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「反開発」 パレスチナを覆うもう一つの暴力

 2023年10月7日土曜日、早朝。ガザ地区を実効支配するイスラム組織「ハマス」が、突如イスラエルに向けて大量のロケット弾を降らせた。同時にハマスは、パラグライダーなどを用いて越境攻撃を開始する。ガザ地区近郊ではちょうど、ダンス音楽を夜通し流し続けるレイヴイベント「ウニヴェルソ・パラレロ」がワールドツアーと称して特別に催されていたが、そこにハマスが突撃、民間人260人以上が死亡することとなった。

 世界はこのいきなりの出来事に驚愕した。そして10月8日から、イスラエルはガザ地区に対する空爆を開始した。

 この空爆はもちろんガザの民間人を大きく巻き込むものであった。17日の時点で、パレスチナの保健省は3000人以上が死亡し、負傷者も1万2500人に上ると伝えている。
 相変わらずのパレスチナ人に対する殺戮が起こっているのである。

 しかし、にもかかわらず、世界(とくに欧米)の目はパレスチナに対して冷淡である。
 8日にドイツではブランデンブルク門がイスラエル国旗のライトアップで照らされたが、12日にはドイツを含め、イギリス、フランスで親パレスチナの立場からデモを行うことが全面的に禁止された。またアメリカでは13日に、イスラエルを非難する抗議署名にサインしたハーバード大学の学生34名の顔と名前を「反ユダヤ主義者」として晒しまわるトラックが道を走り回った

 日本は欧米ほどには鮮明でないにせよ、それでもなんとなくパレスチナに対する冷淡な視線が瀰漫しているように思われる。その原因の一つには、今回の出来事の発端であるハマスの攻撃で多くの民間人の命が失われたことがあるだろう。
 音楽イベントの参加者と思われる死体を持ち帰って歓喜するハマスとガザの住民の映像が出回り、またあるキブツではハマスによって40人の乳幼児が斬首されたという(のちに真偽不明の情報であることが判明、ハマスもこの件を否定している)。
 しかしもう一つの原因には、ハマスの攻撃が今回の出来事の「発端」であると思われていることがあるのではないか。もちろん、多くの人は、昔からパレスチナでは難しい問題があったらしい、ということはなんとなく知っているのだろう。だが、今現在まで何が続いていたのかについてはほとんど知らないのではないか。
 たとえばつい先月、9月の19日にもイスラエル軍によるジェニン難民キャンプ掃討作戦があったことなど目の端にすら入れていないだろう。なんなら最近あまりパレスチナのニュースを聞かないから小康状態にあるのではと錯覚しているのではないだろうか。そういう人にとっては、ハマスが、一方的に今になって突然「平和」を破ったように見えるだろう。実際には「平和」は破られつづけていたにも関わらず。

 では実際、10月7日にいたるまで、パレスチナはどのような有り様だったのだろうか。日常的な空爆、日常的な兵士の威圧、検問、植民、そして殺人・・・・・・。10月7日までのパレスチナのニュースをあさればすぐにそういった情報が出てくるだろう。
 だがパレスチナをむしばんできたのは、このような直接的な見ることのできる暴力だけではない。イスラエルによる「反開発」という見えざる暴力もまた、パレスチナを苦しめてきたのだ。
 10月7日まで、パレスチナで何があったのか。何が続いていたのかを理解するためには、この、サラ・ロイがイスラエルの対パレスチナ政策を分析する際に用いる「反開発」という概念を理解する必要がある。ハマスの民間人虐殺に与するつもりはないが、本noteがひとまず示したいのはこのことである。

 この「反開発」というものを理解するために一つ逆の視点を引き合いにだそう。
 X(旧Twitter)上で「医療品や食料品が枯渇という話はガセ」「ガザのショッピングセンターはイスラエルからの輸入品で溢れかえっている」という発信が注目を集めている(このアカウントは他にも「ガザが「地球上で最も貧しい場所の一つ」というのは大袈裟」「ハマスは「まるで家庭内暴力をしている引きこもり状態」」などとも発信している)。次のような投稿である。

