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名店「すきやばし次郎」を築き上げた小野二郎と息子・禎一の職人論

<12年連続のミシュラン三ツ星――。世界にその名を知られる銀座の鮨店は、7歳で奉公に出て修業を始めた小野二郎が、40歳の時に開店した。職人とは何か。なぜカーレーサーを目指そうとしていた息子は店を受け継ごうと決意したのか>

2014年4月、国賓として来日したバラク・オバマ米大統領(当時)が、安倍晋三首相とともに東京・銀座の鮨店を訪れたことが大きなニュースになった。当日の銀座界隈に厳重警戒態勢が敷かれたことや、オバマ氏が「半分残した」だの「『人生で最高の鮨』と語った」だのといったことまでがメディアを賑わせた。

店の名は「すきやばし次郎」。築60年近くになるというビルの地下1階に、店主の小野二郎氏が店を構えたのは1965年のことだ。以来54年。1925年生まれの二郎氏は今年で94歳になったが、今でも現役で鮨を握っている。その傍らに立つのは、長男の禎一(よしかず)氏だ。

頑固な職人気質で知られる二郎氏は、その一方で、鮨の「神様」と崇められるほどの存在だ。そんな父親の姿を誰よりも近くで、誰よりも長く見てきた禎一氏は、一体どんな思いで父の後ろ姿を見つめ、その店を受け継ごうと決意したのか──。

『「すきやばし次郎」 小野禎一 父と私の60年』(根津孝子著、CCCメディアハウス)は、禎一氏や二郎氏などへのインタビューを通して、長年にわたって名店としての誉れを守り続けてきた根底にある職人論と、それを次世代へと継承していく親子の物語を描き出している。

なぜ店名を「すきやばし二郎」にしなかったか

「すきやばし次郎」の名が知られるようになったのは、何もアメリカの大統領が来店したからではない。開店から8年後の1973年には、歴史ある百貨店「日本橋高島屋」に支店を出していることからも分かるように、既に一定の評判を得ていた。

その後、バブル景気の中で「社用族」たちがこぞって会社の経費を落としていった時代を経て、2007年、日本で初めて刊行された『ミシュランガイド』で三ツ星を獲得、その名声が広く知れ渡ることとなる。以後、12年連続の三ツ星だ(最新版の『ミシュランガイド東京2020』は今年11月29日に刊行予定)。

この店を一代で築き上げた小野二郎氏は、生粋の江戸っ子――というわけではない。実は静岡生まれ。7歳で親元を離れ、割烹料理屋に奉公に出たことが、職人としてのスタートだった。当時は、一人で店の掃除を行ってから学校に通う、という日々を送っていたという。

東京に移って修業を続けた後、40歳の時にようやく独立して「すきやばし次郎」を開店。その腕前は広く高く評価され、2005年、卓越した技能者を表彰する「現代の名工」に選出されたほか、2014年には黄綬褒章(「業務ニ精励シ衆民ノ模範タルベキ者」に授与される)を受章している。

二郎氏を語る上で外せないのは、94歳を迎えてなお現役の職人として活躍している点だ。さすがに昼の営業時間にはもう出ていないそうだが、終始立ちっぱなしであることを考えれば、夜の数時間だけでも驚嘆に値する。ギネス世界記録も認める「世界最高齢の三ツ星シェフ」だ。

ところで、本書でも触れられているが、店名は当初から「すきやばし次郎」であって「すきやばし二郎」ではない。店名について著者が尋ねると、二郎氏の回答は「次郎の方が店の看板なんかに書いたとき、格好がいいでしょ」。頑固な職人像とは違った「茶目っ気」のある二郎氏の発言が、本書では随所にうかがえる。

「手に職をつけておけば大丈夫」という言葉の重み

そんな二郎氏を支えるのが、長男で、本店で二郎氏と並んで鮨を握る禎一氏だ。23歳で店に入って37年。今年で還暦を迎え、既に店の多くのことを任されるようにはなっているが、それでも、師匠と弟子という関係が変わることはなく、今の自分があるのは父親あってのことだと繰り返し述べる。

