箱根駅伝が乗り越えた時代の困難について

今回は箱根駅伝ファンなら知っておきたい「箱根駅伝の歴史」をテーマに書きました。
今日のnoteは長いですが、ぜひ最後まで読んでください。

第5回箱根駅伝(1924年)

前年に起こった関東大震災の影響で首都圏自体が壊滅的な被害を受けたため、コースに使っていた道路が使えなくなったんだ。
それでも、何とか復興の目処が立ったことに加えて、コースを一部変更(※主な変更点:第一京浜→旧東海道)したから、何とか開催できたよ。

第8回箱根駅伝(1927年)

前年の12月26日に大正天皇が崩御あらせられたことによって、その後100日間にわたって国全体が喪に服していたから、開催時期を例年の1月から4月にずらして行ったよ。
(ちなみにこの影響で、この時期に開催していた全国中等学校蹴球選手権大会(※今の冬の高校サッカー)が中止になったよ。)
65回大会(1989年)も、昭和天皇が崩御あらせられた時期によっては開催できなかったか、開催時期がずれていたかも。

第22回箱根駅伝(1943年)

太平洋戦争(大東亜戦争)中に一度だけ開催できた大会だよ。

(1941年・1942年と1944年から1946年まで中止していたため)
1941年に日中戦争の長期化で箱根駅伝が開催できなくなったんだ。

その時、2回の代替大会(青梅駅伝)を開催したんだけど、その大会名も「駅伝」と表記せず、「大学専門学校鍛錬継走大会」と表記したんだ。
それくらい、学生が主体となってスポーツを開催しにくい空気があったんだよ。
この年の12月8日には太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦して、翌年の1942年も箱根駅伝を開催できなくなったんだ。

この年に入ると大学の繰り上げ卒業が始まっていて、学生たちは自分たちも兵隊にとられて、戦争に行って死ぬことになることが現実になろうとしているということを肌で感じ始めていた。

「せめて、戦争に行って死ぬまでに箱根駅伝を走りたい」

選手がこう感じていたのを、関東学連の学生たちも感じ取っていたんだ。

だから、もう一度箱根駅伝を開催するために、関東学連の学生たちは動き始めたんだ。
その時、1941年・1942年に箱根駅伝が開催できなくなったのは、コースに使っていた道路(国道1号)を軍需品の輸送に使ってたから、軍から許可が降りなくて道路が使えなくなってしまったためだとわかったんだ。
だから関東学連の学生たちは、道路の使用許可を得るために、軍部と話し合いをすることにしたよ。

そこで、学生たちは軍部の人達の理解を得るために、

①スタート地点・フィニッシュ地点の変更
(スタート地点→靖国神社、フィニッシュ地点→箱根神社。
何でスタート・フィニッシュ地点がこうなったのかというと、靖国神社は戦争で死んだ人たちを祀っている神社として有名で、箱根神社は武家や皇族の人たちの崇敬を長年集めていた神社だったからなんだ)
②戦勝祈願という名目での開催
(箱根駅伝スタート前に戦勝祈願の参拝をする)

という条件を提示したよ。

学生たちが箱根駅伝を行うために知恵を振り絞って、軍部と粘り強く交渉した結果、11月末にようやく開催できるようになったんだ。

箱根駅伝出走後、戦死した選手(日大7区・山手学さん、日大8区・平松義昌さん、立大3区・高橋和民さん、立大6区・古賀貫之さん)もいたよ。
(そのうち、この大会で7区を走った後、戦死した選手の1人である山手学さんに関しては、76回大会の「箱根駅伝今昔物語」で取り上げられたこともあるよ。

2023.12.9追記)文藝春秋から出版された「箱根駅伝『今昔物語』100年をつなぐ言葉のタスキ」(日本テレビ編)にこのエピソードが掲載されています!)
ちなみに、この大会は青山学院大学が初出場した大会でもあるよ。

第23回箱根駅伝(1947年)

終戦直後の混乱期。
食料ねえ!物資ねえ!選手足りねえ!
こんな状況だったけど、あの22回大会を走った選手(立大7区・高橋豊さん)が、関東学連幹事になって大会復活に尽力したよ。

そして、関東学連の学生たちは箱根駅伝を復活させようと動き出したよ。
最初は警察にコースに使っていた道路の使用許可をもらおうとしたんだけど、今度は「GHQの占領第1国道だからダメ」と言われたんだ。

そこで、関東学連の学生たちは道路の使用許可を得るため、今度はGHQと交渉することになったよ。
駅伝は日本独自の競技だったから、GHQの人たちは駅伝がどんな競技なのかがわからないし、それを説明するために適切な英語がなかったんだ。

そこで、学生たちはGHQに駅伝のことを「クロスカントリー・リレーゲーム」と説明したよ。
その後、箱根駅伝をどういう風に開催するのかについても説明し、ようやく道路の使用許可が下りたんだ。

この大会を開催するために動いていた頃、前のスポンサーだった報知新聞社に代わるスポンサー探しもしたよ。
そこで、学生たちは連日、1942年に報知新聞社と合併した読売新聞に『スポンサーになってほしい』と直談判したんだ。

その結果、今度は今のスポンサーでもある読売新聞がスポンサーになったんだ。
だから、今はスポーツ報知だけではなく、読売新聞も箱根駅伝を大きく報道しているんだね。

戦時中に何とか箱根駅伝を開催するために知恵を振り絞って頑張ってくれた学生たち。
戦争が終わってから、箱根駅伝を復活させるために頑張った学生たち。
どっちの存在が欠けていても、100回大会まで箱根駅伝を開催することが叶わなかったことがよくわかるね。

