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ひとつの声を発することが、もうひとつの声に耳をふさぐことにならないように

谷川俊太郎の『みみをすます』という詩集が好きで、ときどき読みたくなる。


その本は昔からわたしの実家の本棚にあり、わたしが独り立ちして引っ越すときも、ぎっしり本が詰め込まれたホコリっぽい本棚から引っ張り出して、一緒に連れてきた。


その本のなかに、こんな一節がある。

ひとつのこえに みみをすますことが

もうひとつのおとに もうひとつのこえに

みみをふさぐことに ならないように


先日フとひさしぶりに読みたくなって、声に出して読んでみたのだけど。

その後なん日もしてからも、この一節があたまに残って、はなれずにいた。

子どもの頃から、何度も読んだ詩。
詩としてはかなり長いほうで、冒頭から何十ページにもわたって並ぶ言葉のなかで、このたった数行が妙に周囲から浮かんで見えた。

そう。ここ最近抱えていた違和感の答えがここにあるのかもしれない。


SNSやリアルな場でも、いろいろな人の空気を感じ、いろいろな人の声に触れるここ最近。わたしの頭は少々…いやけっこう疲れていた。

子どもへの接し方、食育、環境への配慮、身体への影響、仕事の仕方、家事のやり方、夫婦関係、子どもがイヤがるときに保育園に預けるか否か、暮らしへの向き合い方、金銭感覚などなどなど…

なにが正しいとか、コレが答えだとか。人にはそれぞれの考え方があって、どれがイイとか悪いとかではない、ということは百も承知のつもりでいた。

何かの意見を発している人も、「これがぜったい正解だ!」と言っているわけではなく、あくまでも「わたしは、こう思う」と言っているだけであることはじゅうじゅうわかっていた。

もともと自分はリベラルで、人と人は違うからこそよくて、人は人で、自分は自分だ。わたしは考え方が違う人とも渡り合えるし、そういう器の広さは経験上じゅうぶんに兼ねそなえている。と、ずっと思っていた。

けれど。

それでも、どうしても、なにかひとつの声を聞いたり感じたりするたびに、その反対側にいる自分が否定されたり見下されたりしているような気持ちに、勝手になっていたのだ。自分でも気づかないうちに。

自分と反対側にいるだれかの声を聞いたり感じたりするたびに、心がうずき、勝手に傷つく。直接わたしがなにかを否定されたわけでもないのに、そうだと勝手に思い込み、悲しくなって、心を閉ざす、あるいはそれが怒りの気持ちになって表に現れる。そんなことが、ここ1年以上ずっと続いていた。

その感情がどこから来ていたのかというのは、あえてここでは探求はしないけれど。


なにかひとつの声を発することは、どうあっても必然的にもうひとつの声を否定することになってしまう。意識的であっても、無意識的であっても。

わたしはこれまでずっと、なにかひとつの声を発するときに、その反対側の声があることをつねにどこかで意識して、それを否定することにつながらないように注意深く発言するようにしてきたのだと思う。

だからこそ、それを意識していないかのように感じるだれかの声にふれるたびに心が波立ち、「なんでこちら側にいる人間のことを意識してくれないのだろう、なんでわたしの声に耳をすませようとしてくれないのだろう…」と、勝手に感じて、自分は中立ぶっていたのかもしれない。「わたしはわかってる、わたしはちゃんとその裏側も反対側も感じている」と。

でもだれだって、生きているかぎり永遠になにかを選び、その反対側にあるなにかを捨てている。それはわたしだって例外ではなく、生きているかぎりそこから逃れることはできない。

なにかひとつのことに対して「わたしはこう思う」と表明することはけして悪いことではなく、そうやって世界も自分も動いてきているし、これからもそうなのだろう。


言ってはいけないことはなにもない、と、いつだって思う。

その反対側を意識しなければいけない、というルールもない。

もちろんムリして意見を言う必要もないということも、ひとつの意見として。


だれかに否定されるのが怖くて、あるいは知らぬうちにだれかを傷つけてしまうことが怖くて自分の声を外に出せないという世界にはなってほしくはないし、誰もがやわらかな心の自由がある世界で生きていられるのが理想だから。

だれもわたしを否定してないし、傷つけようとする人なんてほんとうはいない。
そう信じることからはじまるのだと思う。

もっと世界に心を開いて、安心して生きればいいのだよね。きっと。

相手がどうであっても、わたしはあなたの声にみみをすませるから。
わたしの声も、あなたの声も、こわがらずにちゃんと外に出してあげていいのだよ。





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