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天の道を往く神

 天の道を往く神は太陽神、今回はそんなお話です。

 福岡県飯塚市には、「天道てんどう」という名前の地域が存在します。かつては嘉穂郡かほぐん穂波町ほなみまちに属していましたが、現在は飯塚市に編入されています。この「天道」という名前は、天道宮てんどうのみやという神社に由来していると言われています。この地名の由来について、いつもの筑前国続風土記を引用してみましょう

筑前國続風土記 巻之十二 穂波郡 天道町 (意訳)

 太郎丸村の中で、天道宮があります。この社を初めて建てたのは、寛永かんえい7~8年の頃(西暦1630年頃?)です。
 太郎丸村に松永孫四郎まごしろう入道にゅうどう正齋まさなり?という者がいました。神託を得て、よく吉凶を告げていました。民たちはこれを信じて社を建立しました。これは天からのお告げと考え、その社を天道宮と名付けました。
 参詣する者は多く、とうとう住宅が多く出来て町となり天道町というようになりました。
 それはまるで宿駅しゅくえき(宿場町)のようでした。ここより飯塚へ一里(約3.9km、徒歩1時間)、内野へ二里七町(約10km、徒歩3時間)で、長崎街道です。
 天道社を建てた後、14~5年の間、参詣する人はとても多かったです。その後は次第に衰退していきましたが、今猶、その社はあって村人はこれを祭っています。
 また、この郡の河津村かわづむらには阿弥陀堂あみだどうがあります。寛永14年の頃よりこの仏像が霊験あらたかとして参詣する人が、日々集って賽銭を多く入れました。それは14~5年続きましたが、後は次第に衰退していきました。

 筑前國続風土記によると、建立は寛永7~8年のようですが、由来の案内板では1000年以上前となっています。どういうことでしょう。

 町の由来となった「天道宮」は、現在祭神は「大日孁貴命おおひるめむちのみこと」となっています。また、合祀されている神々には素戔嗚尊すさのおのみことと菅原道真公が含まれます。昭和19年刊行の福岡県神社誌においてすでにこの記述が存在しています。
 しかしながら、筑前国続風土記の記述と現在の情報が異なることから、江戸時代以降に変更があった可能性も考えられます。この事象の背後にある理由は何でしょうか。

 神社の案内板によれば、「古老の言い伝え」に基づき、「源満仲みなもとのみちなか大将陣たいしょうじんの麓に祭る天照大神に祈願した場所」として、この時期に天道宮が存在していた可能性が示唆されています。
 この記述は、近隣の大将陣神社の由来に関連付けられており、「天慶てんけい四年、源満仲が藤原純友ふじわらのすみともの反乱討滅の勅命をうけ、当山に陣をおき、天道の加護により亡そうと西麓に日天子ひてんしを勧請し祈った」という記述からの派生と考えられます。
 しかし、祭神が大日孁貴命であるならば、女神にあたり、社の様式は「女千木めちぎ」になるべきですが、この社は「男千木おちぎ」です。すなわち、実際の祭神は男神であることが分かります。さらに、大将陣神社を基準にすると、天道宮は西ではなく北西に位置しています。

 では、「西麓に日天子を勧請し祈った」という記述について考えてみましょう。

 まず、「日天子」という表現は、一般的には観世音菩薩を指します。大将陣神社の北に七観世音しちかんぜおん菩薩堂ぼさつどうがあることから、この可能性も考えられますが、位置的には西麓にはないですね。
 「日天子」はまた太陽神としての側面も持っており、天道宮の由来に記されている「天照大神」にも近い関連性があるかもしれません。実際、天照大神には男神説もあるため、天道宮が男神説を強調した神社であるなら、社様式が「男千木」であっても理解できるかもしれません。ただし、祭神の名前が「大日孁貴命」という女神の名前であることを考えると、やはり矛盾があるように思われます。

 さらに「日天子」という記述にも疑問が生じます。なぜ「日天子」と表現されているのでしょうか。

 大将陣神社から西に位置する範囲には、恵比須神社が存在します。ただし、現在の恵比須神社は規模が小さく、由緒については不明な部分があります。国土地理院の地図をみると、1986年までの記載は見当たらず、以前は荒廃していたかもしれません。(現在は天道宮の氏子の方々によって管理されているようで、実際の歴史は古いと考えられます。)
 恵比須様は、別名で「蛭子(ヒルコ)」神ともいいます。伊耶那岐命(イザナギノミコト)と伊耶那美命(イザナミノミコト)との間に生まれた最初の神様です。(彼は葦船に乗せられて流されたとされていますが、大昔の風習で、実際には流された後すぐに拾われたものと思います。)
 この神様の名前について、先代せんだい旧事くじ本紀ほんぎでは「大日霊子貴尊おおひるこむちのみこと」とも呼ばれ、大日孁貴命と対を成すもう一人の太陽神(日天子)とされています。
 藤原純友の乱の頃なら平安末期ですし、大日霊子貴尊の信仰も今よりずっと隆盛でしたでしょう。

したがって、私は天道宮の祭神について以下のように考えます。

 天道宮の祭神は、元々は松永孫四郎入道正齋、あるいは彼にお告げを授けた男神でした。建立当初は信仰が栄え、賑わいを見せていましたが、松永孫四郎入道正齋の死後、次第に信仰が薄れ衰退しました。その後、以前の賑わいを取り戻すため、大将陣神社の由来に記された「西麓に日天子を勧請した神社」という記述から、祭神を大日孁貴命に変更しました。このため、社の様式と祭神が矛盾する状態となりました。
 なお、源満仲が西麓に勧請した「日天子」は、実際には大日霊子貴尊で、現在は恵比寿神社になっているものと思われます。

 以上のように考えると、天道宮の祭神に関する事情が複雑であることが分かります。実際は、どのような経緯があったのか、その背後にどのような意図があったのか、興味深いですね。


用語解説

宿駅…交通の要地で、宿泊や人馬が用意されている所。江戸時代には街道などにいくつも設置。
阿弥陀堂…福岡県飯塚市川津にある阿弥陀寺の事と思われる。
男千木…神社の建築様式。祭神の性別に合わせて造られる。男千木は外削ぎ。
先代旧事本紀…記紀以外で天地開闢から推古天皇までの記載がある日本の史書。成立は平安初期頃。一説に偽書説もある。


2024.1.16 ルビを追加しました。

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