光を待つ夢と猫

 ひらり。
 目の前を横切った、その優雅な姿に。
 あたしは手を伸ばした。
 魅入られた愚者のごとく。迷いもなく、ただ指先が対の羽を持つ生き物を追う。
 そして――

「危ない!!」

 悲鳴のような、怒ったような叫びを最後にあたしの視界も、思考も、ぷつりと闇に閉ざされた。
 ただただ黒く、塗りつぶされた夜のように。

「おやまぁ、とんでもないのが来たもんだ」

 ……?
 誰だっけ、このひと。見たことないけど、知り合い?
 とぼけて気の抜けた声に、そんなことを考える。
 いや、知り合いではなかったはずだ。こんな変態見たことないもん。
 ぺたりと座り込んだ状態で、気づけばここにいた。そういえば、周りの風景も見覚えがない。
 のっぺりとした緑色の木々と、灰色を混ぜ込んだようなくすんだ青色をした空、足に感じるのは、草の感触だ。

「……ぼくはお前の知り合いじゃないし」
「へっ?」
「ちなみに、変態でもないよ」

 怒りを圧し殺したような声だったが、それに反応している場合ではない。

「なんであたしが思ってることわかるの!?」

 エスパーか。こんな格好のひとなのに。変態、もといこの人は真っ黒なフード付きのローブみたいなものを着て、目しか見えない。これを変態と言わずしてなんとする。
 いや、そもそも「人」だと言えるのだろうか。……なぜか頭の上あたりの二ヶ所は三角にピンと立った何かで盛り上がっているし、足元には尻尾のようなものがぐるりとめぐっている。ふわふわの毛だから、猫科の動物の尻尾なのだろうか。どっちにしても尻尾に耳、なんて人にありえない代物だ。
 うんうんうなっていると、はぁ、とあきれたような吐息が耳に届く。
 とぼけたり怒ったりあきれたりして、忙しい人だなぁ。目まぐるしい。

「あのさ、君、自分が思ってること全部、口にしてるって知ってる?」
「え、えぇっ!?」
「あ、やっぱりわかってなかったんだ……」

 目の前の「人?」はもう一度ため息をついた。なんなんだ、この反応。
 ばかにされてるような気がしてムッとするが、相手はお構い無しだ。

「まぁいいけどさ。どーせ色々話してもわけわかんないだろうし、簡潔に教えてあげるよ」

 一瞬の間。その一息の沈黙がなんだかとても恐怖を感じる。
 なんだなんだ、もったいぶって。

「君、死んだから」
「……っはぁ!?」
「午前七時二十八分羽野菜々花十七歳は地下鉄ホームにて線路内に飛び込みホームに入ってきた電車にはねられ死亡しました。死亡確認は搬送先の病院の医師にて、遺体の損傷は大きくなかったってさ」

 あたしは目を見開いて、一息に衝撃の事実を口にした「人?」を凝視した。
 記憶を探るが覚えはない。

「ちなみにぼくは死に先案内人のトワ。君みたいな迷い人をきちんと案内して送るのが仕事」

 芝居じみた動きで礼をして、「人?」ことトワは名乗った。

「さて、君はどこに行くのかな」
「ちょっと待って……」

 座り込んだままの姿勢で額を押さえてうめく。ぐるぐるまわる思考はとりまとめようにも端から崩れ落ち、形をなさない。

「待つ?」
「思い、出す……から」
「思い出す? 何を?」
「あたしか死んだ理由を!」

 首を傾げての問い。何故とでも言いたげだ。その表情に怒鳴り返す。

「だって、突然そんなこと言われても信じられないじゃない。現にこうしたあたしはここにいて、あったかくて心臓が動いて……」
「ここにはいるけど、心臓は動いてないよ」
「!」

 胸にあてた手と、その言葉が真実を告げていた。
 あたたかみのない体。鼓動を響かせない体。
 ……あたしが、死んでいる?
 そんな自問自答などおかまいなしに、「人?」はあたしに向かって手を伸ばした。

