お金と私。私とお金。そして、さらなる自分自身の発展へ。

お金とスピリチュアリティ、意識の複雑な関係について、一緒に考えていきましょう。

一人の聖人を取り上げてみます。アッシジの聖フランシスコは富と物質主義を否定し、根本的な質素さを体現したのは、有名な話です。

アッシジのフランチェスコ(1182年 - 1226年)は、キリスト教で、フランシスコ会の創設者であり、カトリック修道士です。彼は清貧、悔悛、そして「神の国」を説き、「裸のキリストに裸でしたがう」という教えを追求しました。

 彼の運動が大きくなるにつれ、それは制度化され、反対に、彼が嫌った財産を持つようになっていきました。それは、 イエスは女性によって物質的に支えられており、精神性と資源が絡み合っていることを強調している。という見方があったためです。

歴史の東西を見てみると、この真逆の反応がよく表れてくる話がよく出てきます。お金にまつわる議論は、特に欠乏マインドを持つ人々にとって、無意識の反応を引き起こす可能性があるということです。

何故でしょうか、 お金は究極的には象徴的なエネルギーであり、本質的に良いとか悪いとかではなく、私たちの意識を反映するものだからです。また、 匿名で寄付をすることは、富を分かち合うための、よりスピリチュア ルに沿った方法であることが多いと言われています。。

人がお金との関係を進化させることは、スピリチュアルな目覚めと意識に貢献するとも言われています。

では、ここで、 聖フランシスコに話を戻してみましょう。彼の物質的な富の拒絶は、精神的な理想と物質的な必要性 との間の緊張関係を示すと考えられています。そしてこれはまさに、彼の生涯は、精神的な道がしばしば物理的な世界の要求と格闘することを思い起こさせるものであると言えるでしょう。

彼の道筋をたどってみると、 聖フランシスコの修道会が組織化された存在へと成長したことは、精神的な運動が物質的なものと絡むとその本質を失いかねないことを反映しており、精神的な純粋さの持続可能性について疑問を投げかけている。と言われています。

先に述べた、イエスが物質的な支援を女性に依存したことは、精神的指導者がしばしば地域社会の資源に依存することを示し、精神的実践における自給自足の概念に挑戦している。とも言われています。

お金についての見解は、根深い恐れや無意識のパターンを明らかにすることがあり、したがって、反動的な行動を避けるために、金銭的な問題における自己認識の必要性を強調している。そして、それが、強調されるがゆえに何かを見失ってしまうことになるかもしれません。

ここで、もう一度、お金について、振り返ってみると、お金を象徴的なエネルギーとして理解することは、視点の転換を促し、経済的地位から自己価値を切り離し、豊かさとのより健全な関係を受け入れることを可能にすることに繋がるのかもしれません。

 したがって、お金に対する意識的なアプローチはスピリチュアルな目覚めにつながり、個人がより充実した生活を送るために、自分の価値観や信念と金銭感覚を一致させるのに役立っていくのかもしれません。

お金を自身に受け入れることは、とても大切なことです。なぜなら、今、ここにあるのは、お金を通した物質社会であるからです。しかし、もっと、深く踏み込んで、お金が、自分の内なる存在を引きだし、育てていくものだと考えてみてはどうでしょうか。


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