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歌誌「塔」創刊七〇周年記念特集:公募エッセイ「言葉はそのまま光となりぬ」
みなさま、こんにちは。
今日こちらは雲ひとつない好天です。
私の所属している歌誌「塔」は創刊70周年を迎えました。
これを記念して4月号では特集が組まれています。
その中のひとつに公募エッセイがありました。
次の3つのテーマのうちひとつを選んで、末尾に自作の一首を添えて提出するというものでした。
①わたしの最初に載った一首(入会して最初に「塔」に載った歌を挙げること)
②わたしが塔に入った頃
③わたしの作歌現場
私はテーマ①を選びました。
タイトル:短歌という伴侶
わが死ぬるその時までを友とする秋櫻子編『俳句歳時記』
二〇二〇年一月号に掲載された。塔とほぼ同時に俳誌「知音」にも入会。三十歳までに短歌か俳句のどちらかに絞ることを目標に据えていた。毎月塔に十首、知音に二十句を提出する日々を送るうちに、短歌への思いが次第に強くなっていく。なにかと慌ただしい生活なかで、短歌ののびのびとした韻律が私にとって何よりも救いだったのだ。私は短歌を選んだ。
掲出歌に出てくる水原秋櫻子の歳時記は、高校生の頃から愛用しているものである。高校の部活では毎週句会が催され、類句類想の弊に苦しめられたものである。今は俳句から離れたがときおり開いて眺めている。私には俳句よりも少し長い三十一文字が必要だ。あえてポジションを明確にするならば、短歌は伴侶、俳句は親友になるだろうか。
(自作一首)
朝起きてカーテンあけて祈るひと言葉はそのまま光となりぬ
ふだんは塔誌の短歌を通して会員の皆さんの為人を推し量るのですが、今回はエッセイがあるので今まで知らなかったことがポロポロと出てきます。これはこれで面白いですね。
いいなぁと思った文章はたくさんあるのですが、今日は「③わたしの作歌現場」で小澤京子さんの書かれた「日記ではない」というエッセイの冒頭を引いておきます。
短歌を作り始めた頃、そんなことは日記にでも書いておけばいいとよく言われたものだ。このことを今詠っておきたいと思っても、それは自分自身の思いが先行していて他者が読んだら単に覚書のようなものかもしれない。私の歌には「詩」がないのだろうか。
あなたの短歌は「詩」足り得るだろうか?
この問いは私自身ずっと考えていることでもあり、小澤さんの文章に心地よい共感を覚えたのです。
学生時代、私は結社には所属しないでひとりで黙々と短歌を作っていました。短歌や俳句は「座の文学」であると時折耳にします。
ひとりで作っていた時間があったからこそ、短歌はひとりでは完成しない詩形であることが経験的に納得できます。換言すれば、短歌は他者の「読み」を経てはじめて歌として整うのですね。
自分ひとりで歌を詠んでいても上達しないのではないかと思います。
知らず知らずのうちに自己模倣の隘路に陥っている…そんなこともありました。
思うところあって佐藤佐太郎の言葉を置いておきます。一過性の流行ではなくて、短歌に、言葉に、真摯に向き合う人が増えることを願っています。
平凡なことをいって、感慨がこもるのが短歌という詩形の特色でもあるが、言葉のひびきをこめる力量がなくてはこの表現を全うすることはできないだろう。
森鷗外の「杯」という小説に出てくる少女のように、小さくても、まずしくても、自身の杯で泉を汲むというゆきかたがいい。
短歌が、祈りのような告白であるのは、詩の純粋と崇高との印である。私たちはそう覚悟して強く立たねばならない。
すべての表現は限定しようとする動きであり、結晶しようとする意志を持っている。
短歌は単純で充ちていなければならぬものである。真実の詩は「詠歎」として「告白」として単純に行かねばならない。
言葉の感情と純粋性とを計量するものは語感である。本来符号である言葉の中からほとんど本質的に生きた言葉を感じ、言葉の感情を計るのが語感である。この言葉に対する感覚が鋭く徹底していなければ言葉の純粋な操作にあずかることは出来ない。
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