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歌誌『塔』2023年11月号作品批評(2024年1月号掲載)-後編-

みなさま、こんにちは。
今日は小雨。雨音を聴きながらこの記事を書いています。

こうしている間にも、1月号の評の締め切りがじりじりと迫ってきております。早く原稿に着手しなければ…。

それでは11月号の評の後半をどうぞ。
選者:梶原さい子
評者:中村成吾

かすみ草咲きつつドライフラワーになりゆく玻璃の花器に残され(黒木浩子)

『塔』2023年11月号p60

 主体はかすみ草の存在を忘れてしまったわけではない。かすみ草は花束に添える花として脇役に甘んじることが多いが、この歌ではちゃんと主役だ。かすみ草はまだ生きているが、死につつある。ドライフラワーになるということは生物としての死を意味する。しかし、生前のかたちを保ちながら確かに存在し続けてくれる。
 花のある暮らしは良い。私のもとにも年明けにライトピンクプリンスというチューリップの球根が届くことになっている。花も私たちも有限の時間を生きる。

境内にほおずき売らるる明るさのささやかにうれし戻る縁日の(齋藤ちづ子)

『塔』2023年11月号p61

 緋色のほおずきの明るさがそのまま主体の心の明るさ、嬉しさに繋がっている。ここ数年、感染防止対策のために様々な行事が中止になった。中には途絶えてしまった行事もあるかもしれない。そんな中、縁日が戻ってきた。私も「普通」であることの尊さをいま改めてかみしめている。

もう暮れてきたでせうか カーテンを開けて萎れたひるがほに聞く(田中律子)

『塔』2023年11月号p62

 家人に声をかけているのかと思いきや相手は「ひるがほ」であった。一字空けにより花の沈黙が効果的にあらわされている。一首全体にそこはかとなく物寂しいような妖しいような雰囲気が揺曳しているようである。カーテンの向こうには人間はいない。そこにあるのはもの言わぬ花、それも一日の勤めを終えてしぼんだ花だ。不在の美という言葉がぽっと思い浮かんだ。
 「ひるがほ」の他に朝顔、夕顔など「顔」のつく花がいくつかあるが、どれも人間のような不思議な存在感がある。少なくとも私にはそういう観念を纏った花のように感じられる。主体が「ひるがほ」に訊ねてみたのも、紫式部が『源氏物語』に朝顔や夕顔といった女人たちを登場させたのも、どこか似たような感覚があったからではないか、などと想像をふくらませて愉しく読んだ。

「みづいろはどのクレヨンでかけばいい」と聞く幼子と水の色さがす(豊島ゆきこ)

『塔』2023年11月号p63

 おそらく市販のクレヨンには〈みずいろ〉が一本入っていると思うのだが、それではないのだ。「水の色」は「みづいろ」ではないという、お子さんのまっすぐで確かな物の見方。自分が捉えた実感を手放していない。いつもお母さんといっしょに手を洗うときに触れる水は出来合いの〈みずいろ〉では表現できない。
 ふと、染色家 志村ふくみさんの「色に名前をつけるということは愛情である」という言葉を思い出した。自分だけの「みづいろ」を見つけて欲しいと思う。日常のちいさな発見がその人の感性を少しずつ育んでいく。


駅前の商業ビルはすでになく日本の地方都市の衰え(春澄ちえ)

『塔』2023年11月号p64

 さびれた商店街のことをシャッター通りというが、もはやシャッターすら存在しない情景が詠われている。人口減少に伴って公共インフラの維持が難しくなるという話もよく耳にする。私の実家の辺りも今後どうなるのか気がかりだ。いくらか割り切って諦めるべきは諦めるということになっていくのだろうが、心情的にはなかなか受け入れがたいものがある。理解と納得は別物なのだ。

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