中心帰納とは何なのか?探究(2)

※この記事の内容はだいぶ筆者の独自研究が含まれます。まあ、この記事に限る話でもないけど。。。

1.受動意識仮説

ある日、白石先生とやり取りしてたところ、下の動画を紹介されました。
▼とある大学の講演

少し長いですが、見てみることを勧めます。
さて、
受動意識仮説とは、一言でいうと、私たち人間1人ひとりが、「私が」というふうに主語で表す意識主体たる「私」は、私たちが通常そう感じているような「能動的な主体」ではなく、「受動的な何か」でしかないのではないか、という仮説です。~量子コンピューターを知る人が圧倒的に利する訳~より引用

もう少し言いますと、私たちの意識は、私たちの脳が無意識が情報処理した結果に当て嵌められるエピソードにすぎない、という仮説です。

今回はこの仮説が正しいという前提の元、話を勧めたいと思います。

2.中心帰納をしているというエピソード

さて、意識は幻想だなんて言われたら、僕らは困ってしまうわけです。
なぜなら、まさにその意識の置き所を中心に稽古してますから、意識がコントロールできない無意識の結果の産物に過ぎないと言うなら、稽古そのものが無意味なように感じてしまいます。

しかし、成田伝合気道は「受け入れる」ことが大事だと説きます。
そう、つまりコントロールしないことを説いてるわけです。
さらに「写し目」を説いてます。これは観の目に近い概念ですが、目はただ写すものとして使う。もちろん自己もただ観察することに集中します。

コントロールすることを捨てたとき、そこに質感が顕れます。
つまり、そういう状態に合わせて、「中心帰納しているエピソード」が当て嵌められるわけです。

3.稽古は確認

無意識の決定に合わして、質感という体験が当て嵌められるなら、もはや技ができるかどうかなんて、技をやる前に決まっているのではないか?という疑問がわいてきます。

でもみなさんも、うまくいくかどうかが、あらかじめわかるような体験ってあるのではないでしょうか?
武術に限らず、うまくいくときというのはトントンとうまくいくものだし、やる前からうまくいきそうなのがわかるものです。
逆もまた然りです。

おそらくは、意識よりはるかに大きい領域である無意識があらかじめ計算しているため、うまくいくのは粗方わかっているのかもしれません。

意識と無意識の割合の図

つまり、中心帰納という状態になれるかどうかも、やる前から粗方決まっており、稽古はそれを確認するだけなのかもしれない。
しかし、この確認はアンカリングとして意味のあるもので、このアンカリングの積み重ねが「できる」という感覚を作っていくのではないか?

4.運命論と自由意志

では努力とは?自由意志とは?人間の行動は運命的に決まっているのか?という疑問が出てきます。
まあ、もちろん人間の行動を決定づけるものは脳だけでなく環境もありますし、それらが宇宙開闢からすべて決まっているかどうか?というと、それもまた少し無理があるというか、複雑かつ規模が大きすぎてわからないと言うのが実状であると思います。

しかし、その大きな流れの中にいて、跳ねる小魚程度のことはできないのか?
これは根源的な問いであると思います。

現時点での私の仮説ですが、

世の中の大きな流れはある程度決まっているのかもしれない、そして人間の心身もその流れの中に組み込まれているものだから、ほとんどコントロール不能かもしれない。

大きな流れの一部たる人間が、状況をコントロールしようとするのは、自分の足を手でもって、手の力で足を持ち上げようとするもので、実質上不可能かもしれない。

しかし、体験することはできるし、それを「確認」はできる。
確認をする自由はあり、確認することで、流れの中にあってどう在れるか?が決まっていくのかな?

と考えています。

この確認こそが人の力であり、現時点の私の考えですが、哲学的ゾンビにはそれはできないのではないか?と思っています。

次回ですが、ある数理物理学者が説く人間と人工知能の違いも引用しつつ、さらに考察を深くしていこうと思います。

続く


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