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「この世界の片隅に」の感想を書ききれなかった話

一昨年、米国出張の帰りに飛行機で「この世界の片隅に」を見てひどくショックを受け、何か書こうとして書ききれないままになっていたのですが、テレビ上映で盛り上がっているこの機会に供養しておこうと思います。
(今となっては何のために書いた文章なのかもよくわからないのですが、多分ブログにでも載せるつもりだった)

6歳の娘を育てています。
最近では僕のロシア語のлの発音が間違っていることを指摘してきたりする娘ですが、これだけ大きくなるまでに、いや、これだけ大きくなっても尚、ひどく壊れやすいものを腕に抱えて歩いているような気持ちが拭えません。
生卵をそのままバスケットに入れて歩いているような気持ちと表現したらいいでしょうか。
道端を歩いていても、風呂に入っていても、子供はちょっとしたことで目の前から消えていってしまうような不安な存在です。
その意味で、先週の米国出張の帰りに飛行機で見た「この世界の片隅に」は、前評判と違って、肝を冷やすような想いをさせられる映画でした。
娘と同じ、これから小学校に入る年の女の子が出てきて、その頭上に日々、艦載機の機銃掃射や焼夷弾が降ってくる訳ですから。
生卵を抱えた身としては、気が気でない描写ばかりで、そして卵は結局割れてしまいます。
もう一つ、この映画のラストでは、別の物語が交錯します。
小さな女の子に食事を食べさせる母親。次の瞬間に原爆が炸裂し、母親は腕が千切れ、全身にガラスの破片が突き刺さっても尚、娘の手を取って避難し、そのまま息絶えます。
生き残った小さな命も、それを残して息絶えた命も悲痛です。
僕の妻と娘の頭上で核弾頭が炸裂したら、妻はああして娘の手を取って歩くのでしょうし、娘は訳が分からないまま母親の死骸にすがりつくのだろうと思います。
ところで僕は軍事を飯の種にしていて、たとえば「有事には敵国民の3割を殺害する能力」といった話を平気で書いたり口にしたりします。
それはまさに、半ば朽ち果てながら子供を守ったあの母親を大量に出現させる話です。
しかし、仮に我々が幼い命が悲惨な形で奪われることに何ら感情を動かされないなら、抑止もまた成立しない訳です(自分や家族の苦痛や死に全く動じないとしたら、そもそも抑止は機能しないでしょう)。
しかも、ひとたび核兵器の原理が解明された以上、核兵器が使用される可能性は常に存在し、それ故に抑止は保たれ続ける他ありません。
他に道は無いと軍事屋としての自分は思うわけですが、しかし同時に、あの母親が半ば死体のような体で(文章ここまで)

変なところで終わっているのは何か所用があって筆を止めて、そのまま再開する気力が残っていなかったからなのですが、あれから二年半経って見返してみてもこの続きをどう書いたらいいのかはやっぱりよくわかりません。

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