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番外編(2022年5月4日)春休み読書企画 ハイエースと読書と巨大数と魚について

ハイエースとライフプラン

 某チンのせいでこの2月からまとまった休みというものを全くとれておらず、頭に来て(ということもないですが)ゴールデンウィーク中は一切の労働を拒否することにしました。
 つまり、仕事の書き物も出演業も一切謝絶ということであります。
 ついでに九州行きの航空券を取って、家族で熊本〜佐賀〜大分を巡ってきました。二泊じゃちょっと慌ただしいから三泊四日。

「このまま働かないで済ませらんねえかな」との想いにふける筆者

 まぁレンタカーの予約を忘れていて前日に熊本中のレンタカー屋に電話しまくった結果一台だけ残っていた業務用ハイエースで九州を巡ることになったのはいかにも「我が家っぽい」という感じではあったのですが、登山好きの妻氏につられて結構な奥地にまで足を踏み入れたりもしたので、相棒がパワフルなやつでよかったかなとも思っています。
 あと前々から大学を馘になったら餃子屋を開こうという話を妻氏としていたのですが、「これで配達もできるな」と思いました。図体でかいからこれまで運転したことなかったんですが、実際に運転してみるとものすごい小回りが効くんですよね。

隠れキリシタンに対する我が貧困な想像について

 そんなこんなで旅行の終盤で大分県の竹田市というところに行ったら、隠れキリシタンの礼拝堂というものがありました。最近、広野真嗣『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々』を読んだばかりであったので、特に印象に残ったのです。

「隠れキリシタンが今でも暮らしている島が、長崎にある」という触れ込みに対して、僕が最初に抱いた貧困な予想は「キリシタンなどおらん!けえれけえれ!」みたいな島民とか、しかし調べるほどに浮かび上がってくる奇怪な風習とか…であったのですが、本書は冒頭からその予想の貧困さを嘲笑うかのように展開します。つまり、いきなり島民によるお祈りのシーンから入るわけですね。もう全然隠れてはいない。
 ところが彼らは隠れる必要がなくなってからも、本場のカトリックと一緒にはなろうとしない。長崎県側も妙に彼らに冷たい。これは一体どういうことなのか…ということから、最終的には「信仰とはつまりどういう営みなのか」へと本書は展開していきます。予想とはちょっと違うけれども、ここには一種の大どんでん返し的な快感がある。
 ただ、それが決して大上段の宗教論にならないのは、あくまでもこの議論が生月島の人々とその生活に寄り添いながらなされているからなのかな、とも思いました。とにかく昔からやってっから大事にしてあげないとね、でも近頃は体も辛いし後継者もいないしなぁ、という平場感。キリスト教という、中東で生まれて欧州で発展を遂げた「世界のあっち側」の宗教が、こうして普通のおじさんおばさんの生活と一体になっている。
 僕は信仰心というものを全く持たない人間で、自分の実家の寺が何宗なのかも何度聴いても覚えられないのですが、もしもこういう形で生まれた時から宗教が存在していたらどうだろうか…ということをちょっと自問してしまいました。いや、それ以上深いことは何ひとつ思い浮かばなかったのですが、しかし、宗教について何がしか思考をめぐらすというのは、それ自体が大変に珍しいことであったので、ここにメモる次第です。

読んでいない本について堂々と語る方法についての本は本当に読まれたか?

 予想を裏切られる本といえば、最近の読書の中ではピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』があります。

