歌誌『塔』2024年3月号作品批評(2024年5月号掲載)-後編-
みなさま、こんにちは。
今日は暑いですね。
いま洗濯乾燥機を回しているのですが、室温も少し上昇しています。
今回、題詠四季(9月号)に初めて投稿してみようと思います。
葉書も買ってきました。
それでは3月号の作品批評をどうぞ。
選者:梶原さい子
評者:中村成吾
冬空から湖に飛来するコハクチョウの軌跡を「光の筋」と表現したところに掲出歌の眼目がある。
コハクチョウの白、冬という季節の白、これらと相俟って一首全体が美しく白基調にまとまっているように感じる。
湖の上に浮かぶコハクチョウの曲線もまた優美である。
静かな湖ゆえに飛来するコハクチョウの動きがよりいっそう際立ってくる。静のなかに動がある。
決して自らすすんで「おとなしき夢」を求めてきたわけではない。
生きていく中でしぜんとそうなってしまった、或いはそうならざるを得なかったという風な、ある種の人生への諦念を感じさせる歌だ。
主体は「コンテナに収まる形」と言っているが、人によってはもっと小さな箱に収まる夢になってしまったという方もいらっしゃるのではないか。
自分の夢はどうだろう。筆箱に収まるくらいの無難な夢(それはもはや夢と称してはいけないのかもしれない)になってしまった。
もう少し野心を持ちたいと思った。
「素水」とは塩分を含まない真水の意。
「奔れる」とあるから、素水はしぶきをあげながら勢いよく流れているのだろう。
すみれの花はその細かなしぶきを浴びて、晩秋のひかりのなかで淡くかがやいている。
うつくしい景が浮かぶ。「咲くなり」の措辞がさりげなくそしてやさしい。
幼いころに金魚を取った川を久々に見に行こう。
今はどんな生き物がいるだろうか。
そう思って出かけてみたのであるが、そもそも川が見当たらない。
もしかしたら護岸工事などをきかっけに暗渠になってしまったのかもしれない。
暗渠では金魚もいないだろう。
掲出歌の次には「ガマの油を売っていた辻はどこかな 育ちし街は異界のごとし」という歌が続く。
いつの間にか自分の知らない街になってしまったらしい。
自分だけが取り残されてしまったような寂寥感。
見知った街はもはや己の記憶の中にしか存在しないのだ。
なにもしたくない、もう死にたい。
負の感情が渦巻いているときに一杯のお茶を飲んだ。
温かい飲み物は、体を内側から温めて全身の血流を改善して、緊張をほぐしてくれる。
「死にたい」という漠とした感情は心身ともに疲れているというサインだった。
そこで主体は「休みたい」というアクションプランを導き出した。
連作のなかには「わりと死に近いところで揺れている夜の電車の長椅子の隅」という歌もある。
真夜中の電車が死への回送列車にならないことを切に願う。
二十年や三十年という節目で企業が従業員をねぎらうために永年勤続表彰を行うことがある。
その栄えある永年勤続のかげで主体はいつからか眠剤を服用する生活になっていた。
景気よくパキッと割れるのではなく、「みしり」という擬音で表現されている点も実感がこもっている。
「みしり」は重たい。
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