山茶と鐘
前回高祖城のお話を書きました。そもそも何故原田氏と臼杵氏は戦ったのでしょうか。今回は筑前臼杵氏のお話を少し紹介したいと思います。
筑前國続風土記 巻之二十三 志摩郡 潤村 益水観音 平等寺址 臼杵塚 (意訳)
福岡よりこの場所(潤村)まで4里(=約15km)あります。前原はこれより半里(=約2km)ばかり西にあります。この村の通り道に土師というところがあります。初めは潤村の本当の名前を土師といったようです。
昔、この場所に平等寺という禅寺がありました。大きな寺でその敷地は1町(=1ヘクタール)とかあったようです。大友氏の尊崇する寺でしたが、今は亡んでその址さえ定かでありません。その寺にあった観音様は、今(=江戸時代)なお存在して土師にあります。鐘は聖福寺にあります。かの平等寺には、寺領も多かったと言い伝えられています。また、益水の観音は、初めは潤の本村にあった仏像をも土師に移しました。地元の人が言うには、この観音は日本三体の観音と言い伝えられているとのことです。(日本三体観音の)一つ目は京都清水寺、二つ目には筑前益水、三つ目には肥前国赤水です。
仏像は奇南香(=伽羅)で作られている物で秘仏です。このような有名な仏像なので、田舎にあっても、遠いところでも近いところでも参詣にくる人は多いのです。観音堂のあるところも、すなわち平等寺の中ですが、もっと昔には観音堂の前に山茶(=山茶花)を植えた(古)墳がありました。これは、臼杵進士兵衛鎮氏の墓所でした。今は海石榴も枯れ、(古)墳もなく、その場所は分からなくなってしまいました。
この進士兵衛は大友氏の家臣にして、志摩郡の政所職を勤め、柑子岳城に在りました。しかし、高祖の城主原田弾正少弼隆種入道了栄を猜み、私的な怒りをもって、いつも原田氏を亡ぼそうと謀っていました。そこに元亀3年(西暦1573年)正月16日、了栄が前々からの願掛けの事があるので、今津にある毘沙門に参詣しました。そのところを討とうとしましたが、叶いませんでした。これを口惜しく思ったので、同月28日に、柑子岳から打ち出し、原田氏の所領に侵入しました。原田氏もこの報せを聞いて大勢を率いて打って出、池田河原にて激しく戦いました(第2次池田河原の戦い)。しかし、臼杵進士兵衛は打ち負けて、泊城ヘ乱入しようと考えました。そして土師の平等寺まで落ちて行きました。しかし高祖勢が寺の中に乱入して攻めてきたので、進士兵衛鎮氏を始めた随伴28人が同時に腹を切りました。進士兵衛の首を西弥八郎という者が打ちました。志摩郡の侍たちは、あるものは討たれ、あるいは落ちて行ったので、軍はここに止まりました。
このように進士兵衛の墓を平等寺に築いて、その印に山茶を植えて、臼杵塚と名付けました。
なぜというと、貝原氏は嫉妬だと書いてます。戦国時代ですからね、糸島の勢力争いの一幕でしょうか。この臼杵氏を滅ぼした後の話は、前回の糸島のお家騒動に書いた通りです。
益水観音ですが、現在は「真清水観音」と書かれて潤村あった場所、現在の糸島市潤にある「平等寺」に祀られています。
平等寺の鐘は聖福寺にありました、
この鐘は、国指定重要文化財で、昭和51年(=西暦1976年)まで聖福寺の鐘楼にかけられていました。
銘文は、読んでみると、3度刻まれた感じですね。1度目は本国寺、2度目は平等寺、3度目は聖福寺という感じでしょうか。
用語の意味
尊崇 … 尊びあがめること。
聖福寺 … 福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の寺院。日本最初の本格的禅寺。
寺領 … 寺の所有する領地
奇南香 … きなんこう。香料の1つで、伽羅の別名
肥前國赤水(観音) … 佐賀県唐津市鏡にあった観音
山茶 … 山茶花の別名。山ツバキ。原文は「山茶」と記載されており、その後の文章で海石榴とあるので、両方、山ツバキを指すと考えられる。
志摩郡 … 福岡市西区から糸島市のあたり
柑子岳 … 福岡市西区今津にある山
政所 … 政務一般を扱う所
弾正少弼 … 弾正台の次官。正五位下相当。
弾正台 … 律令制では法律違反や風俗の粛清を司った役所。検非違使が置かれてからは形ばかりの役所。
元亀 … 西暦1570年-1573年
今津の毘沙門 … 誓願寺の奥の院の毘沙門堂。福岡市西区今津の毘沙門山の名前の由来。
泊城 … 糸島市泊にあった泊氏の城
防州吉敷郡 … 山口県山口市辺り
本國寺 … 山口市道場門前の本圀寺
房州山口 … 通常房州というと安房国=千葉県だが、山口が付属しているので、「防州」の事と思われます。同じ音を別の漢字に当てたのでしょう。
玄熊 … 聖福寺第110代住職 耳峰玄熊。戦乱で焼失した聖福寺の再建復興に尽力
鐘楼 … 鐘つき堂
龍頭 … 鐘の頂にある吊り掛けるための部分。
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