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手をつなぐ二人の距離は 第3話


「海、見に行こう。大きくて広い、水平線がずうーっと続く海!」

 那由がこう言い出したのは、二、三日前のことだった。ともすれば落ち込みがちな僕を励ましたいのか、ただ単に自分が見に行きたいのか。もし那由自身に聞いてみたならば、きっといつものように宙を見上げて、そのまま考え込むだろう。
 でも、僕にとってもそれは魅力的な提案だった。いつも買い物に行くのがせいぜいだが、それでは買ったばかりのビアンキがもったいない。そんな訳で、学校が始まってから初めての週末、僕らは太平洋を見に行くことにした。

 朝食。母さんはりんごと人参のミックスジュースを飲み干し、そのままバタバタと家を出て行った。この土日はどうしても抜けられないんだそうだ。
 僕たちもそれぞれ支度を整え、改めてキッチンに集合した。温かいほうじ茶を入れた水筒を、各々の鞄に詰める。
 僕はいつものようにメッセンジャーバッグだが、那由はリュックサックを背負っている。珍しく女の子らしいデザインで、紺色の地に白い水玉模様……と思ったら、よく見ると並んだ点々が、丸ではなかった。横長の楕円で、上に三角が二つ突き出ている。
「猫柄だよ。可愛いでしょ? 勝負リュックなの」
「なにと勝負する気なの」
「たぶん世の中と。猫って、最強じゃない?」
 よく分からない。
「それより、本当にお弁当作らなくて良いのか?」
「大丈夫、大丈夫」
 那由は手をぱたぱたと振る。
「何とかなるでしょ。スーパーか、コンビニくらいあるだろうし。途中で何か買えば良いんじゃない?」
 今日はお弁当を持って行かない、と言いだしたのも、那由だ。
「気の向くままに春の陽気に誘われてサイクリング、ってのにあこがれてたんだよね」
 まあ、いざとなったら僕のスマホで店を調べればいいし。確かに、ちょっと魅力的かな。
「それとも、何日もかけてルートを何通りも検索して、決まったらプリントアウトしてマーカーでチェック入れて、何時何分にどこの交差点を通過するかが決めてあって、お昼休憩は何時から何時までとか……、そんな風に決める方が良かった? 晴ちゃんの性格上」
「どういう意味だよ!」
 那由は、僕をどういう性格だと認識しているのか。そこまで言われては、僕だって那由の話に乗らざるを得ない。
「そうだなあ……とりあえず、南に走って行けば何とかなるとは思うんだ。表浜街道って道に出れば、そこから海に降りる道があるから」
「そうそう、何とかなるって」
「ははは……」
 僕はバッグを肩にかけ直した。
「とにかく、出かけよう! 走ってたら、海が見られるどっかには着くって。太平洋は広いんだし」
 そう言って、那由は玄関に向かった。

 天気は良好。ビアンキと同じ色のお揃いのヘルメットをかぶり、朝の空気の中、僕らは走りはじめた。
 僕たちの自転車は、色も形も同型だ。これには訳がある。

 あれは、那由が家に来た日だった。「那由にも、自転車がないと不便よね」と、那由のお母さん、つまり僕にとっての伯母さんが、僕たちを自転車屋さんに連れて行ってくれた。
 連れだって店に入るなり、那由の目が一点に釘付けになった。
 エメラルドグリーンというか、緑と青の中間の明るい色が印象的なその自転車は、店に入ってすぐ目に入る展示台の中心に置かれていた。
 すっきりとシンプルながら力強いその姿は、看板通り数々の自転車が並べられた店の中でも、ひときわ光る存在だった。
 展示台の前から動かなくなってしまった那由に、
「何、これが欲しいの?」と伯母さんが声を掛けた。
 しかし那由は激しく首を振った。その自転車は、姿だけでなく値段の方もひときわ飛び抜けていたのだ。
 でも伯母さんは、「晴ちゃんにも、一緒の買っちゃおう! だからこれにしなさいな」と、
「この子達の身長に合う、あの自転車二台ください。それとヘルメットも」と通りかかった店員さんに声を掛けた。
 那由は嬉しさと困惑の中間の顔をして「え……あの……ありがとう」と伯母さんにギクシャクと頭を下げた。僕だって、びっくりだ。
 そして次の日。僕と那由に、それぞれ色違いのメッセンジャーバッグが届いた。
 伯母さんから話を聞いた母さんが、ネットで注文してくれたらしい。那由にはブルー系、僕は黒にグレーのワンポイントだ。体格に合わせ、僕のバッグの方が那由のよりワンサイズ大きい。
 包みを開けた那由は、ますます困ったような表情で縮こまっていた。