 「ガザのショッピングセンターはイスラエルからの輸入品で溢れかえっている」というのは、このアカウントが動画でも示す通り、ある一面で正しい。だがこのことを正しく理解するためには、「反開発」という概念を想起する必要がある。
 この観点から見れば、「ガザのショッピングセンターはイスラエルからの輸入品で溢れかえっている」ということ自体が、イスラエルのパレスチナ支配のグロテスクな半面をなしているのである。

 しかし「反開発」とは何だろうか。
 この言葉は、経済学、開発研究、ポストコロニアル研究などで用いられる「低開発(underdevelopment)」という言葉をもとにしている。この言葉は、発展途上国の「発展途上」の内実を問う概念といえよう。経済史学者アンドレ・グンダー・フランクの考えでは、発展途上国の現実を単に「未開発(undevelopment)」な状態として捉えることは間違っている。「未開発」というのなら、先進国もかつてはみなそうだった。現代の発展途上国の現実を特色付けるのは、発展途上国(フランクは「衛星部」と呼ぶ)の発展が、先進国(フランクは「中枢」と呼ぶ)の発展を支える形で発展するという点である。発展途上国は、先進国に資源を提供し、労働力を提供し、市場を提供する。あくまで先進国の発展を支える仕方でしか発展できない、この発展途上国の歪な現実を表したのが「低開発(underdevelopment)」という概念である。
 だが、サラ・ロイが「反開発(de-development)」という言葉を用いるとき、彼女が示そうとしているのはそれともまた異なる現実である。
 「低開発」は、歪んだ形とはいえ発展途上国の発展を許容する。というより、先進国は発展途上国の生産力を利用する以上、ある程度発展してもらわねば困るわけだ。だがパレスチナの現実を単に「低開発」の状態として捉えることはできない。
 早尾貴紀によるサラ・ロイの議論の要約を参照しよう。

一般の第三世界に対する植民地主義的搾取論では、その地における住民の潜在的な生産力を活用して利潤を発生させることを目的としているが、それに対してシオニズムが目指すのは純粋なユダヤ人国家であり、パレスチナの土地は欲しくともパレスチナ人は消滅してほしいと願っている。過渡的には労働力としてパレスチナ人を利用することはあっても、それはパレスチナ人の生産力を高めるためではけっしてない。イスラエルによってパレスチナ占領地とは、主権国家ではないのはもちろん、主権国家となりゆく一切の生産的要素(民族主義も自立経済も文化活動も)が周到に否定されるべき場所なのである。(GS, pp. 123-128)
 イスラエルがガザ地区に対して行っている「反開発」政策を特徴づけるのは、ロイによると以下の三つの要素に整理される。①収奪と追放、②統合と外部化、③非組織化。収奪と追放というのは土地や水などの資源を奪い取ること、そしてそれに抵抗する力を潰すことだ。統合と外部化というのは、ガザ地区の住民がガザ地区内部で労働できないようにし、イスラエル側で労働するか、周辺アラブ諸国に出て労働するか、どちらかに追い込むことだ。非組織化というのは、前述の二者の論理的帰結でもあるが、ガザ地区における組織的な開発に対する攻撃を意味する。すなわち、ガザ内外の公的・私的を問わない各組織が手をつなぎガザ経済の発展に向けて協力するのを阻止すること、そしてもう一方でさまざまな制約で縛り衰退させることだ。(GS, pp. 130-131)

サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ パレスチナの政治経済学』
岡真理・小田切拓・早尾貴紀編訳(青土社), pp. 26-27