第97回箱根駅伝(2021年)

コロナ禍を生き延びた駅伝ファン諸君にとっては言わずもがなだろうと思うけど、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、開催が危ぶまれていたよ。

新型コロナウイルス感染拡大の影響として、長距離界で関係するものとしてはインターハイ、出雲駅伝が中止になったよ。
長距離界で関係しないものでも、春夏の甲子園が中止になったり、緊急事態宣言が出たりと、新型コロナウイルスが世間に大きく影を落とした1年だったね。

こんなご時世だったから、関東学連の学生たちも、「開催できないかもしれない」と思ったけど、最後まで諦めなかったよ。

そこで、学生たちは、自治体の人達の理解と協力を得るために、コースがある自治体の区役所・市役所を回って、役所の人達に、感染拡大防止策について説明したよ。

それをした理由は、日本陸連のロードレース開催条件に、「自治体から大会開催が認められる」というものがあったからなんだ。
出雲駅伝が中止になったのは、この条件が満たせなかったからだよ。

要するに、自治体から「大会をやってもいいよ」って許可が出なければロードレースの大会はやれないってことだね!
これは、なかなか「観客を入れて開催しよう!」という風にはならなかったわけだ。
地元の人達の理解と協力なしに、大会はできないからね。

だから、自治体の人達の理解を得るために、地元の区役所・市役所を回って、役所の人達に、感染拡大防止策について説明したんだね。

どんな感染拡大防止策を敷いたのかというと、

①感染症を専門とするドクター3人を中心としたコロナ対策委員会を設立
②例年より200人多い約1800人の走路員を配置
③胴上げ・円陣・中継所でタスキを渡す時の声掛けを禁止

日刊スポーツ「『夢をつぶせない』陰で学連も走る/箱根連載4」より

といったことをしたんだ。

自分達にも関わってくる内容なので言うまでもないだろうと思うけど、無観客開催もその対策の1つだったよ。

あの時、無観客開催でも、何とか箱根駅伝を開催できたのは、地元の人達の理解と協力を得るために、裏で動いてくれた学生たちの存在があったからなんだね!

箱根駅伝の歴史を振り返ってわかること

①当たり前は、当たり前じゃない

戦争然り、コロナ然り
当たり前と思っていた日常の変化も、社会情勢の変化で、あっという間に崩れてしまう。
戦争もコロナも、箱根駅伝を開催するどころではない非常時で、多くの大会が開催できなくなった時期でもあるんだけれども。

どちらの時代においても、通常通りの大会開催ができない状況なりに、どうやって箱根駅伝を開催するのかを考えて、箱根駅伝を開催するために裏で動いてくれた学生たちのおかげで、何とか箱根駅伝を開催することができたということがよくわかる。

②箱根駅伝を開催するために裏で動いてくれる学生たちの存在と、
大会開催のために必要などこかの誰かの理解と協力なしに、箱根駅伝は開催できない

戦時中・終戦直後の時期の場合は、道路の使用許可を得る相手(前者は軍部、後者はGHQ)。
コロナ禍の時は、地元の自治体の人たち。

箱根駅伝を開催するために、裏で動いてくれる学生たちの存在、大会開催のために必要などこかの誰かの理解と協力、どちらが欠けていても箱根駅伝を開催することはできない。
平時においてもそうだけど、特に戦争やコロナといった有事の時には尚更そうであることがよくわかる。

所感

まず今回書いたnoteを振り返って思ったこと。
戦前の大会、戦中・終戦直後の大会、コロナ禍の大会について調査し、ここまで整理していったわけだが、戦前の大会に関しては資料が少なくて、記事の分量が極端に少なくなってしまった。
逆に戦中・終戦直後の大会に関しては、その時代の箱根駅伝のことについて取り上げた書籍が2冊もあったこともあり、記事の分量が極端に多くなってしまったりと、資料の数の差=記事の分量の差、というような内容になってしまった。

そして最後に、コロナ禍が終わって、少しずつ日常を取り戻していく中で、
自分たちが生きている「今」も、大会開催が危ぶまれる時があったこと、
インターハイ、甲子園を中止にせざるを得ず、高校生たちが自分の競技人生の全てを出し切る権利を奪われてしまった状況の中で、
何とか箱根駅伝を開催しようと頑張った学生たちの存在があった事実。
実際に、学生たちの頑張りのおかげで、何とか箱根駅伝を開催できたということを、このまま忘れ去られるのだけは嫌だ!と思った。

そして、来年の1月に迎える第100回大会。どんな展開になるのかはわからないけど、無事に終わるといいな!

参考文献

駅伝ファンの皆さん、読んでね。

報道記事

日刊スポーツ「『夢をつぶせない』陰で学連も走る/箱根連載4」,2020年12月31日

Number Web「箱根駅伝に青春を捧げて。関東学連・山田幸輝幹事長が明かす大会開催への思い。」,2020年12月15日

書籍

関東学生陸上競技連盟「箱根駅伝70年史」,1989年
黒田圭助「箱根駅伝小史 第1編(駅伝誕生より文理大参加まで)」,郷野喜一,1961年
黒田圭助「箱根駅伝小史 第2編(日大の興隆より大会中断まで)」,郷野喜一,1962年
澤宮優「昭和十八年 幻の箱根駅伝:ゴールは靖国、そして戦地へ」,河出書房新社,2016年
早坂隆「昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝」,中央公論新社,2016年


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