 僕たちは、道沿いに南へ進んだ。先頭は、豊橋の先輩である僕だ。ビアンキの調子も最高で、まるでレールの上を滑っていくようにするすると走る。
 道は、高師緑地と呼ばれる公園を過ぎたあたりから急な下り坂になり、まるで崖っぷちに立ったかのように視界が広がる。
「きゃっほー! 空が広い!」
後ろから、那由の歓声が聞こえた。
 ごちゃごちゃとした住宅街がすぱっと終わって、田んぼと畑の中にビニールハウスと一軒家が点々とする景色になった。遠く東に見える大きな建物は、母さんの勤めている大学だ。でも、知っていなければきっと、何の建物か悩むだろう。いつ見ても、「何でこんな所に」と思わずにはいられない。
 ともすればスピードが出すぎてしまいそうなビアンキを抑えつつ慎重に下っていくと、いつの間にか那由が僕の左側に並んでいた。
「那由、危ないってば」
「私、この街に来てからずーっと思ってたんだけど、」
 僕の注意を聞いてない。『今、話したい』と思ったら止まらないのが那由なので、仕方なく応じる事にした。
「うん、何?」
「土が、独特のレンガみたいな色だよね。他で見たこともないような」
「確かに」
 更に遠くに目をやると、その独特の赤土は、又大きく盛り上がって台地のように広がっている。それが渥美半島だ。
「それで、普通な顔して、住宅地にもキャベツ畑が混ざってるし」
「この土が、キャベツ栽培に適してるんだろうね」
「っていうか、キャベツがこっそり日常の隙間を侵略しているみたいじゃない? うん、そんな感じ」
 そんな馬鹿な。
「あの丘を越えたら」
「うん、遠州灘。つまり太平洋」

 坂を下り終え、川を渡り、農道を走り始めた所で、やっと安心して横に並ぶことができた。
 坂の上からは平らに見えたが、実際はだらだら坂でなかなか辛い。しかし那由はさすが山の子、
「わー、変速段の性能が良いと、坂道が楽だねえ!」
なんて言いながら、鼻歌まじりにニコニコしている。いつものように、調子外れだが。
 街から離れるにつれて、風景にはどんどんキャベツ畑が増してくる。収穫間近の丸いの、収穫が終わった葉だけの、これから育つ苗……など様々な姿のキャベツで、赤茶けた地面は無数の薄緑の水玉模様だ。
「ところで、キャベツ畑でさ、キャベツ色の自転車にキャベツ色のヘルメットで走ってるって、遠くから見たら、キャベツが二個移動しているように見えるかな?」と、那由が『キャベツ』だらけの話を言い出した。
 一方、僕は少し息が上がりはじめている。分かっていることとはいえ、那由に体力勝負で負けるのは悔しい。意地でも平然を装って答えた。
「未確認移動キャベツ、とでもいうのかな……、確かに那由はキャベツをかぶっているように見えなくもない」
「それは晴ちゃんも同じでしょ」
「自分の頭は見えないからね」
「何よそれー!」
 那由は頬をふくらます。この那由の表情が、縦列で走っていた県道では見られなかったのだ。田舎道に入ってきた甲斐がある。
「でもさ、イタリア高級ブランドのクロスバイクでサイクリングなのに、なんで『未確認移動キャベツ』になるんだろう」
「キャベツ畑のなかを、走ってるからでしょ」
「それだけかなあ、何かこう、少しずれてるような……」
「みっかくっにんー、いどーうきゃっべつ、侵略しちゃうぞーぉ」
 那由はそのフレーズが気に入ったのか、ペダルをこぐリズムに合わせて、でたらめな歌を歌っている。

