爆発的に増殖し、大地を呑み込みのたうちまる。突然変異した四体の粘菌は、村や畑を押しつぶして合流しようとうごめき暴れ、激しく瘴気をはなつ。
 この粘菌はしかし、突然産み落とされたこの世界に戸惑い怯えているのである。ナウシカは「タスケテ」「コワイ」「コワイ」という粘菌たちの心の声を読む。そう、ここでもドロドロの怪物は痛み、怖れによって駆動しているのだ。
 こうした粘菌たちに対して、王蟲たちは自らの体を苗床として提供することによって腐海生態系のなかに受け容れる。そして、受け容れられた粘菌はその生態系のなかで食いかつ食われ、かつての巨大で狂暴な怪物とはまったく異なる、森の一部の生命になる。この粘菌は作られた生命にすぎない。だが、それは関係ないのだ。作られた生命もまた、生命なのだ。
 それだからナウシカは「庭の主」(旧世界の動植物や文化・芸術を保存する庭園に住む不死の番人)から墓所の破壊を思いとどまらせるために事の真相――腐海はこの星を浄化するために人工的に作られた存在であり、現生の人間たちは汚染した環境に適合するように作り変えられたので、浄化された世界では生きることができない――を告げられたときも、次のように言うことができた。

たとえどんなきっかけで生まれようと生命は同じです おそらくヒドラでさえ・・・・・・ 精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるんです 粘菌の変異体にすら心があります*1

 漫画版『風の谷のナウシカ』のラストは賛否両論である。ナウシカは墓所を破壊する。それは同時に浄化が完成する「世界をとりかえる朝」のあとに生きるおだやかでかしこくなるように調整された人間たちの卵の破壊でもある。したがって、普通に考えるならば、ナウシカの世界の未来は最終的には人類の滅亡に終わるはずである。だが、ナウシカは破壊する。彼女は言う。

私達の身体が人工で作り変えられていても私達の生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている その朝が来るなら私達はその朝にむかって生きよう 私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!! 生きることは変わることだ 王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう 腐海も共に生きるだろう だがお前は変われない 組みこまれた予定があるだけだ 死を否定しているから・・・・・・*2

 ナウシカはあの粘菌たちのことを知っている。兵器として作られたにもかかわらず、予定をこえた変異をおこし、そしてさらに王蟲の提供した生態系のなかでまたすがたを変えたあの粘菌たちのことを。ナウシカの破壊はけっして単なる絶望でも虚無でもない。「清浄と汚濁こそ生命だ」「いのちは闇の中にまたたく光だ!!」*3とナウシカは叫ぶ。
 この世界はその後はたしてどうなったのだろうか。「墓所の主」が予測したように人類は滅亡したのだろうか。たしかなことは何も言えない。ただ一つたしかなことは、ナウシカの存在を旧世界の人々は予測しえなかったという事実それだけである。
 ドロドロの怪物。のたうちまわり身をよじる怪物。宮崎駿のこの描写は生きることのどうしようもない切実さを表現している。生命はけっして満ち足りた光ではなく、闇や死、痛みと怖れと隣り合いながらうごめく。この気持ち悪いものこそ、生命なのである。
 さて、私は先に宮崎駿のドロドロの怪物と、川上量夫のゾンビはまったくそっくりではないか、と言った。もう一度言おう、まったくそっくりである。
 ウィトゲンシュタインによれば、「痛い!」と叫ぶことは「痛み」という感覚を指示する言語などではなく、泣いたり身をよじったりするのと同じ痛みのふるまいの一つなのだという。そうであれば、川上量夫のゾンビが「痛い」と訴えないからといって、ましてや「痛覚」の設定がないからといって、単に痛みを知らないなどと形容すべきではない。
 私は、このゾンビを遅くあることに苦痛を感じる生命体として眺めることができる。この生物の唯一の願いは「速く移動する」ことである。「ハヤク」「ハヤク」と川上量夫のゾンビは跛行する。人型をしているなら頭を足にして転がるよりも、ボルトのように普通に走る方が当然速いはずだ。だが足腰が立たないのか制御がきかないのか、ただただむちゃくちゃに跛行することしかできない。ひどく不器用な生物である。
 宮崎駿はこの気持ち悪い動きを不快に思って「生命に対する侮辱」と言ったのではない。彼にとって、この動きそのものは身体障害者の友人を想起させるものでしかなかったはずだ。彼が「侮辱」と考えたのはそこではない。この動きを見て、「痛覚とかないし」と言い、それをゾンビゲームか何かのために気持ち悪い動きを生産する道具としてのみ考える、川上量夫の動きについての感受性そのものが「生命に対する侮辱」なのである。
 「これを作る人たちは痛みとかそういうものについて、何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。」この言葉からも分かるように「不愉快」なのは痛みについて「何も考えないでやっている」ことなのだ。表面的な、気持ちの悪い動きだけが欲しいのであれば勝手にすればよい、宮崎駿はおそらくそう思った。

*1 宮崎駿『風の谷のナウシカ 7』(徳間書店)、133頁。
*2 同上書、198頁。
*3 同上書、200~201頁。


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