見出し画像

第60号(2019年11月11日) ユジノサハリンスク訪問記

存在感を増す「軍事大国ロシア」を軍事アナリスト小泉悠とともに読み解くメールマガジンをお届けします。
定期購読はこちらからどうぞ。


【見聞録】ユジノサハリンスク訪問記

 発行日を月曜日に変更した矢先、先週月曜日が振り替え休日だったためにしばらく間が空いてしまいました。
 その間、サハリン州都のユジノサハリンスクに行ってきましたので、その模様をご紹介したいと思います。

 サハリンというとどんなイメージをお持ちでしょうか。
 文豪チェーホフは1890年にサハリンを訪れ、『サハリン島』を著しました。当時は流刑地だったサハリンで囚人を含む住民たちと交流した記録(調査カードを用いた非常に体系的なもので1万点にも及ぶ)は今でも貴重な資料とされていますが、その結果、チェーホフはこの島を「堪え難い苦しみの土地」であると書き残しています。
 ちなみに今年、ロシアでは全国の主要空港に歴史上の人物の名が冠されましたが、ユジノサハリンスク空港はチェーホフのサハリン旅行を記念して「アントン・チェーホフ空港」と命名されました。
 1945年には当時の大日本帝国領であった南樺太にソ連軍が侵攻し、多くの日本人が島を追われました。私の中学校2-3年の担任も当時の豊原(現在のユジノサハリンスク)に住んでおり、3歳で島を脱出しています。
 そして1991年、ソ連が崩壊すると、サハリンは北方領土と同様、非常な苦境に置かれます。革命後のソ連政府は辺境地域の開拓を進めるために手厚い補助金を出して住民を誘致したわけですが、そうした手当が突然途絶したためです。
 1990年代にサハリンに駐在していた方から話を聞くと、インフラはめちゃくちゃ、行政機関はまともに機能せず、マフィアが跋扈し…と非常に大変な状況であったようです。私が知っているサハリン出身のロシア人女性も最初の夫がマフィアに殺されてサハリンに居られなくなり、日本に移り住んだと聴きます。

 こういうわけでどうも薄暗いイメージがまとわりつくサハリンなのですが、行ってみると全く拍子抜けでした。たしかに低い雲が常にたれ込める気候(もっとも私はピカピカの晴天というのがどうにも落ち着かず、こういう気候が性に合います)ではあるものの、街はこじんまりとして穏やかな様子で、やたらと巨大なロシアの大都会に比べて日本人にはなんだか馴染みがある雰囲気。基本的な街区は大日本帝国時代のままなので、「日本人スケール」でできた街と言えるでしょう。
 現地でアテンドしてくれた総領事館の職員も、「なんだか札幌みたいですよね」とおっしゃっていました。たしかにそんな感じがします。
 こういうこじんまりした街なので、軍隊との距離も非常に近いようでした。サハリンには東部軍管区第68軍団が置かれていますが、その司令部は街の中心部にある旧樺太庁舎跡に置かれており、市内観光をしていると普通に目に入る場所にあります。その少し離れた場所には通信部隊の基地もあり、アンテナがニョキニョキ立っているのがやはり通りから見えています。こういう距離感の街というのはロシアでも初めて見ました。
 この他にも旧樺太守備隊司令官の官舎が軍事裁判所に転用されており、これも前まで行って見物することができます。

画像1

画像2

 さらに目に付くのが、新しい建物の建設が活発に行われており、街区が広がっていることです。サハリン州全体の人口は1991年の71万3981人をピークに徐々に減少し、2019年には49万人を割り込んでいますが、州都ユジノサハリンスクの人口はむしろ増加傾向にあり、1991年の16万4000人に対して2019年には20万人を超えています。
 街中では歩道のアスファルトをペーブメントに敷き変えたり、公園を整備したりと景観にも気を使う余裕が出てきているのが印象的でした。それもそのはずで、2008年には308億ルーブルに過ぎなかった州内総生産は2018年には782億ルーブルと1.5倍にもなっており、経済は非常に好調なようです。
 この活況をもたらしているのがサハリン沖合で採掘される石油・天然ガスであることは言うまでもありません。この10年間でユジノサハリンスクが様変わりしたのだという話はいく先々で耳にしました。街の中でも、エネルギー企業の建物は群を抜いて立派なものが多く、目立ちます。
 また、今回の訪問ではギドロストロイの本社も目にしました。北方領土の択捉島や色丹島で操業する水産企業であり、社長のヴェルホフスキー氏はロシア版フォーブスでトップ10に入る符号として知られています。果たして本社も新築の非常に立派な建物で、スポーツ施設も併設するなど、サハリンで随一の大企業振りでした。