 坂の途中に、農産物の小さい直売所があった。数本ののぼりが風にはためいている。緑の地に白抜きで書かれた文字を見て、那由がはしゃいだ声を上げた。
「『農家直送』だって! 行ってみようよ」
「うん」
 僕らは砂利引きの駐車場の隅にビアンキを止めた。それぞれ鍵をかけた後、僕は二台のタイヤにチェーンを通した。二重ロックという奴だ。
 直売所の中は、朝の光に慣れた目には少しだけ薄暗い。
 小松菜、青梗菜、大葉、いちご、当然キャベツ。冷たく青い匂いを漂わす数々の野菜は、規格外という奴なのか、どれも相場より相当安い。
 玉ねぎかと見まごうような大きさのニンニク、どうやって料理しようか。ヤーコンって何だ? どんな味がするんだろう。店に並んだラインナップに、否応なしにテンションが上がってくるが、今は自転車だ。あまりかさばる物は買えない。今度は母さんに車で連れてきてもらうことを心に決めつつ、断腸の思いで僕はスナップエンドウとラディッシュ、そしてペコロスを選んだ。
「あとこれ、可愛い!」
 那由が持ってきたのは、黄色や赤の混じったプチトマトが、数個ずつ入ったパックだった。……つぶさないように、気をつけよう。
 陳列棚には、野菜だけでなく弁当も並んでいた。海苔の巻かれたおにぎり二個と唐揚げ、卵焼き、大根の桜漬けが透明なパックに詰められ、¥300の値札シールが貼られていた。
「おー、美味しそう! これ、買っていこうね!」那由の声が弾む。
「たまには予定を立てずにその場で決めてくってのも、良いもんだな」
「ね、言ったでしょ?」 
 那由は得意そうだ。
「すみませーん、これ下さい」
 僕は店番のおばさんに声をかけた。割烹着を着た丸顔のおばさんは、慣れた手つきで電卓のキーを叩いた。
「これと、これと……全部で千五十円だけど、キャベツに似たヘルメットしとるで、五十円まけたげるに」
「わ、ありがとうございます!」那由は、ニコニコと礼を言った。
 やっぱり他人からもキャベツに見えるのか……と、複雑な思いだったが、それでも僕は礼を言って、千円札をおばさんに支払った。
「今日は温(ぬく)といねえ。こんな早くからどこ行くの、サイクリング?」他にお客がいないからか、おばさんは僕たちに話しかけてきた。
「はい、海まで行くんです」那由は、愛想良く答えた。
「いいねえ、楽しそうで。ちょうどお付き合いをはじめて一ヶ月くらいってところかのん」
 那由は、顔の前で手をぱたぱたと振った。
「いえいえ、違います! 私たち、いとこ同士なんです」
「へえ、そうかん。えらく仲良いねえ」おばさんは僕たちを見比べるように、交互に顔を動かした。
「こんな大きくなっても仲良いいとこ同士ってのも、めずらしいね。今どき、きょうだいでも、一緒にサイクリングとかしないら?」
「私たち、変わってるんです」
「え」おばさんは目を丸くした。
「みんな言うんです。変わってるって」
 おばさんはちょっと考えて、お弁当と野菜を別々のビニール袋に詰めながら、ゆっくりとこう言った。
「まあ、気にしんことだわ。本人達が楽しいなら、かまわないじゃんね?」
「はい、ありがとうございます。毎日とっても楽しいです!」
 おばさんと那由は、同時ににっこり笑った。僕は照れくさくなって、受け取った品物をバッグにどうやって詰めるか真剣に検討するふりをして、二人から目をそらした。
「気をつけて行きんよー」
 おばさんの声に送られ、僕たちは直売所をあとにした。
 那由は、またペダルをこぎながら歌い出す。
「ぼくっらはー、自由なきゃっべつ、どこでも行っちゃうぞーぉ」
 ぼくらは、か……。

