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Whoever you are

イギリスに来て11ヶ月。先日、会社から来たメールで「1年前に受けた、海外赴任前の研修は役立ってますか?」というアンケートがきた。あれからもう一年が経つ。輸出管理、法務、税務、安全衛生、情報セキュリティなどなど、国が変われば事業法人も変わるので、組織監督者としてルール違反をしないための、いわゆる基礎的な法令遵守ルールを叩き込まれた。

それらはとても重要なことなので役に立っているんだけれど、「異文化理解」というコースにはどうしても違和感を感じた。そして今でもまったく役に立っていないので、正直にそう書いてしまった。

そのコースでは、まず50問くらいの個人的な質問に答えた後、星占いのように自分のタイプを診断された。自分は「合理的で厳格なドイツ人タイプ」だった気がする。合理的に未来の予定を立てるのが下手だから、ふらふらと2桁以上引っ越ししているちゃらんぽらんなんだけれども…

まあ私の結果は置いておいて、引っかかったのは単一の国民性で区切っていること。イギリスで仕事をしていると、複数カ国に留学・転勤している、移民である、配偶者が地球の裏側の人である… という人たちにざらに会う。デザインという特殊性にも寄るかもしれないけれど、むしろデザイナーで純粋培養なイギリス国民にあったことの方が少ない。すなわち幸い、日本人だからこうでしょ?と言われたことはなく、無意味な偏見無しにデザインができているのはありがたいなと思う。(一方で「NEMAWASHI(根回し)」とか「KY(空気を読む)」とかいう、ある意味日本企業の悪癖を教えてしまった同僚には謝るしかない。)

私も、北国の百姓言葉が起点で、大阪弁、東京弁、フランス語、フランス英語、スコットランド語、アメリカ語、ロンドン語を使って生きてきたから、自分の母国語がよくわからない。雨と飴の発音の違いも分からないし、橋と箸の違いも気にしたことなんてない。標準語で喋っていると、「西寄りに訛ってますね」と言われるし、地元の言葉で喋ると、「お前の方言はおかしい」と言われる。10歳の時に初めて英語に触れたその日から、地元の方言がうまく発音できなくなったのを覚えている。先祖代々、その地から出たことがない生粋の地元民なのに、自分はなぜ地元の言葉すら満足に喋れないんだろうと悩んだ。共通言語は帰属意識の中核だと思う。同じ言葉を喋れない人は、同じコミュニティに所属できないんだと、まるで除け者になった気分だった。どの言葉をマスターするでもない、宙ぶらりんで中途半端な自分が恥ずかしかった。今でも、英語も日本語も本当に下手くそで、どこかに所属できている気がしないけれど、隣人との節度ある距離感を愛することができるようになったので良しとしたい。


言葉は、価値観の線の引き方を決めている道具だと思う。日本語で蝶と蛾は別の言葉だけど、フランス語ではどっちもパピヨン。デザインだって、フランスで大学生をしていたとき、「計算する(numérique)」、「手で作る(maquette)」、「考案する(concevoir)」という3つの授業に分かれていたことを思い出す。それがそのコミュニティの知覚世界であり、大切にしている境界線なんだと思う。

ドイツ人はこう、日本人はこう、だなんて国民性で一概に括って断定するのは、なんだか余計な線引きをしているようで気持ち悪いなあと思っている。実際、「日本人デザイナーとして、イギリスでデザインをする際の障壁は何か?」と聞かれることが多い。英語と日本語の言語的な差分を答えるつもりはない。私は自分の答えとして、「国民性の共通項は少なからずあるけれども、デザインを届けるコミュニティに、どんな人がどんな価値観を持って属しているかを逐一把握するしかない。そのために、共通言語が不自由なのは障壁だと思う。」と答えるようにしている。宗教や政治的側面を除いて、サービス設計において、国民性をユーザーの本質に据えるのは乱暴だと思う。


話を戻すと、もはや国民性で人となりを語るのは無意味だと思う。イギリス英語が不自由で迷惑かけてごめんというと、イギリスの同僚が「Whatever you do, whoever you are.」と励ましの言葉をかけてくれたのがずっと心臓に突き刺さっている。決して、勝手にせえよという投げやりな回答ではなくて、お前の決めたことならお前が責任持って全うしろ。言語がネイティブかどうかなんて二の次だしどうだっていい。お前の意思を尊重する。っていう寛容さを投げかけてくれてくれたことが心の底からありがたい。アメリカだったらこうはいかない、ちゃんと英語喋れないとビジネスパーソンとして生きていけないぞ、と釘を刺されたけれども。


言葉がどうであれ、人懐っこく喋りかけてくれる反面、デザインに対してまったく容赦ないイギリスという土壌が好きだ。少なくとも、人生で一番、デザインに呪われつつも執着している時間を過ごしているんだと思う。デザインと言語は切っても切れない境界線がある。そう言った意味で、自分も国民性ではなく、そのユーザーの言語にきちんとのめり込む必要があると感じる。Google翻訳やOtterがいくら発達しようと、言葉という境界線を理解しようという姿勢は絶やしたくはないと願う。






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