禎一氏は、もともと鮨職人になる気はなかったという。中学時代は「やんちゃ」だったそうで、あまり勉強もせず、高校卒業後はカーレーサーを目指そうと思っていたらしい。だが、二郎氏に「そんなもんで食っていけるかっ!」と一喝され断念。料理の道に進んだのだという。

息子を半ば強引に料理人にした二郎氏だが、「自分の鮨を継いでほしい」と思ってのことではなかったようだ。高校生の息子に発した言葉のとおり、食うに困らないことが大事であり、それには「手に職をつけておけば大丈夫」。この言葉には、7歳から働きに出た二郎氏ならではの重みがある。

とはいえ職人の世界は厳しい。「すきやばし次郎」のような名店ですら、新しい弟子を募集しても見つからないことがあるという。だがその一方で、職人という仕事に魅力を感じ、苦労を承知で覚悟を決めて、その世界に飛び込む人もいる。その好例が、禎一氏の2歳下の弟である隆士氏だ。

幼い頃から父の姿を見て「鮨職人になりたい」と言っていた隆士氏は、他店で修業を重ねた兄よりも早く店に入り、現在は、六本木ヒルズ店を開店以来任されている(同店は『ミシュランガイド』で二ツ星を獲得)。さらに隆士氏の2人の息子も、既に鮨職人の道を歩んでいるという。

本店を継ぐ禎一氏はと言えば、「陽のあたるところは親父さんでいい」「一人でもわかってくれたらそれでいい」と黒子に徹する姿勢を隠そうとしない。だが、いつか二郎氏がいなくなっても「すきやばし次郎の味は変わらないっていう自信もある」と語り、職人としての誇りを覗かせている。

映画『二郎は鮨の夢を見る』で世界に広がった評判

「すきやばし次郎」には海外からの客も多いが、それには一本の映画が影響している。アメリカ人監督のデヴィッド・ゲルブによる『二郎は鮨の夢を見る』(2011年公開)は、二郎氏を軸に、禎一氏や隆士氏、弟子たちのほか、店を取り巻くプロフェッショナルな人々を映し出したドキュメンタリー映画だ。

世界各国で公開されたことから店の評判は海を越えて広まり、ハリウッドスターをはじめとする著名人が店を訪れるようになった。実はオバマ氏もこの映画を見ており、本人たっての希望で、店での会食が急遽決定したという(ちなみに禎一氏によれば、オバマ氏は鮨をほぼ完食したそうだ)。

この映画は、鮨職人を芸術家のように描き出しており、店内の凜とした空気までもが画面から伝わってくる。日本の「職人気質」というマインドを世界に知らしめた作品と言えるだろう。映画を見て来店する人々は、味だけでなくその精神性に触れたくて、わざわざ足を運んでいるのだ。

しかし当の二郎氏は、鮨職人の魅力は何かと聞かれても、やはり「手に職がある方がいい」「職人は定年のない、いい仕事」と答えるだけ。その上で、職人であれば、自分の腕次第で上に行けるという点も張り合いがあっていいと思うが、「ただ、上にいくためには志が必要です」とも語っている。

手を抜かず、一つひとつの仕事を毎日コツコツと繰り返し、もしかしたら何十年もかかるかもしれないけれど、いや、生涯「ここに極まれり」という自覚は得られないかもしれないけれど、こういう職人の世界がある......(中略)......そこにこそ、この仕事の良さや醍醐味があるのです(317ページ、小野禎一氏によるあとがきより)

「神様」と呼ばれる父と、黒子に徹する息子。高潔でありながら地に足の着いた出色の職人論が、2人の共通点であり、「すきやばし次郎」の土台でもある。世界に冠たる名店のさまざまなエピソードの中に、それを築き、守り、受け継ぐ職人たちの偽らざる本音が、彼ら自身の言葉を通して垣間見える。

本書の著者は15年ほど前から同店を訪れており、今では月に1、2度、二郎氏の握る鮨を堪能しているという。二郎氏や禎一氏の話しぶりからも親密さが伝わってくるが、二郎氏の誕生日には長い手紙を書くのが恒例だという間柄の著者だからこそ、これほど踏み込んだ話を聞き出せたのだろう。

2019年11月08日(金)

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※この記事はニューズウィーク日本版より転載しています。



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