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【Vaslav Nijinsky, 1890-1950🇺🇦ウクライナの芸術家シリーズ6】

バレエ界の神話的存在のニジンスキー(1890-1950)はロシア帝国キーフ(現ウクライナ)生まれ。両親はポーランド人の旅回りのダンサーで,姉も妹もバレエダンサーになっている。中性的な身のこなし,飛んだまま降りてこないとまで言われた跳躍,抜群の表現力で見る人々を魅了した。

ニジンスキーは1909年に,後に恋仲となったディアギレフが組織したバレエ・リュスに加わって「シェヘラザード」,「火の鳥」,「ペトルーシュカ」等の初演に出演したほか,「牧神の午後」,「春の祭典」などの振り付けもして独自の舞踏譜に残している。この時,ニジンスキーが音楽の知識を持ち合わせないことに驚いたストラヴィンスキーが,音符の長さなどの基礎から教えて苦労したとか,振付が伝統的なものと違うとか性的だったとかで度々コンサートで暴動が起きたとか,要求は多いが指導は下手なニジンスキーにダンサーが疲弊したとかいろいろなエピソードが残っている。

1913年に結婚したのをきっかけにディアギレフと決別。独自カンパニーを立ち上げるも失敗。第一次世界大戦の時にはブダペストにいたが,ハンガリー政府に敵性ロシア人とみなされ軟禁状態に置かれる。その後ディアギレフらの仲介でニューヨークに移り,バレエ・リュスに再度参加するが周囲の説得で,その後独立。コミュニケーション能力や経営能力は低いニジンスキーは精神状態が不安定になり,1917年にスイスに移住。1919年以降は統合失調症を悪化させて入退院を繰り返し,公衆の場では踊ることは無くなった。つまり,活躍時期は20代後半までだったということになるが,その間,特にディアギレフとともに活動した4年間くらいの活躍は実に目覚ましかったことになる。

今でも,ニジンスキーの舞踏譜の解読と振付の復元が試みられたり,ニジンスキーを題材とした舞踊作品が作られ続けている。残念ながらニジンスキーの動画は残っていない。 Youtubeで検索するといつくか動画はあるのだが,写真や舞踊譜をもとにアニメーション可したもの。

写真は,やはりニジンスキーが初演に参加した「薔薇の精」(ウェーバーの「舞踏への勧誘」に振り付けたもの)の写真。 なんとも不思議な色気を感じる中性的なポーズをとっている。 (ちなみに,ニジンスキーは男性です。念の為)

薔薇の精 (1911)

wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/Vaslav_Nijinsky

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