見出し画像

自分に“Yes”を出せる人は美しい/比べること、羨むこと

隣の芝生は、いつだって青く見える。

「人と比べなくたっていいんだよ」「あなたにはあなたの良さがあるんだよ」という言葉なんてまったく耳に入らないくらい、この年末年始はみじめな気持ちで過ごしていた。

まるで自分だけが割を食って、なんの才能もなければ実力もなく、お金もなければ人間力もなく、仕事も育児もなにもうまくいかない。そんな気持ちになっていた。

年始に風邪をひいたことが大きな要因ではあるのだけれど、実はこの秋~冬は風邪をひくことが今まで以上によくあった。なんでかなと考えてみたら、去年の秋から始めた仕事がうまくいってないこと、そして同じタイミングで夫が仕事を辞めて、金銭的に深刻なピンチになったことが重なったことが思い当たった。


自分以外のすべての人が幸せそうに見えても

「大丈夫、大丈夫…」そう心で思おうとしても、どうしても頭がパニックになる。自分以外の人がみんな幸せそうに見えて、次第に人が集まる場所に行くのもイヤになって。

みんなの幸せをうらやむ気持ちにしかなれなれず、だからこそそんな私が人が集まるところに行っても鬱陶しいだけで害にしかならないとしか思えなくて。

「どうせ誰にもわかってもらえない。」そんな気持ちを勝手に抱えて、勝手に線を引き、勝手に拗ねて。ただの悲劇のヒロインであることはわかっていても、どうしても抜け出せない。

そんな中でたまたまラインのやり取りをしていた友達から、ある一言を言われてハッとした。

「お金はなくてもさ、あけみのところは夫婦がちゃんと向き合って協力してやっているよね。そういうところすごく素敵だなって思うし、それがあればきっとなんでも乗り越えていけるよ。」

あぁそうか、そうだった。なんでこんなに大切なことを忘れていたんだろう…


自分にとっての「普通」は誰かにとっての「すごい」になる

わが家は夫婦そろって県外出身者の、いわゆる移住組だ。近所に頼れる親親戚はいないうえに世間一般とは少し違った暮らしをしていることもあり、夫婦が協力しなければ育児も生活も成り立たない。

『だから』というわけではないのかもしれないけれど、わたしたち夫婦は日頃からよく会話をするし、お互いにお互いの自由な生き方を尊重しつつも協力しながらやっている方なのではないかと思う。

もし世界で一番信頼している人は誰かと聞かれれば間違いなく夫と答えるし、彼に出会ったことで少なからず私の心は安心や平和を知った。

もちろんなんの努力もなしに最初からそうだったわけではまったくなく、ケンカが絶えなかった時期や試行錯誤を経て今のカタチが成り立っている。捨てるものを捨て、諦めるものを諦め、自分たちにとって何がいちばん大切なのかを見極めたうえでの今だし、それさえもけして完成形ではないと思っている。

それでも、周囲を見渡せば夫婦関係で真剣に悩んでいる人がたくさんいる中で、私たちがこの関係性を築くことができているのはある意味で奇跡的なことなのかもしれない。だからこそこの関係性は大切にしたいし、そう在れていることに感謝しよう。そう思っていた時期もあったけれど。

人間誰しも、時間が経って慣れてしまうことによって「特別」と思っていたことが徐々に「当たり前、このくらい普通」に変わっていってしまい、ないものに目が行くようになってしまうものなのではないだろうか。

私たちにとってお金や仕事の問題があまりにも大きくなりすぎたことによって、これまでに感謝の気持ちを持っていたことに目がいかなくなり「お金さえあれば、仕事さえうまくいけばあの人みたいに幸せになれるのに…」という思考に陥っていた。

自分にとっては当たり前のこと、取るに足らないことと思っていることほど実は掛け替えのない宝物であるということに気づける人は、少ないのかもしれない。

例えば「うちなんて、お金もないし夫婦間の協力関係もないよー(笑)」そう言う友達でも、私から見れば羨ましいと思う部分や素敵だなと思う部分がたくさんある。しかしそこをどんなに本人に伝えても「でもさー」と言うばかりで、受け取る気持ちにはなれない様子だった。

先日たまたま遊びに来てくれた知人が「友達がユーチューバーになった」という話題から、こんな動画を見せてくれた。

知識、技術のような、努力のすえに手にしたものではなく、例えば日本人にとってあまりにも当たり前な持って生まれた黒い髪や肌質さえも、それを持ってない他者から見れば魅力になる。

例えば私は日本人に生まれて、女性で、都会出身で、大学まで行って、結婚していて、子どもがいて、家があって、健康で、田舎暮らしをしていて…そんなわたしにとっては「取るに足りないこと、普通のこと」が、誰かにとっての「羨ましい」になるときがある。

そう考えていけば、本当は誰だって同じだけ持っているのではないかと思うのだ。

ホントはみんな同じだけ持っている

落ち込んでいるときや疲れているとき、人は誰だって少なからず人と自分を比べて、「自分は『持たざる者』だ」と思い込んでしまうものなのかもしれない。

「持つ者」と「持たざる者」、「幸運な者」と「不運な者」、「天才」と「非凡」、。世界にはそんな境界線が存在していて、自分はいつだって後者だ。そんな風に思ってしまうことは誰にだって一度はあるけれど。

実はそんなくくりはただの幻想で、本当は誰だって同じだけ「持っている」のではないかと思うのだ。

たとえ生まれたての赤ちゃんであっても、100才の老人であっても、障がいがあっても、ホームレスであっても、偉人や天才と呼ばれる人であっても、女性でも、男性でも。損をしている人なんて実は誰もいなくて、上も下もなく、みんな同じだけ持っている。ただ、その持っているものが違う。それだけなんじゃないかと思うのだ。

「天才」と呼ばれる人とそうでない私のような普通の人間の違いは、その持っているものにどれだけ自分で気づいて、受け入れ、生かし、磨けるか、というだけの違いのような気がしている。

そして肝心なのは、誰かにそれを見つけてもらうのを待つのではなく、まず自分で気づいて、掘り出して、受け入れて、磨くこと。

それをどこまで生かせるか、どこまで自分に“Yes”を出せるかが違うだけなのではないかと思うのだ。

自分に“Yes”を出せる人は、美しい

人間誰しも、すでに手にしているものの素晴らしさには気づきにくいものなのかもしれない。

けれど、私が誰かを羨ましいと思うように、私のことを羨ましいと思う人もきっとどこかにいる。人によっては、「あなたのそれさえ持っていれば、私も幸せになれるのに…」とさえ思われているものを、私が持っているかもしれないのだ。私があの人に対してそう思っているように。

けれどここまで整理して考えてみて、この思考がただの茶番でしかないことには読んでいる誰もがもう気づいているだろう。

手にしているものを大したことはないと思うのは簡単だけど、その素晴らしさに気づいて素直に受け止めることができて初めて、見える景色があるのではないだろうか。

人と比べてしまうことはこれからもきっと何度でもあるけれど、その度に何度でもまた自分の真ん中に戻って来れればいいと思う。


…と、こうして私がこのnoteを書いている間にも、夫はお弁当を用意し、朝ごはんのパンを準備し、さらに洗濯物干しまで済ませてくれていた。

あぁありがたい。
宝物は自分のすぐ足元にあるんだな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?