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至孝の道

 至孝しこうとは最上の親孝行の意味です。貝原益軒氏が感じ入ったというお話を紹介します。

筑前國続風土記 巻之十二 嘉摩郡 上下じょうげ村 より 抜粋 (意訳)

 近年(=江戸時代)この村の貧しい民に次郎というものがいました。彼は幼い頃に父を亡くし、母親に育てられました。彼が十五歳になった時、家計は極めて困難な状況で、母親を養うための仕事も見つからなかったため、彼は自ら乞食となりました。

 日々、彼は朝早く起きてご飯を作り、それを母親に食べさせた後、食器を洗って片付けました。そして、その後は村々を回り、物をもらっていました。夕方には早く帰宅し、自らご飯を作って母親に与えていました。
 帰りが日暮れ遅くなったときは、母がご飯を準備し、足を洗う湯を用意してくれるのですが、そのときの彼は食べ物はひざまづいただいて食べ、足の湯もつつしんで戴いて洗っていました。
 どのような事があっても、1~2日以上、母と別れていることはありませんでした。

 母親が年を取り病気となり、食欲が減少すると、次郎もまた心から心配し、母親の病状を気に病み、自分の食事をとることができませんでした。時折、彼が白銀などの貨幣を見つけて家に持ち帰ると、それについても母親に話していました。彼の性格は率直で誠実であり、盗みなどの不正な行為は一切しない人物でした。
 この孝行な息子は天からの恵みに違いないと、村の人々も彼の情け深さに感銘を受けました。

 後に、母親の病状が悪化し、彼自身もまた病に倒れました。母親が食事を摂らなければ、彼も食べることができませんでした。母親の病気は重くなり、やがて亡くなりました。その後、次郎も次第に病状が悪化し、母親を追うようにして7日後、21歳の若さで悲しみの中で亡くなりました。

この出来事は寛文かんぶんの初めの年(西暦1661年)のことでした。

 貧しい民なので、元より文字を知らず、孝行の道を聞いたこともないのに、自らその天性で、最上の親孝行をすること、お話した通りです。
 「十室じつしつむらにも忠信の人あり」とはこのようなことでしょう。
 この話を聞いて、この上もない孝行というものに感じ入り、(風土記の話として)はずしがたくして、少しここに記載しました。


「十室の邑にも忠信の人あり」…孔子の言葉からの引用です。
 元は、「十室之邑。必有忠信如丘者焉。」(十室の邑(ゆう)、必ず忠信丘が如き者有らん。)
 意味は、十軒ばかりの小さな村里にも、誠実な人間は、必ずいるものです。

益軒さんの学者さんらしい引用です。

 尚、この孔子の言葉の後には、「不如丘之好学也。」(しかし私ほどの勉強好きな人間はいませんよ)と、続くので、結構、孔子さんの自我自賛な言葉で、噴いてしまうのですが…それは見なかったことにしてください(笑)


2024.1.16 ルビを追加しました。

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