「さぁ、行こうか」
「待って、お願い」
「あんまり待てないよ。早くしないと……」
「待ってったら! いま思い出すから! あたしが死んだ、そのときのことを!
「そ。好きにおし。後悔するのは君の勝手だから」

 トワは肩をすくめると淡々と言い放った。くるりと背を向けたかと思うと少し離れ、草むらにしゃがみこむとなにやら地面に触れ、書き込んでいるようだった。意味がつかめない。

「あたしが、死んだ?」

 つぶやいた瞬間、脳裏に意識をなくす直前の光景が像を結ぶ。

「あ……?」
「思い出した?」

 トワが振り返って尋ねる。淡々とした言葉だが、まなざしは穏やかにあたしの答えを待っている。
 何度か首を振り、深呼吸を繰り返して気分を落ち着ける。水底に沈んだ輝石の欠片を拾うような気持ちで記憶を探る。
 脳裏に結ばれる映像。耳の奥で記憶によって再生された音声が響く。
 そうだ、学校に向かっていた。地下鉄のホームで、ちょうど前の列車が出てしまい、一番前で次を待っていた。そこに、現れたのは。

「ちょうちょ……が……飛んで……」

 間髪入れない問いかけが耳に届く。

「どんな色のちょうちょ? どんな風に飛んでいた?」
「黒い、金色の線の模様が入ってた。ひらひら、飛んでた」
「それを君はどうしようと思ったの?」

 疑問の形を取って紡がれる言葉は記憶にかけられたヴェールをはぎとってゆく。答えるたびに鮮明になってゆくのは記憶として刻まれた映像と、音だ。
 それが異様であることになど、気づかない。
 普通の人間であるならば、忘れていることを、何かのきっかけで思い出すことは多々あるだろう。だが、これほどに、機械を再生させるが如くはっきりと正確に、体験した人間がその記憶を思い起こせるはずもない。
 脳の活動は意識せずとも正確な記録を作り、それを再生する。だが、それに改変が加わるのも事実なのだ。
 新たな情報を取り入れ、想像し、創造する力を持つゆえに。ただ記録し再生する機械とは、異なるものなのだから。

「どう……?」

 質問の意味が曖昧でわからない。
 首を傾げたあたしに、トワはゆっくりと繰り返した。

「そのちょうちょを、君はどうしようと思ったの? 捕まえようとしたの? 振り払おうとしたの?」
「手を……」
「手を?」

 宙に伸びた指先。かすかに触れた感触。さわり、と立ち上った気配。

「手を……伸ばしたの」

 トワはひとつうなずいた。

「そう。そして?」
「ちょうちょは飛んでいった……」

 ひらり、ひらりと風に舞って。その姿は消え失せた。

「あたし……そこからの記憶がない……」

 頭を抱えても、何も思い出せない。あるのはただ、目の前を横切った蝶の艶やかで鮮やかな黒と金の混じり。

「それはね」

 沈黙を破ったのはトワだった。先ほどとはうってかわって口調は穏やかで優しい。
 トワが手を伸ばし、あたしの肩におかれた。ひんやりとして骨ばった手だ。
 けれどそこからじんわりと熱を感じた。

「それはね、君が魅入られたからだよ。蝶に呼ばれたんだ」
「呼ばれた…?」
「そう。呼ばれた。そして選ばれた」

 肩にかけられていた手があがる。すう、と突きつけられたのは指先。
 闇色に染められた爪を持った指が、目前でゆらりと揺れる。

「黒と金模様の蝶に魅入られた者は、『導べ』となる者。蝶の安らぐ花の名を持つ者よ。ぼくは新たな仲間を歓迎するよ。ようこそ!」

 両手を広げてトワは熱っぽく語った。そのまま踊り出しでもしそうに。
 ようこそ、ようこそ! ようこそ、と反響して歓迎の言葉が耳の奥をこだました。
 トワは歌うように続ける。