 なだらかな坂道を、ゆっくりと上っていく。
「この坂道を登れば、表浜街道?」
「多分そうだよ」
 陽射しはうららか、景色は広々、しかも週末はまだ始まったばかりだ。よく鼻歌を歌う那由ではないが、僕もシベリウスの「カレリヤ組曲 行進曲風に」の軽快なリズムでもハミングしたくなる。
 跳ねて弾むような曲調のこの曲は、行進曲というよりも、自転車をこぐペースにぴったりだと思う。弦楽器の、さわやかで可愛らしい、聞いているとリズムに合わせて体を揺らしたくなるような主題が繰り返されたあと、ティンパニの連打とトランペットのファンファーレが重なってくる。その爽快な響きを思い浮かべた時、那由が、こちらもご機嫌この上ない声で話しかけてきた。
「しかし、広い空、広い畑! 更にこの先に広い海があると思うと」
「どんな感じ?」
「ケーキを食べてたら、『大当たり!もう一切れ』って焼き印の棒が入ってた感じかな。二倍、嬉しいよね」
 那由のたとえ話は、分かりづらい。
 そうこうしているうちに、坂を登り切り、国道との交差点に出た。
「やった! ……って、えー、ここが表浜街道……?」
 那由が、不満そうな声を上げた。
「どうしたの?」
「『表浜』って割に、海沿いじゃないんだ……」
 確かに、海があるはずの方向には、数軒の家の向こうに雑木林がみえるだけだ。
「まあまあ、どこかに海に降りる道があるはずだから」
 不服そうな那由を励まし、街道を更に西に向かう。
「あーっ!」
 那由が突然大声を上げた。慌ててブレーキをかける。
「晴ちゃん、これだよ、これ!」
 那由が指さす先を見てみると、道ばたに「田原豊橋自転車道↓」
と書かれた、小さな標識が立っていた。矢印は南、確かに海の方角を指している。
「自転車道に行こうよ!」
 そう言って那由は、標識の示す道に自転車を向けてこぎ出した。僕も続かざるを得ない。
 その、自転車道に続くはずの道はとても狭かった。車が一台、やっと通れるかどうかだろう。人家はなくなり、道自体も雑木林の中に埋もれてしまいそうだ。
「本当にこっちかな」
 僕の不安には頓着せず、
「だって、こっちって書いてあったし」
と、那由はずんずん進む。 
 国道から離れるにつれ、鳥の鳴き声がにぎやかに聞こえるようになってきた。そして、それに混じって「ゴーッ」という、連続した低い音も、かすかに聞こえる。
 那由にも聞こえるようで、「この鳴りやまない音、何だろ?」と自転車をこぎながら首をかしげている。
 やがてその道は、中央をガードレールで区切ったものに変わり、同時に西へとカーブを切った。どうやらここが自転車道らしい。
「ほら、この道で間違いはなかった!」
那由は胸を張った。
「しかし、これは……」僕は絶句した。
 ほとんど利用する人もいないのだろうか、その路面は厚く枯葉で埋まり、タイヤが滑りそうで気が気ではない。舗装も荒れている感じだ。
 そんな道路コンディションにもかかわらず、那由は張り切って進んでいく。僕も、覚悟を決めて後に続いた。
 木々の隙間から、少しだけ海がのぞいている。「うわ! あれ海? ほんとに海? もう、よく見えない!」
那由がよそ見をした瞬間、 ズルッ…… 突然、那由の自転車の前輪が滑った。
 後ろにいる僕は仰天したが、当の那由は、「おおっと! 落ち葉障害!」なんて言って笑っている。
「ちょっとくらいの障害は、かえって『わくわく』を高めてくれるよね!」
那由は言うが、僕は足下に気を取られてそれどころではない。
 その後、那由の表現を借りれば「果てなく続く細かいアップダウン障害」「いきなり目の前にぶら下がるシャクトリ虫障害」「大きなアブ3匹の連続障害」等々、数々の危機を乗り越え、体力はともかく心が折れそうになってきたあたりで、僕らはようやく、ぽっかりと開けた小さな交差点に出た。
「なーんだ、ここまでか」
那由は残念そうだが、僕は心からほっとした。
「きっと、ここを南に折れれば海に降りられるよ」
 僕の言葉に、那由は大きくうなずいた。
「よーし、もう一息だね!」

