歌誌『塔』2023年12月号作品批評(2024年2月号掲載)-後編-
みなさま、こんにちは。
今日は時折みぞれが降っています。
それでは12月号の評の後半をどうぞ。
選者:梶原さい子
評者:中村成吾
上の句の間投助詞「よ」が余情を添えながら、下の句の主体の動作へと歌の流れをなめらかに導いている。「開けて確かむ色あせぬうち」という無駄のない引き締まった下の句も魅力的だ。
硝子窓の全面に映っている夕陽。窓を開ければさらに景が広がる。一首全体の運びに淀みがなく、たいへん気持ちのよい歌である。美しい茜色の空が眼裏にありありと浮かび上がってくる。
乗る人のないブランコと夏の組み合わせが斬新だと思った。というのも、私の中ではブランコは俳句における春の季語であり、寒い冬が過ぎ去って生命の躍動感あふれる明るいイメージがあったからだ。
主体は夏の終りにこの世のままならぬわが身を思って歎いているのかもしれない。「果て」というところに何か大きな喪失感のようなものを感じる。
私たちはいつからブランコに乗ることを忘れてしまったのだろうか。その問いは、いつ童心を失ってしまったのかという問いにも繋がるのかもしれない。
結句の詠嘆「かな」によってしみじみとした余韻がうまれている。こういう歌は何度も声に出して味わいたくなる。
掲出歌では物としての蚊取線香が、過ぎ去る夏のイメージへとなめらかに昇華されている。
ここに蚊取線香そのものに着目した「蚊遣火の灰美しく残りけり」(和田順子)という句を置いてみる。
物からイメージへと流れてゆくやわらなかふくらみが魅力な短歌と、じっと物を凝視し続けることによって美を切り出す俳句の違いが面白い。
彫刻刀で喩えれば、短歌は丸刀で、俳句は切り出し刀となるだろうか。
安易な一般化は慎むべきだが、ときにはこのようなことを考えてみるのもまた一興であろう。
ほのかな抒情を湛えたこころ惹かれる歌である。
しばらく使われていなかった机の上にうっすらと埃が堆積している。ふと外を見れば木槿が咲いている。
主体の視線が文机から窓の外へと流れるように移っていく。そして庭には木槿が咲いている。
「主なき」の言葉から「槿花一日の栄」の俚諺を思い浮かべる人もいるかもしれない。人も花も盛りの時期は短いのである。
さて、ここまで掲出歌について徒然に書いてきたが、しかしこれは贅言ではなかったかと怖れている。
と言うのも、私がこの歌に惹かれたのは、歌の「姿」を美しいと感じたからで、評と称して歌を散文化させてしまうのはあまりにも惜しい気がする。
無論、歌の魅力をうまく言葉にして伝えられない私の力不足がいちばんの問題ではあるのだが…。
ともあれ、歌を読むよろこびをしみじみ感じさせてくれる一首である。
大正時代の歌集を古本で買ってみたら栞が入っていた。菓子箱というのが面白い。
どんなお菓子だったのだろうか。
今はもう売っていないお菓子なのかもしれない。
私も以前買った古本に栞として押し花や一筆箋が入っていたことがあった。栞はさりげない物だが、もとの持ち主の人柄をしのぶよすがとなる。
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