「死の国の案内人。間に立ち、迷い人を送るもの。その頼りとなるもの。それは光。あるいは花のひとひら。あるいは細い細い命の糸」

 トワの手があたしのそれを取り立たせる。ようこそ、ともう一度つぶやいてぎゅっと抱き締められた。

「ひとつになろう。ぼくは導べを手に入れる。これで完璧となって、穏やかな眠りが訪れる……」
「穏やかな、眠り……」
「そう。穏やかで優しくて、そして覚めない夢を見るための眠り。それを君はもたらすんだ。君自身が『眠り』となって!」

 歓喜の混じる声が、耳元でわん、と響いて抱き締められる力が強まる。ぎし、と骨がきしむ音がした。

「あたし自身が『眠り』になる……」
「そう。ぼくはそうなれるように君を『案内』するよ。そしてぼくらは『完璧』になる」

 ぼんやりと意識に霞みがかかる。じんわりと感じるのは、トワの体のぬくもりのみで。
 とろりと睡魔が訪れ、抗い難い欲求が脳内をしびれるように広がっていく。

「あたしは……『眠り』…」

 あたしは『眠り』になる。
 それは死の国の『導べ』。
 『完璧』になるために必要なもの。

 ぎし、ぎし、と骨がゆっくりときしみをあげる音がする。
 これは、あたしの体から鳴っているの?
 悲鳴のような音。けれど、何も感じない。トワの体から、もしくはどこか違うところの音だと言われても、信じるだろうと思う。
 意識が遠のき、自分の名も、自分が生きていたことも死んだと言われたことも脳裏から消えていく。
 闇に食いつくされるように、消えていく。消えていく。
 そして全てが消えかけた時。

『危ないっ!』

 たったひとつの言葉が闇の奥で響いた。思わずはっとして目を見開いた。
 それは例えれば空の星のひとつ。砂漠の砂粒。けれどそれは苛烈な光でもってあたしの身体の中心から現れ、射ぬいた。

『なんで死ぬんだ! なんで……!』

 怒りの声。けれどそれは、命を惜しむ声。言葉。家族なら言ってもおかしくはない。けれど、赤の他人が『菜々花の命のため』に言葉を紡ぐ。

『生きて……』

 その言葉は、人を生の世界に引き留め、存在を認める言葉。

「あたし……」

 生きたい。
 言葉は心の奥から溢れた。
 あの言葉をくれた人のために、生きたい。
 ささやくような声が聞こえた。トワとは違う。それは自分の声と似ているけれど、柔らかで静かな別人の声が。

『生きたいの?』

 生きたい。

『体は死んだわ』

 いいえ。生きてる。あたしはこの体から鼓動を感じる。
 胸に手を当てれば、とくん、と小さな音が響いた。それは命の声。

『そう。あなたの体はまだ生きてる。そして生きたいなら、生きればいい。』

 生きるわ。

『そう。それならわたしが力を貸すから』
「ぼくはどうなるんだい?」

 トワがフードの奥でくぐもった声で問いかけた。あたしは笑って言ってやった。

「あんたは『導べ』なしで大丈夫。だって今までだってそうだったんでしょう?」

 先ほどの歓喜に満ちた歓迎の言葉は、『完璧』を望みながら、その声はどこかうつろだった。
 残念そうな様子も見せないトワは、肩をすくめるだけで答えない。その仕草だけでかけられた言葉を肯定している。