 しかし、その海に下る道は、今までの中で一番きつい下り坂だった。
「これは、帰りが大変そうだな……電動アシスト付き自転車だったら良かったかもしれない……」
 行く手の坂を見下ろし、僕は思わず声が出た。
「あ、何かいつもの晴ちゃんに戻ってきた」
 だから、『いつもの晴ちゃん』って何だよ。
「私がクロスバイクで、晴ちゃんがアシスト付き? それで並んで走るの、ちょっとやだなあ」
「それは僕も嫌だけど」
「まあ、『何とかなる』でしょ?」
 珍しく、那由が僕をからかってきた。その表情が、腹立つよりもむしろ可愛く見えるから、かえって始末が悪い。

 今度は、僕が先頭に立った。
 坂は、つづれ織りのような急カーブが続いていた。車も通っているので、慎重にブレーキをかけながら進まなくてはならない。しかもツタ状の植物が道ばたの木に絡まり、道行きを遮る。イメージとしては、ほとんどトンネルだ。
「待っててよ、待っててよ、海!」
 のろのろとした進み方がもどかしいのか、後ろから那由がつぶやく声が聞こえる。
 海はどこに行くものでもないだろうが、それでも那由の言う『わくわく』が、少しずつ僕にも伝わってくるのを感じる。
 狭く、暗く、見通しが悪い道を、僕らは下っていく。
 幾度目かのヘアピンカーブを曲がった時、絡まったヤブが唐突に途切れ、そして視界いっぱいに、陽に輝く海と空が広がった。
「きゃっほー!!」
 那由が、この日一番の歓声を上げた。

 坂を下りきると、小さな駐車場があり、何台か車が停まっていた。邪魔にならないよう、敷地の隅っこに自転車を止めた。
「早く早く!」
 飛び降りるようにして自転車を降りた那由が、足踏みしながら僕をせかす。
「ちょっと待っててよ、っとっと……」
 僕も降りようとしたが、その瞬間、野菜とお弁当でふくれたバッグに振り回されて、ふらついた。思ったより、足にきているようだ。
「そんな重たいの背負ってるからだね! ほら、持っててあげるから、早くツーロックかけてよ! 私の分は、もうかけたから!」
 そう言って那由は、有無を言わさず僕のバッグを取り上げた。僕は自分の分の鍵をかけ、例によって後輪をチェーンで繋ぐ。
「はい、おまたせ」
 僕のその言葉を合図に、那由は荷物を地面に置いて階段を駆け下り、海へ向かって、砂浜を横切って走り出した……と、思ったら砂で足を取られ転んだ。
「大丈夫ー!?」
 砂浜だから怪我はないと思うが、一応声をかけてみる。那由は無言のままむくっと起き上がり、また走り出した。まるで、リードを離されて興奮している子犬みたいだ。
 僕は苦笑しつつ、放り出された那由のリュックと、自分のバッグを持ってゆっくり後を追った。
 波打ち際で、那由はもどかしげに靴を脱ぎ捨てた。靴に砂が入ったのかな、と思いきや、みるみるうちに靴下も脱ぎ捨て、ジーンズを太ももまで強引にたくし上げ、そのまま海に突進していった。
「ぎゃー、冷たいー!」
と、悲鳴が聞こえる。
 僕は那由がほっぽり出していった靴と靴下を拾い上げ、砂を払った。そして靴下を靴の中に入れて、波が届きそうにないあたりに見当をつけ、揃えておいた。僕も裸足になり、靴は那由の靴の横に並べる。
 二人分の荷物も一緒にそこに置いて、僕も波打ち際まで歩いた。

