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呪いにかかれない自傷タイプの現在地

昨日本書についてnoteを書きました。
「仕事か、家庭か」についてまだ考えたい。まだまだ考え尽くせていない、と思ったので、またひとつ、noteを書きました。

テーマは「ダブルバインドに陥りつつ、自分を守る正当化をできない人は、どうしたらいいのか」です。

1.仕事と家庭のダブルバインド

ダブルバインドは無関係な人同士の間では発生しません。
家庭、恋愛関係、先輩後輩関係、職場の人間関係、学校のクラスメイトなど、その関係性から離脱することが困難な人間関係の中で、つまり強いつながりの中で発生します。
ダブルバインドとは、「相矛盾するメッセージによる束縛」のことです。

私は、「仕事と家庭のどっちが大事なのか?」というダブルバインドに、東京で過ごした4年間、苦しみ続けました。

当時の私は、新米コンサルタントで深夜まで残業し、土日も働かないと仕事が終わらない状況でした。一方で、周囲に親戚のいない環境で新卒1年目に長女、2年目に次女が爆誕し、平日は専業主婦の妻にほぼ全ての家事と育児を任せ、その分の借りを土日で返済する日々でした。(「専業主婦には休みがない」、という論理ですね)

職場からは上司や後輩から「仕事ができないくせに、子育てなんかして」というプレッシャーを感じ、家では「平日まともに子育てしてないのに、土日も仕事して。信じられない」という、どっちにいっても地獄の板挟みに。

思い返すと、職場でも家庭でも、面と向かって非難されたことは多くはありません。勝手に自問自答し、反芻し続け、自らを責める言葉と向き合い続けていました。「ダメな自分にこんなに良くしてくれる職場と家族を責められません」、という『自傷癖』があるのかもしれません。

2.呪いは魔法

僕らは愛と知性を携えているからこそ、呪いにかかるのだ、と。
なぜなら、愛を求めない人間は呪いにはかからないからです。
合理的な思考能力を持たない人間も呪いにはかかりません。
僕らは呪いとともに生きていく---。

ここでいう呪いは、「現実世界をねじまげて解釈することで、愛をもらっている、という妄想を正当化する」、ある種の『魔法』です。

夢から覚めることがなければ、それが例え現実でなくとも、自分の境遇や心身は守れます。自分が魔法を使えたら、あぁはならなりませんでした。羨ましい特殊能力です。

問題なのは、魔法を自分にかけられる人ではなくて、「魔法をかけることを忘れてしまい、愛を、贈与を受け取れなくなり、自傷し続ける人たち」のほうではないでしょうか。

3.魔法を忘れ、自傷するのはだれ?

どうして私は、魔法を忘れたのか。そもそも魔法を使えないのか?

ひとつの仮説を教えてくれたのは、この本でした。

詳しい説明は、この本やFFS理論のHPにお任せするとして、簡単な診断で「自分はどんな特性を強くもっているか」を知ることができます。

多くの人は先天的に「好き嫌いの気質(情動)」をもっています。自由奔放に動き回りたい『拡散性』と、着実に積み上げたい『保全性』。

ですが私には、どちらの気質もありませんでした。

残る3つの後天的な「社会的特性」のうち、論理的に理解する『弁別性』と周囲を受け入れる『受容性』が高い、という結果でした。(ちなみに、5つの特性の最後の1つは、正しいことをしたい『凝集性』です)

合理的に物事を判断していくことができます。物事や状態を明確に切り分けていくことが得意です。 柔軟に物事を受け入れていきます。周囲の喜びを自分の喜びと考えることができます。
(宇宙兄弟とFFS理論が教えてくれる あなたの知らないあなたの強み 診断結果より)

理由なんかない好き嫌いで物事選んだり、自分は正しいという信念をもつことを知らない、合理的で周囲のためにあろうとするタイプ。

コンサルタントを最初の仕事に選んだのも、「どうせ会社で働くなら経営に携わるべき」という合理的な判断と、「自分は裏方がいい」という受容性が理由でした。

このタイプには、好き嫌いによる正当化(嫌いだから愛がなくてもいい)も、自分なりの正しさによる防衛(相手が間違っている)もできません。

4.弁別性+受容性はどう生きるのか

自分には魔法を使うことができない、ということはわかりました。「自分にも魔法が使えるかも」という迷いの苦しみからは解放されましたが、魔法使いじゃない私たちは、どうこの世界を生きていけばいいのでしょうか?

1つの答えは、「世界は贈与でできている」にありました。

贈与の受取人は、その存在自体が贈与の差出人に生命力を与える。
「私は何も与えることができない」「贈与のバトンをつなぐことができない」というのは、本人がそう思っているだけではないでしょうか。

何もできないダメな自分でも、存在するだけでいいのだと。

受容性の私は、「たしかに受け取ってくれる人がいないと、自分も何も与えられない。受取り手としての存在だけでも意味がある」という合意を示す反面、弁別性の私は、「非難や批判にさらされている境遇で、それに気付くのは現実的ではない」と反論します。(全面肯定できずに、すみません。。)

小学4年生で親が離婚して母子家庭で育ち、「父や友人との生活を母に奪われた」という恨みにも似た感情を、母へ抱きながら育った子供時代。揺らがない愛の土台をもたない、という境遇も、強い弁別性の背景にあるのかもしれません。(自分のことながら、ややこしい人間ですね)

5.ひとりじゃダメでも

「あのときどうしたら良かったのか」の答えは、まだ見つかっていません。

ですが、自分の中にある小さな「好き嫌い」の気質を育てていくことはできるんじゃないか、と思っています。(さっき魔法を使えなくて、ほっとしたといったのと真逆ですが)

その結論に至ったのは、妻の驚きの診断結果があったからです。彼女は「拡散性」+「保全性」という、アクセルとブレーキの両方の情動をもっていたのです。(なんという補完関係!これが運命ってやつか)

最後の結論が、のろけにみえるので恥ずかしい限りですし、自力でなんとかする答えを見つけたい気持ちもありましたが、世界が本当に贈与でできているのなら、自力へのこだわりを捨てるのも、いいのかもしれません。

ここまでプライベートの塊なnoteを読んで下さり、本当に有難うございました。なにかのヒントや小さな希望になれば本望です。(受容タイプなので)