「あんたはあたしなんか要らないんだ。本当は」
「……そう。ちょうちょが選ぶ『導べ』はぼくには要らない。でも手に入れないと……」
「思い込みよ」

 ふむ、とトワがあごに手を添えて考えるそぶりを見せた。数瞬後にぽん、と手をたたく。

「そうだね。ぼくは生きてるひとなんかには用はない」

 あたしは笑った。名前の通り花のように、生き生きと。

「でしょ?」
「うん。生きているひとはここにいてはいけないし、君は『導べ』になるには未熟すぎる」

 こくこくとトワは何度もうなずく。要らない、ともう一度繰り返す。

「君とひとつの『完璧』になったとしても、君みたいなのじゃ『完璧』じゃなくて『不完全』になっちゃうよ」
「……一言多いわね」
「生きているひとにはわからないよ」

 トワがねぇ? と虚空に向かって確信をもった声で問いかける。どこかで同意する気配を感じたが、あたしにはわからなかった。
 黒の爪があたしの目の前につきだされた。

「行くよ」
「え
「君は行くんだろう? ぼくは案内人。だから君を送っていくよ」

 ああ、そうだった。
 そろそろと手をのばせば、骨ばった手がしっかりとあたしのそれをつかんだ。じり、と熱がこもる。熱さを増していく。

「さようなら。もう少し立派になってから蝶に『呼ばれ』てきてよね。未熟な『導べ』じゃ困るんだ」
「……うるっさいわね。あたしはそんなんじゃないから」

 目の前が白くぼやけていき、意識が遠のく。
 ゆっくりと、沈みこんでゆく感覚が強まり、同時に体中に血がめぐるのを感じた。

「……でも、あんたがひとりで寂しいっていうなら、来てあげてもいいわよ」
「君が未熟なまま来られたらとっても迷惑だけど。寂しいのは変わらないだろうからその時はまた、歓迎するよ」

 じゃあね。

 トワの最後の言葉に、ぷつりと意識は途切れた。
 最後に、トワでない、優しい声がささやいたのだけはわかった。

『さようなら、幸せになってね』

 うん幸せになる。あなたもね。
 苦笑の気配が、どこかでした……

「菜々花!」
「あたし……」
 奇跡だ、と誰かがつぶやいた。そして誰かが駆け去る靴音と、誰かが入室してくる足音が交互に響く。
「あたし、帰ってきた、のよ……」
 あたしが生きるために。そして、あたしの命を惜しんでくれたあなたのために。
 頬を、一筋涙が流れた。
 生きている証のようにあたたかかった。

「良かったの?
『何のお話?トワ』

 腕組みをしてトワは尋ねた。懐から小さなランプを取りだし掲げる。
 すい、と蝶がその中に吸い込まれるように入る。と、火の入っていないランプに小さな光が灯った。

『ああ、ここから出ると疲れるわ……』
「それはそうだよ」

 ランプをちらちらと揺らしてトワはにこりと笑った。尻尾が楽しげにぱたりと揺れる。

「だって君は次の『導べ』となる準備のために、まだここにいなければならない存在なんだから。魂に力が満ちて、羽野菜々花が『導べ』になるまで休まなきゃいけないんだからね」
『ふふ、そうね』
「あの『導べ』がちゃんとなっていたら、君は新しい命を授かっていたのにね。あのこに命、あげちゃうから」
『だって、生きたいって言うんだもの。仕方がないでしょう?』
「そうだね」

 蝶はぱたぱたと羽ばたき、ゆっくりとその動きを弱めた。光の玉となり、明滅する。

「でも後悔もしてないし、案外楽しんでるだろう」
『ええ、だってトワ、あなたとまだ一緒にいられるんだもの』 
「ぼくも一緒にいられて嬉しいよ」

 トワは自分しか知らない、その蝶の名を呼んだ。ぼくの蝶、とランプを抱き締める。

「でも、旅立つ時はきちんと見送るからね」
『ええ。そうしてちょうだい』

 眠りにつくように光の玉が明るさを弱めたのを見届けてトワは空を仰いだ。

「『導べ』は魂。満ち満ちたその光を伴う者。巡る命を担うもの……」
 さて、次代の『導べ』はいつになったら来ることやら。

 つぶやいたトワはランプを抱いたままぺたりと座り込み、毛繕いを始めた。

 さわ、と風が吹いて、ランプの中で休む光と、トワを優しくなでていった。



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