「いやー、やっぱり冷たいわ」
 那由が戻ってきた。それはそうだろう。まだ四月もはじめだ。
「山住まいだと、海にはテンション上がるねー。晴ちゃんもどう? 入ってみない?」
「……いや、遠慮しておくよ」
「そう? せっかく海に来たんだから、海を楽しんだら?」
 何故、まだ冷たいのが分かっている海に、僕がそこまで積極的になれると思えるのだろうか。
 何とか海に入らないですむ方便を考えていたその時、僕は足下に、手頃なサイズの棒きれが落ちているのを見つけた。
 どこか遠くから流れ着いた物だろうか。小さい頃、海に来ると必ずやった遊びを思い出し、僕は那由に提案した。
「じゃあさ、棒倒しやらない?」
「棒倒し? 何それ?」
 那由は、小さい頃から一人で遊ぶ方が好きだったせいか、こういう皆が知っているであろう事が、時々ぽかんと抜けていたりする。
「簡単だから、教えてあげるよ」
 僕は、波打ち際にしゃがみ、海水を吸った砂を集めて山を作った。そのてっぺんに、拾った棒を突き刺す。
「那由はそっち側に座って」
「うん」那由は、素直に山の反対側にしゃがんだ。まっすぐ僕を見てくる瞳が、丸く輝く。思いつきで言い出したことだが、これは想定外に嬉しい。
「こうやって、」僕は砂山を両手で少し崩した。
「山から砂を交互に取っていって、棒を倒した人の負けってのがルール」
「こう?」那由は、僕と同じ位の砂を取った。
「そうそう、次は僕の番」
 こうして交互に砂を取っていき、那由の番で棒は倒れた。
「ハイ、那由の負け」
 那由は砂を手に取り、握ってみたりしている。
「ふむ、だいたい分かった。もう一回やろう!」
「リベンジって訳? 別に良いけど」
 勝った僕は、完全に気を良くしていた。しかし那由は、そんな僕を意に介さない風に、こう言った。
「どうせなら、何か賭けようか。『負けた方は勝った方の言うことを何でも聞く』なんてどう?」
「王様ゲームか。よし、のった!」
「『おうさまゲーム』? 何それ?」
「……えーと、僕もよく知らない」
 適当にごまかし、僕は新たな山を作り始めた。そして頭の中で、作戦を立てた。
 まず、波打ち際の近くに山を作る。そして先攻は那由に譲りつつ、僕は陸地側に陣取る。波の影響を受けないように、僕は波が引いたときに砂をすくう。当然、那由の手番は波が打ち寄せるタイミングになるから、不安定になるはずだ。よし、この手でいこう。
 考え事をしていたのと、那由も手伝ってくれたのとで、さっきの山よりだいぶ大きい物ができた。那由は表面をきゅっきゅっと両手で押さえてから、嬉しそうに棒を山のてっぺんに突き刺した。
「先攻、どうする?」
「さっきは僕からだったし、那由からで良いよ」
 僕がそう言うと、那由はうなずいた。よし、計画通り。後は、さっき立てた勝利の方程式に従ってゲームを進めるだけだ……と内心喜んでいたら、
「じゃあ、私はこんだけ」と、那由は両手で大きく、がばあっ! と砂を自分に引き寄せた。しかも海側の部分を根こそぎだ。
「まずは、状況をいくらか簡単にしとかなくちゃね」
 僕にはまったく理解できない戦法である。しかし、これでかなりこっちが有利になったと心の中でほくそ笑む。そして、海とは反対側のたっぷり残っている砂を少しだけ削りとり、「はい、次どうぞ」と那由にバトンタッチした。が、那由が二手目に取った砂は、意外にも少なめだった。
 ……そして、数分後。僕らの間には、少量の砂でようやく支えられているだけの棒が残った。
「はい、晴ちゃんの番だよ」
那由はそう言うが、もう、どうやってもこれ以上砂を取れそうにない。
「この感じの砂ならどれぐらい残せば棒を支えてくれそうか、って見当をつけてさ、その残りを二人の一手分ずつ等分して、晴ちゃんを見ながら加減すれば勝てる、とふんだんだけど……思った以上にうまくいったね!」
 那由はニコニコしている。
「どう? 降参?」
 客観的に見れば、確かに僕の負けは確定的だろう。しかし、それを黙って受け入れることはできない。
 決死の覚悟で、僕は最後の賭けに出た。ほんのひとつまみでも良いから砂を取れば、那由に順番を回せるのだ。
 しかし僕の指が触れた瞬間、棒はぐらりと揺れた。
「やばい!」僕は心の中で叫んだ。
 その瞬間、大きな波が来た。倒れる寸前だった棒をあっという間に押し流し、ついでに僕たちのズボンもびしょびしょにして、波は去っていった。
「…………」
「…………」
 思わず、二人で見つめ合う。
「タオル、持ってきてるから」
「さっすが晴ちゃん」