 ちょっとユーモラスなエッセイ集のようなものを想像して手に取ってみたところ、これがガチの文学論というか、「そもそも読むとはどういう行為なのか」みたいな哲学論争的なものがぶっ飛んで来ます。
 たとえば流し読みは読んだことに入らないのか?最後まで読み通したとして完全に内容を理解したという保証はあるのか?ある人物の著作を完全に理解するということはありうるのか?
 こうして「読書」という概念をガッコンガッコンに揺さぶられた末に、「したがって読んでいなくても読んだと言えるような状態が存在するのだ」という思想、あるいは「読まないほうがかえってよく読めるのだ」といった古今東西の思想が紹介されていきます(東代表としては夏目漱石の『吾輩は猫である』が登場)。
 正直、結構難しくて完全に理解できているかどうかは自信がないのですが、読書体験としてはたしかに楽しいものでした。
 さて、本書に関する以上の僕の言及は、「読んだ」上でのものでしょうか、そうではないでしょうか。
 もちろん、以上はあくまでも挑発的な文学論であることには注意せねばならないでしょう。
 そういえばロングセラー『知的生産の技術』では「本は全部読むのが基本。大体斜め読みしたって時間はそう節約にならないし」といったことが書かれており、科学的な厳密性の世界で生きている人々(ということは世の中の会社員とか公務員とか研究者とか、近代社会で生きてる大体の人がここに含まれるわけですが)みんながバイヤール氏みたいなことを言い出したら大変でしょう。
 実際、翻訳者の大浦大介氏が訳者あとがきで書いているように、『読んでいない本について堂々と語る方法』は一種の自己パロディの趣があり、「バイヤール理論を頭から信じ込んでしまった人をバイヤール自身が演じている」みたいな構造をとっています(人文系研究者ってめんどくせえな)。
 しかし、同時に、そこには膨大な知識量を扱わねばならない人にとっての示唆のようなものもたしかにあります。つまり、知識(例えばある著作の内容)というのはそれ単体で存在しているわけではなく、知識体系の中に位置づけられるということです。したがって、一つ一つの著作に深く立ち入ることなく、膨大な著作群全体を見る、という考え方はサーベイ研究とかの考え方に通じるものがあるでしょう。
 まぁ、こんなせせこましい話につなげられたら迷惑だッと言われるのかもしれませんが。

スターリンのエゴサ

 いつの間にか旅行の話はどっかに飛んで行ってしまいました。
 仕方ないので最近読んだ本の話を続けると、亀山郁夫『大審問官スターリン』は「読む」という行為の意味を考える上でこれも面白い本でした。

 スターリンが「私の読書ノルマは1日500ページ」と嘯くほどの大読書家であったことは有名です。まぁヨーロッパのインテリにはたまにものすごい速読家が居たりするのはたしかですし、上掲のバイヤール理論から言っても、スターリンがその「1日500ページ」を精読していたかどうかはあまり問題ではないのでしょう。
 ただ、『大審問官スターリン』を読んでみて思ったのは「彼の読書は虚しいものだったんじゃないかな」ということです。彼は知的好奇心とか、楽しみとか、職業上の情熱のために読書をしていたのではないんじゃないか。
『大審問官スターリン』で描かれるように、スターリンは同時代の一流芸術家が生み出す映画や交響曲や小説や詩を片っ端から直接検閲しており、そこに自身の権力に対する脅威をわずかでも見出すと芸術家たちを冷遇したり、批判したり、ひどい時には刑務所にぶち込んだり処刑していたわけです。
 だとすると、彼の「1日500ページ」というのはエゴサみたいなもので、なんというかあんまり楽しみとか感動とか閃きとか、そういうものをもたらす読書ではなかったのかもしれません。まぁ本職のスターリン研究者はなんというかわかりませんが。

最近読んだ漫画など

 あと最近読んだのはみんな漫画で、特に良かったのは川尻こだま『川尻こだまのただれた生活』(1-7巻)と小林銅蟲『寿司 虚空編』あたりでしょうか。
 川尻こだまいいよな。ひたすら油しょっぱいもの食ってるところと酒飲む時の擬音が「こここ」なところとか。あと今「酒飲む時の祇園」と変換されたんですが、そういう粋な話はしていないです。

『寿司』はなんかもう、変なトリップ体験。巨大数と魚。あと「抱いて」ってジョークじゃなくて本当に抱かれるのかよ、とか。

 そんなこんなで連休の前半が過ぎ去っていきました。後半は大掃除でもして過ごそうと思います。

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