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トルコ航空の機材に「Kushimoto」(串本)と命名

ターキッシュエアラインズ(トルコ航空)の機材に日本の地名「Kushimoto」と記載されている機材を見かけました。

これは2015年12月5日東映系公開の「海難1890」は日本とトルコの合作で、和歌山県串本町沖の海難事故と、95年後のテヘランでの日本人救出という二つのエピソードを基にした感動の物語が上映されました。

日本とトルコ、9000km離れた両国の人々が、人が人を想う気持ちによって叶えた奇跡と希望。それこそが言葉や文化の違いを超えた友情と絆を生み出すことを物語る、感動の超大作です。

それを記念してターキッシュエアラインズ(トルコ航空)が新しく購入したエアバスA330型機の外部塗装に「Kushimoto」(串本)と命名された飛行機があります。その当時のターキッシュエアラインズ(トルコ航空)のプレスリリースでは以下のように記載されています。

(原文は英語ですので日本語に訳しました)

ターキッシュエアラインズプレスリリースより

ターキッシュ エアラインズの特別機「KUSHIMOTO号」が成田空港に着陸し、30 年振りの感動的な再会を果たしました。
同機の着陸を祝う歓迎式典が、11 月 30 日(月)に成田空港のエプロンで執り行われました。この日は、125 年前の日本とトルコの友情を描いた映画「海難 1890」のワールドプレミアの前日でした。 

エアバス 330-200 には、映画で描かれているように、1985 年のイラン-イラク戦争時にテヘランで 215 名の日本人乗客を救ったターキッシュ エアラインズの航空機(DC-10)と同じデザインが施されています。本日の搭乗者の中には、デザインの基となった 30 年前の航空機に乗っていた勇敢な客室乗務員も含まれていました。映画「海難 1890」は、トルコと日本にまつわる 2 つの史実を描いています。1890 年、トルコの軍艦「エルトゥールル号」が、日本への親善航海の途中で台風に遭い、沈没しました。「エルトゥールル号」が沈没した和歌山県の樫野(現串本町)の村人は、多くのトルコ人乗組員を救助しました。この事実はトルコの人々によく知られており、トルコの小学校の教科書で詳しく語られています。映画では 95 年後の 1985 年のイラン-イラク戦争の回想が描かれています。当時、空路封鎖によりテヘランに足止めされていた 215 名の日本人乗客を救出するために、ターキッシュ エアラインズが緊急救援機を飛ばしました。 

「エルトゥールル号」が串本沖で難破してから 125 年、テヘランでの救援から 30 年の 2015 年は重要な年です。日本とトルコの 125 年にわたる友情を祝して、ターキッシュ エアラインズは、2 つの歴史的な出来事を結びつける「KUSHIMOTO 号」を製作しました。この飛行機の名前は、「エルトゥールル号」のトルコ人乗組員を救助した村の現在の町名「串本」にちなんでいます。 

8 時 55 分に成田に着陸した後、客室乗務員が 1985 年当時のターキッシュ エアラインズの制服を着て「KUSHIMOTO 号」の機内通路に立ち、日本とトルコの国旗を振りました。トルコ機に救援された 215 名の日本人乗客のうち、沼田凖一さんと高星輝次さんの 2 名がお礼を述べ、トルコキキョウの花束を手渡し、この記念すべき機会に日本を訪れた人々を歓迎しました。

この式典で、沼田氏は 30 年前の日を振り返って、感動的なスピーチを行いました。「30 年前を思い出すと、私たちは、日本人を乗せてくれる航空会社がないという極めて絶望的な状況の中でテヘランに取り残されていました。イラク大統領サダム・フセインのイラン空域での無差別攻撃の警告の中で、トルコは緊急救援機を派遣し、私たちを救助しに来てくれました。私たちにとって、トルコは命の恩人です。トルコの人々にはいくら感謝してもしきれません」。