 早尾はサラ・ロイのいう「反開発」を「コップの底を「叩き落とす」行為」(同書, p. 109)とも表現している。底のないコップはどんなに水を注いでも水が溜まることはない。それと同様に、どんなにパレスチナの経済成長を促す国際的援助をしたところで、それは現地の発展につながらないのである。
 まずパレスチナ人はパレスチナ内部に工場といった安定的な生産拠点を作り出すことができない。
 水や燃料といった資源が外部に握られているというのはもちろんとして、仮に完成したとしてもすぐにイスラエルの空爆によって破壊されるおそれがある。それらを乗り越えて商品の生産までこぎつけたとしても、それを自由に輸出することができない。諸外国への玄関口となる海は、イスラエルに握られているからだ。もちろん、陸路はイスラエルの建設したフェンス、検問所、文字通りの壁によって遮られている。空の道は、1998年からガザ地区でヤーセル・アラファト国際空港が開港されたが、2001年にすぐ空爆され閉鎖されている。
 ということは、そもそもパレスチナ人は諸外国から自由に物資を輸入することもできない。工場のための資材、そして上水・下水のインフラを整えるための資材すら自由に輸入することができず、そのためそもそもパレスチナ人は自分たちのための工場を建設することはできない。工場がだめでも農業なら、と思っても、すでに見たように自由に輸出することができないから、どれだけ実っても腐らせるか捨てるしかなくなってしまう(サラ・ロイはある老人が「果樹園でオレンジが腐るのを見るくらいならと」(同書, p. 59)海にオレンジを投げ込むさまを描いている)。
 パレスチナ内部の雇用がガタガタだから、パレスチナ人は外部に働きに出るしかない。パレスチナ人の生産力、労働力は他国の工場、イスラエル政府の管理する工場を富ますのに使われるのである(その職も、もちろん必ず得られるとは限らない)。
 幸運にもどうにか職を得られたパレスチナ人は少なくともいくらかの賃金は得ることができる。だが、すでに見たように国内にはまともな生産拠点がないため、そのいくらか入った賃金や、国際援助で入ってきた予算も、他国の商品を購入するために用いられることになる。その他国とは、主にイスラエルである。

 底から流れ落ちたコップの水は、イスラエルに向かう。経済援助についていえば、パレスチナの輸入品の多くがイスラエル製品であるため、それは確実にイスラエル経済の底上げをする。

(同書, p. 118)

 これが「反開発」と呼ばれるパレスチナの現実である。「ガザのショッピングセンターはイスラエルからの輸入品で溢れかえっている」とは、このような「反開発」の現実の半面を描いたものなのである。
(なお、平均寿命に関して言えば、2021年のパレスチナ人の平均寿命は73.47歳で、世界90位、統計のとれる207ヶ国のなかではたしかに標準的と言える。だがランキングとしては北朝鮮(73.28歳、92位)をわずかに越えるという程度で、これだけでパレスチナの医療状況を推し量ることはできないだろう(というより、このランキングを見て憂うべきは、パレスチナや北朝鮮でさえ「標準的」とならざるをえない世界の状況についてではないだろうか))

 「医療品や食料品が枯渇という話はガセ」というのは、なるほど「常にいかなる瞬間でもそうである」という意味で捉えるならガセとなるかもしれない。だが、それらの製品はイスラエルで作られたか、でなければイスラエルを通してしか輸入できない以上、イスラエルが望むなら「常に現実になりうる」(そしてしばしば現実となる)。イスラエルが望むなら、水や燃料、電気はもちろんのこと、医療品や食料品もすぐに枯渇することになるのである。