画像3

 サハリンで印象的だったもう一つの点は、アジア色が非常に強いということでしょう。
 特に目立つのは韓国系住民です。拙著『帝国ロシアの地政学』でも紹介したように、ロシアには朝鮮族の人々がかなり住んでいますが、ここで「韓国系」と書いて区別したのは理由があります。というのも、彼らはロシア帝国以来の住民ではなく、大日本帝国の国民としてサハリンに移り住んだ人々であるからです。
 1945年の大日本帝国崩壊により、日本人がサハリンを追われることになったという事情はすでに紹介しました。しかし、朝鮮半島出身者は突如として日本人ではなくなったために、日本に引き揚げることもできなくなってしまいます。この結果、多くの朝鮮半島出身者がソ連国民として暮らしていくことを余儀なくされたわけで、約49万人中2万6000人ほどをこうした朝鮮半島出身者が占めるという現状につながりました。
 何しろ空港を降りてタクシーに乗ると運転手は韓国人、ホテルにチェックインするとフロントも韓国人ですから、一体どこの国に来たのがちょっと戸惑うほど。また、サハリンでは韓国語の新聞『セウォル新聞』も発行されていると聞いて早速入手してみたところ、(当たり前ですが)最初から最後までハングルで書かれていました(本当に当たり前ですが、やはりこれをロシアの地で手にするとなかなか面食らいます)。
 さらに翌日はまず韓国系住民出身の元州議会議員に韓国総領事と面談したので、ほとんど韓国人とばかり会っていた出張でした。ちなみに前者の話によると、サハリンでやたらと韓国系住民の姿が目立つのは、やはりアジア系には商才がある、という点も影響しているようです。実際、人口比率ではロシア系住民の方が圧倒的であるにも関わらず、ホテル、レストラン、商店などでは韓国系住民の姿が非常に目立っていました。彼らはまた物腰も柔らかいので、つっけんどんなロシア人に慣れている身からするとちょっとしたカルチャーショックでもありました。

画像4

 韓国に次いで目立つアジア勢は、嬉しいことに日本です。サハリンのエネルギー事情の投資していること、北海道の新千歳空港からわずか1時間という近さであることなどから日本のプレゼンスは非常に大きく、サハリンでは韓国と並んで総領事館を置いている唯一の国でもあります。日本食レストランや日本製品を売る店も多いですし、日本語のできる人もちらほらといます。
 とはいえ住民登録をしている在留日本人はサハリン全体でわずか40人に過ぎず、年間の来訪者も1000人ほどとのこと。2017年から簡単な電子ビザが導入されたことでサハリンは非常に行きやすい場所になっていますので、是非訪れてみてもらいたいと思います。


【NEW BOOKS】The Russian Understanding of War ほか

・Oscar Jonsson, The Russian Understanding of War: Blurring the Lines Between War and Peace, Georgetown University Press, 2019. 
・西谷公明『ユーラシア・ダイナミズム:大陸の胎動を読み解く地政学』ミネルヴァ書房、2019年。


【編集後記】内なるロシア

 というほどのこともないんですが、サハリン行きの前から妻のお母さんがモスクワから来ておりまして、例によって家庭内がロシアになっています。食事なんかも作ってくれるのでありがたい限りなんですが、言語も食事もロシアとなるともうこの何十平米だかの中だけロシアになってしまうのですね。
 国家の境界が変わるというのはこういうことが遥かにマクロなスケールで発生するわけですから、歴史の教科書で「XX年、XXがXX領となった」というそっけない記述の背後には大変な社会的変動があったのだろうなぁなどと想像が膨らみます。サハリンでも同様だったでしょう。
 ちなみに今回面談に応じてくれた元州議会議員は、ソ連時代には結局国籍を取らずに通し、ソ連が崩壊してからロシア国民になったのだそうです。ソ連でそういうことが可能だったというのも驚きですが、そこには大国の間で翻弄された朝鮮半島の人々の悲哀と気概が感じられました。

===============================================
当メルマガでは読者のみなさんからの質問を受け付けています。
ご質問はnuclearblue1982@gmail.comまたは質問箱(https://peing.net/ja/okb1917)まで。
いただいたご質問の中から、読者の皆さんに関心が高そうなものについて当メルマガでお答えしていきます。

【発行者】
小泉悠(軍事アナリスト)
Twitter:@OKB1917

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?