ターキッシュ エアラインズのアジア&極東販売担当副社長アフメット・ハルン・バシュトゥルクは式典のスピーチで、次のようにコメントしました。「1985 年のイラン-イラク戦争の時に、トルコはターキッシュ エアラインズの DC-10 を緊急派遣し、215 人の日本人を救助しました。ターキッシュ エアラインズがこの重要な役割を担うことができたことを、とても誇らしく思います。当時の機体デザインを施したこの特別機「KUSHIMOTO 号」は、1890 年にトルコ軍艦「エルトゥールル号」の乗組員が救出された和歌山県串本町にちなんで命名されました。100 年以上前から続くトルコと日本の友好関係に寄与できたことを、非常に嬉しく思っています。当時のターキッシュ エアラインズの勇敢なスタッフと日本人が再会できたことは、私たちにとって大きな感動です。今後もこのすばらしい友情を続けていくうえで、重要な役割を果たしたいと思います」。

「我々、串本の町民は、1985 年のオリジナル機に基づいてデザインされたこの特別機が「串本」にちなんで名づけられたことを大変名誉に感じています。「KUSHIMOTO 号」が 2 つの国を結びつける架け橋となり、今後もより深い友情を築いていくことを望んでいます」。串本町の町長、田嶋勝正氏はこのように述べ、「KUSHIMOTO 号」のデザインを称賛しました。 

「両国のパートナーシップは、125 年にわたって育んできた純粋な友情から始まった、特別なものです。この貴重な友情を次世代につないでいきたいと思います」。駐日トルコ大使アフメト・ビュレント・メリチ閣下はこのようにコメントしました。 

「KUSHIMOTO 号」はこの式典の後も、関西空港とイスタンブール間を運航することになっています。

ターキッシュエアラインズ、プレスリリースより

それにしても、トルコの飛行機になぜ日本の地名、しかも和歌山県の「串本」に命名されたのか、、、。

きっかけはトルコとの国交のきっかけはエルトゥールル号遭難事件です。

トルコ革命以前に存在したオスマン帝国海軍の船が日本を訪れ、帰国する際和歌山県串本町沖合いで起きた遭難事故で600人程がその命を落としました。

その時に、串本町の町民の人々は生存者の救護、救助を懸命に務めたことから、当時まだ実際に会ったことのない日本人に対してもトルコの人たちは好印象を抱いたのです。

そして「海難1890」の企画・監督 田中光敏氏は以下のようなコメントをしています。

大学時代の同窓である和歌山県串本町長からエルトゥールル号遭難事件の話を伺い、後世に伝えるべき話だという気持ちから映画化に向けて動き出したのが10年前。

それから10数回トルコに足を運び、色々な方からご協力、ご尽力をいただき、やっとここまでたどり着くことができました。

まさかこんなに大きなプロジェクトになるとは思いませんでした。積み重なる力は奇跡を起こす。

串本町・大野(樫野)の人々の想い、トルコの方々の想いが、この物語の映画化へ背中を押してくれたんだと思います。

東の果てと西の日本とトルコが125年たった今でも仲良く友情を紡いでいる。 そのことに非常に感動しています。

「目の前に困っている人がいれば助ける」

という素直な気持ち・ 真心を伝えるだけでなく、この出来事を次の世代に伝えるという役目を果たさなければならないと 感じています。

この想いが世界に広がれば、無駄な争いはなくなると思います。

日本とトルコの 国の人たちだけではなく、たくさんの国の人たちに観ていただきたい作品です。日本とトルコの 125年という長きに亘る友情に感謝します。

日本・トルコ合作「海難1890」より


このエピソードは日本の教科書には掲載されていない(つまり日本の学校教育では教わらない)せいもあり、日本人から見て、何故トルコには親日家が多いのか理解できないのは無理もないことです。

(私もトルコ人と懇親があるまで全く知らなかったのです)

今後、トルコへ行かれる方はトルコの小学校、中学校の教科書にも載っている1890年に和歌山県沖で起きた「エルトゥールル号遭難事件」の事を知っておくとトルコの滞在がより一層印象深いものになること請け合いです。




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