 そしてオスロ合意が、この「反開発」の猛威をさらに加速させることになった。
 世間的には、オスロ合意はイスラエルとパレスチナの平和への前進と見なされがちである。それは両者の相互承認と(ただしパレスチナがイスラエルを「国家」として承認し、イスラエルがPLOを「自治政府」として承認するという「相互承認」だが)、イスラエルの占領地域からの暫定的に撤退し今後に向けて協議することの合意とされている。
 それで結局何が起こったのか。イスラエルはパレスチナから徐々に撤退、そして代わりに封鎖するようになったのである(この点に関しては補足する必要がある。イスラエルはたしかにガザからは撤退したが、西岸に関してはむしろ入植を加速させた。記事の最後に補記しておく)。たしかに占領してはいない、ただ取り囲んでいるだけだ、ということになったのである。世界から分断された壁のなかで好きに暮らせばよい、好きに死ねばよい、というのがオスロ合意の帰結なのである。

オスロ合意による和平プロセスとは、イスラエルによる占領という構造の廃止を目指すものではありませんでした。それは、形こそ違えど、占領を維持し、さらに強化するためのものだったのです。オスロ合意後の何年かのあいだに、経済は著しく悪化し、反開発(de-development)のプロセスが加速化しましたが、この反開発のプロセスは、封鎖がもたらした諸結果によってさらに悪化していきました。この封鎖がもたらした諸結果こそ、オスロ時代[一九九三年-二〇〇〇年]とオスロ以後の時代[二〇〇〇年以降]の経済を根本的に特徴づけるものです。そのためにパレスチナ経済は、国連によれば、オスロ時代において国民所得が三六パーセントも減少しました。封鎖はさまざまな損害をもたらしましたが、なかでも、西岸地区とガザ地区は物理的にも人口的にも切り離され、隔絶されてしまいました。パレスチナ経済とイスラエル経済の関係も弱まり、その結果、失業と貧困が増大し、収入は激減しました。労働市場や商品市場へアクセスする機会も減少しました。
 封鎖がまったくもって破壊的な影響を及ぼしたのは、ひとえに、パレスチナ経済が二六年間[一九六七年-九三年]にわたりイスラエル経済に組み込まれ、地元経済がイスラエル経済に深く依存し、きわめて脆弱なものとなっていたためでした。その結果、一九九一年に[イスラエルとガザ地区との]境界線が初めて閉鎖され、その後一九九三年により恒久的な形で閉鎖されると、自力で経済を支えることはもはや不可能になりました。そのための手立てなど何ひとつなかったからです。パレスチナははるか昔に、発展するために必要な力を奪われてしまっていたのでした。何十年にもわたって[土地や水などが]収奪され、経済が統合され、制度や組織が破壊されたことで、持続可能な経済構造などどうやっても出現しえない、そしてそれゆえに持続可能な政治構造もまた出現しえない、そのような状況が作られてしまいました。

(同書, pp. 61-62)

 最後の「それゆえに持続可能な政治構造もまた出現しえない」は、先ほどの引用での「③非組織化」に相当するが、ハマスの問題もここから考える必要がある。というより、ハマスに関して言えば、アラファト率いるファタハの力を削ぐために、イスラエルが資金援助などを行ってきた過去がある。

https://www.washingtonpost.com/news/worldviews/wp/2014/07/30/how-israel-helped-create-hamas/

 また、2019年にもネタニヤフ首相は「パレスチナ国家樹立を阻止するためにハマスを支援し資金供給しなければ。それが我々の戦略だ」と発言しているのである。
 そのような経緯を脇においたとしても、いかなる持続可能な経済構造も出現しえない、そしていかなる持続可能な政治構造も出現しえないという「反開発」の現状が、ハマスの台頭をまねいた、と言うことはできるだろう。
 いかなる持続可能な何かに希望を託すことのできないパレスチナの現実のなかでは、イスラエルに対するロケット弾という、まさに持続不可能な政治的手段しかもたない集団すら、一定の支持を(もっとも数千人規模の反ハマスデモも起きていたのだが)集めてしまうのである。
厳密にはハマスは一九六七年六月の境界線に沿う形での妥協を提示し、ロケット弾以外の政治的交渉を模索していたようである。これはナクバから六七年までのことは妥協するということであり、きわめて大きな譲歩だった)

