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プロフのきほん その3

前回の週刊プロフでは中央アジアのプロフに欠かせない材料である米とニンジンと羊肉のことを紹介した。今回はこのうち羊肉のことを取り上げてみたい。

もともと中央アジア南部のオアシス地帯の定住農耕民の間で広まったご馳走であるプロフには羊肉が欠かせない。この羊肉であるが今でこそバザールの肉売り場で簡単に手に入れることができるが、かつてオアシス都市自体はそれほど大きくはないので大量の家畜を飼育することは難しかったのではないだろうか。そこで目を向けるのは中央アジア北部に広がるステップと呼ばれる草原地帯で牧畜を営む遊牧民の存在である。現在のカザフスタンやキルギスがこの地域にあたる。中央アジアの食文化はシルクロードなど東西交流によるものと南部の定住民と北部の遊牧民が互いに関わり合うという南北関係によって形作られてきたものである。よって今回の週刊プロフはこの遊牧民の食文化にもフォーカスしていくことにしたい。

ステップ(草原)地帯はわずかな降水量があるものの農耕には適さない土地である。よって古来から羊や馬などの牧畜を生業とする遊牧民の世界であった。遊牧民とは定住地を持たず草地を求めて移動しながら生活する人々である。彼らの住居はユルタ(ボズユイ)と呼ばれる天幕である。遊牧民は基本的には農耕を行わずに家畜から得られる肉と乳を加工して作るバターやチーズなどの乳製品を食料としている。この肉と乳製品という食文化は私たちのような農耕を行なってきた民族からするとなかなか想像ができないが、詳細に見ていくと遊牧民は極めて高度に計算された食文化を持っているのである。

遊牧民にとって家畜は財産であり全てを肉として消費してしまうと生活を維持することができない。よって家畜から得られる肉はご馳走である。冠婚葬祭や客人をもてなす際に屠畜を行いご馳走を作ったりするが、冬を前に一部の家畜を屠畜して腸詰などに加工して保存食とする。肉は冬の食料となるのである。

一方、草原に草が生える春に仔羊などの仔畜が産まれると母親が乳を出すようになる。この乳を利用してチーズやバターなどの乳製品が作られていく。生乳はそのままではすぐに腐敗してしまうため、いかに保存性の高い乳製品を作るかに力点が置かれる。奈良時代に蘇や酪といった乳製品が例外的に存在していただけで日本では伝統的に乳製品を使ってこなかった。このために現代の日本語では乳製品を表す語彙はチーズ、バター、ヨーグルトなど極めて少ない。 遊牧民の間では乳製品はとても重要な食品であったために乳製品の種類も語彙も豊富である。キルギスの事例ではカイマック(バター)、サルマイ(バターオイル)、チュボコ(バター)、アイラン(酸乳=ヨーグルト)、スズメ(チーズ)、ブシュタク(チーズ)、クルト(チーズ)、クムズ(馬乳酒)といった具合に多くの種類がある。遊牧民は生乳からこれらの乳製品に加工して保存性を高めて夏の食料とするのである。

冬の肉類と夏の乳製品による食文化は一年を通じて安定的に食料を得るための生活の知恵である。遊牧民の食文化は肉と乳製品という二種類だけで完結しそうだが、もうひとつ重要な食材がある。小麦などの農産物の利用である。べシュバルマクという麺料理やボルソックという揚げパンが小麦を使った遊牧民の料理である。遊牧民は基本的には農耕を行わないので小麦などの農産物は農耕を行う定住民が生産するものを入手することになる。ここに遊牧民と定住民との交流が生まれるのである。

定住民と遊牧民の交流を現在でも感じられる場の一つがキルギスにある。キルギスの東南部にあるアトバシという場所でマル(家畜)バザールという定期市が開かれる。このバザールは毎週日曜日の午前中だけ開かれ、開催日には各地から羊、牛、馬、そして高地にある場所なのでヤクといった家畜が集まってくる。家畜は種類ごとに区画別に集められており、羊売り場を覗くと、お尻を客側に向けて買い手を待つ。羊のお尻の脂の付き具合で値段が変わってくるという。

マル・バザールでは家畜だけでなく野菜や果物など農産物の売り場も見られる。おそらくかつてはこのような場所で定住民と遊牧民が交易を行い、定住民は羊など家畜や毛皮などを得て、反対に遊牧民は小麦や野菜といった農産物を手に入れていたのだろう。そうであればプロフに使われる羊肉は定住民と遊牧民との交流の産物である。中央アジアは定住民と遊牧民の二つの文化が関わり合う世界でもある。このような環境だからこそ羊肉を使ったプロフが中央アジアを代表する料理になったのではないだろうか。

先崎将弘 / 中央アジア食文化研究家・おいしい中央アジア協会


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