 このような状況に対して、有効な処方箋は、決して空爆によって、さらには地上侵攻によってハマスを殲滅することではないだろう。
 イスラエルは、パレスチナ北部から民間人を退避させた後で地上侵攻でハマスを殲滅するという。これに対し、民間人が退避しきれるわけがない、という声が聞かれる。だが、もっと言えば、仮に民間人が退避できるなら、ハマスだって退避できるのである。
 そして一番ありそうなのは、民間人は退避しきれないが、ハマスは組織を再編できる程度の人員は退避させることができた、という結末である。そうすると、殲滅という結果が得られることすら疑わしい。
 そもそもハマスという集団の殲滅が成功したとして、パレスチナの現実が未来の見えない「反開発」の状態のままであったなら、パレスチナ人はふたたびハマスのような別の集団を支持するか、あるいは個々人の捨て身の攻撃に走ることになるだろう。言葉による抗議はとうに無視され、投石による抗議も、爆弾による攻撃も、等しく銃で迎えられるとすれば、爆弾の方がマシな選択肢ということになる。

 必要なのは、問題を生み出した構造、問題そのものであるような構造を変えることである。ハマスを解決するためには、ハマスを生み出した現実、ハマスを必要とした現実の問題を解決しなくてはならない。言葉の無力が武力のテロリズムを呼んだのなら、その解決は、武力で応じることではなく、言葉をふたたび、力あるものにすることにあるはずだ。
 これを殲滅で解決しようとするなら、最終的にはユダヤ人問題をガス室で「解決」しようとした一党と同じ末路をたどるほかない。



補足:10月7日まで、どれだけの「現実」をパレスチナは呑み込んだか


 ハマスを起点にして10月7日を語るものは、しばしば次のように言う。イスラエルを怒らせたら殲滅されるのは当然だ、非現実的な行動だ、と。だが、ハマスを招き寄せたイスラエルの行動が、そんなことをすれば蜂起されるのは当然だ、非現実的だ、と批判されることは少ない。しかしとにもかくにも現実主義、丸山眞男が批判するような「現実」主義の立場に立つ者は、その観点からハマスを、そしてパレスチナ人を批判する。何にせよ、イスラエル国という「現実」があるのだからそれに適応しなくてはならない、と。

 では、パレスチナ人はこれまでどのような「現実」を呑み込むように仕向けられてきたのだろうか。この点を分かりやすく示しているのが、パレスチナ問題を語るときによく掲示される以下の地図である。

https://altertrade.jp/archives/11771より

これはパレスチナの地図の歴史的変遷を示したもので、最初の一枚は1946年のパレスチナ、次の一枚は1947年の国連分割決議で示された地図、その次はナクバと第一次中東戦争の結果として事実上つくられた境界線。そして3枚目と4枚目の間にはじつは一枚地図が省略されている。それは真っ白な地図で、つまり、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが全土を支配した地図である。しかし地図ではそうでもそこにはパレスチナ人がいる。有形無形のさまざまな抑圧、暴力が横行し、それが1987年の第一次インティファーダ、投石による抵抗運動につながる。最後に現在。オスロ合意によってまがいなりにも色分けは復活したが、孤立したガザ地区と、分離壁と入植によって虫食いだらけになった西岸地区の地図である。これは1999年の地図なので、現在はもっと細かくなっているだろう。これだけの「現実」を呑み込むようにパレスチナは強いられてきたのだった。

 二枚目の国連分割決議の時点で、これはたいそう非現実的と言えた。現実の人口比にもそぐわないし、きわめて非現実的な飛び地の地図である。だがこれが国連で決議されるや、この「現実」を不服とするアラブ人こそ非現実的であるとされた。次にナクバである。数々の村で虐殺が起こり、531の村が破壊され、11の都市が無人となり、約80万人の人々が難民となった(イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』[1], p.3)。一度故郷を離れた人々は、もはや帰ることができず、難民としての生活こそが「現実」となった。残された空き家をイスラエル国はユダヤ人に与え、すでに我々が住んでいる以上、帰還権を求めることこそが非現実的であるとされた。また、イスラエル国内にとどまることのできたパレスチナ人は、「ユダヤ人国家」[2]であるイスラエル国において、二級市民の扱いを受けることとなった[3](こうした点で、イスラエルの施策は「アパルトヘイト」と形容されることも多い)。

 そして現在。これはとくに「オスロ和平合意」と呼ばれる合意の結果としてあらわれてきた状況である。パレスチナはイスラエルを国家として認め、イスラエルはPLOをパレスチナの自治政府として認める。そしてイスラエルは占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府の自治を認め、その5年の間に今後の詳細を協議する。これだけ聞けば良さそうに聞こえるかもしれない。だがこれは実際に撤退する、自治するということでなく、どのように撤退するか、自治するかをイスラエル国と自治政府との間の「取り引き」で決めることであった。このきわめて対等でない「取り引き」の結果は、早尾貴紀氏が最近の発表で用いた図を借りれば以下の通りである。

「【緊急生配信】D2021×CLP「ガザで一体何が起きているか -民族浄化とは何か-」」の42:21より引用。https://www.youtube.com/watch?v=QaxAlP_1uHE&list=LL&index=3

 オスロ合意以降、西岸地区の入植地はますます増えていった。そして入植地が増えるごとに、その「現実」に従って、入植地のユダヤ人の安全を守るためにイスラエル軍の管理する地区がますます増えていった。そして上の地図で「自治区」と認められた黄色い領域も、じつはパレスチナが行政権と警察権をともにもつA地区と、警察権をイスラエルがもつB地区に分けられている。これにイスラエルが完全に支配するC地区が合わさって、西岸地区はできているのである。高橋和夫氏はこの状況を次のように描写している。

自治区ではありませんね。町内会みたいなものです。飛び地のようになっている自治区の間を移動しようとすると、そこには検問所があるのです。そこでイスラエル兵が、身分証明書を調べ、「なぜ行くんだ」とか、「行かなくていい」とか言われて、すごく意地悪をされるのです。学校にも自由に行けない、病院に行こうとしてもイスラエルが行かせない例もあります。本当に身動きもとれないのです。

https://ameblo.jp/t-kazuo/entry-12831838897.html
『月刊マスコミ市民』(2023年12月号)2から13頁に、「イスラエルによる構造的テロで爆発したハマスのテロ」として掲載されたインタビューを、高橋和夫本人が再掲したもの。

 西岸地区内部での移動さえ困難である以上、西岸地区とガザ地区の移動はほとんど不可能であった。その孤立したガザ地区内部も、じつは同様の蚕食をうけていた。

サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』冒頭より孫引き。

 このような状況から2000年から第二次インティファーダが起こった。そして「オスロ和平合意」なるもの以降、ただただ既成事実に屈服しつづけているように思われたPLOに対し、ハマスが支持を集めるようになったのである。このようにしてガザが抵抗の拠点となると、イスラエルはガザ地区からようやく撤退する(2004年ごろから)。

 しかしこの「撤退」はじつのところ「包囲」であった。我々は撤退しましたよ、ほら、後はあなたたちのお好きなようにやってくださいね、と言って、後に残されたのは地上は壁と検問で封鎖され、制海権もイスラエルに握られ、空の便は2001年にイスラエルに空爆され破壊されたヤーセル・アラファト国際空港(1998年に出来たばかりであった)の廃墟があるばかりのガザ地区である。人も物も行き来できない、ただわずかにイスラエルによる制限を受けた国連の支援物資が入ってくるだけのいわゆる「天井のない監獄」となってしまったのである。2006年にハマスが選挙に勝利したのには、このような背景がある。
 それから現在に至るまで。以下の図は2008年から2023年に至るまでのパレスチナ‐イスラエルの死者数の推移である。

「【緊急生配信】D2021×CLP「ガザで一体何が起きているか -民族浄化とは何か-」」の46:10より引用。 https://www.youtube.com/watch?v=QaxAlP_1uHE&list=LL&index=3

 ここから分かるのはパレスチナでハマスとファタハが連立し、政治的な交渉の主体が成立しそうになるや、それをイスラエルが破壊しているということである。これで、イスラエルは「オスロ合意」のことが蒸し返されても、交渉する相手、協議する相手がいないと言い訳することができる。また、2018年で死者数が突出しているのは、「帰還の大行進」という平和的なデモ、徒手空拳のままガザとイスラエルの境界にただただ突き進むという自殺的なまでに平和的なデモの結果である。

 このようにイスラエルはパレスチナの政治的・平和的交渉の芽を摘み取りながら、イスラエル国という「現実」を積み上げていったのである。日常的な空爆、日常的な兵士の威圧、暴力、検問、入植、そして殺人。これが10月7日までのイスラエルの、そしてパレスチナの「現実」なのであった。

 発表者とてハマスの「戦争犯罪」を肯定することはできない(だが、そのまえにまずその「戦争犯罪」を「検証」する必要があるだろうが[4])。だがハマスの武装蜂起を否定することができないのは、パレスチナの言葉による抗議、政治による歩み寄り(たとえばハマスは、2017年に綱領を新しくし、1967年以前の境界線での二国家解決を認めている)がずっと無視され、イスラエルの75年の暴力がまるごと見過ごされた上で、しかもそれを国際社会の沈黙が支えてきた過去を知っているからだ。言語的、政治的、そして文化的なさまざまな訴えを無視してきた側が、彼らが武力で訴えざるをえなくなったことを責めることはできないだろう。

(この補足は、以前大学院の演習で「西田哲学と「現実主義」の問題」と題して発表したとき、一章割いてパレスチナの現状を解説したものの引用。この現実のイスラエル‐パレスチナの問題と、西田の「国家理由の問題」などに見られる西田的な「現実主義」(西田の「現実主義」は丸山真男が批判するような現状追認の「現実主義」ではないのだが、それでもなお問題がある)の問題を絡めて論じた)



[1]イスラエル側ではしばしばこの出来事は、虐殺はあったかもしれないが末端の兵士の暴走にすぎず、我々は意図的にパレスチナ人を追放したのでない、臆病なアラブ人が勝手にいなくなったからといって、それは我々の責任ではない、というふうに語られる。だが、この出来事が明確な意図と計画(「ダレット計画」)をもった「民族浄化」である、ということを多様な資料とともに明らかにしたのが本書である。
[2] イスラエルはすべてのユダヤ人には開かれている。ユダヤ人であるというのであれば、ソ連崩壊後のロシア人であれ、エチオピア人であれ国民として受け入れる。しかしそれ以外には厳しい。早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ』を参照されたい。
[3] ホワイト・ベン『イスラエル内パレスチナ人—隔離・差別・民主主義』という本、またイラン・パペ『イスラエルに関する十の神話』の第七章「イスラエルは中東で唯一の民主主義国家である」が詳しい。
[4]少なくともハマスが40人の赤ん坊を斬首したというのは実際には誰も確認していない真偽の怪しい情報であることが判明している。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/eee57997528d590356c779ef96bd6077b3a68251
また、10月7日の音楽フェスの件にしても、イスラエル軍の「フレンドリーファイア」が被害を大きくしたことが分かってきている。(https://electronicintifada.net/blogs/asa-winstanley/israel-admits-immense-amount-friendly-fire-7-october
何にせよ事実確認のためにもまず停戦が求められる。パレスチナ側は2015年にICC(国際刑事裁判所)に加盟しており、捜査を受け入れるだろう(イスラエルはICCには加盟していない)。

 

 



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