 僕らはカバンと靴を拾い、浜辺の奥の、コンクリート打ちされた坂道に座り込んだ。漁協の人の持ち物なのだろう、大きいボート幸い、快晴の太陽に照らされたコンクリートはポカポカと暖まっていて、しばらく座っていればズボンは乾きそうだ。
「あったかいねー」
「はい、那由」
僕はタオルを那由に渡した。
「先にいいの?ありがとう」
 僕らは交代に、タオルでズボンと砂だらけの足を拭いた。大きめのスポーツタオルを持ってきて良かった。
「ちょっと早いけど、傷むとまずいからお昼にしようか」
「賛成!」
那由はコクコクとうなずいた。僕はバッグから、先ほど直売所で買ったおにぎり弁当を取り出した。

「いっただきまーす!」
 那由は拝むように手を合わせて、膝上に置いた弁当に頭を下げた。実に嬉しそうだ。僕もそれに習った。
 おにぎりの中身は、昆布の佃煮だった。甘辛い味とプチプチとした歯ごたえに食欲が進む。ふわりとした衣の、大きめの唐揚げは酒とショウガ醤油が染みて、噛みしめるとじんわりと鶏肉の旨味が出てくる。卵焼きは柔らかな甘さで、割り箸の先で押すとしみ出てくるほど、たっぷりと出汁を含んでいた。酸っぱい桜漬けは、見た目にも良いアクセントになっている。
「これ、当たりだったねー」
 那由がニコニコとおにぎりをかじりながら言った。僕も同意見だ。
「定番のど真ん中なんだけど、このぶれてない感じが良いな」
「何かね、お母さんが作ってくれた遠足のお弁当を思い出すよ」
そう言って那由は割り箸で唐揚げをつまみ上げ、頬張った。
 那由が先月まで通っていた中学は全寮制だった。きっと、その思い出は小学校の時のものなのだろう。
 中学一年生で家から離れ、今は故郷の山からも離れてこの街にいる。前者は学区の問題だし、後者は僕の都合で、決して那由自身から望んだ事ではないはずなのだが。
 それでも、那由はこの街に来ることを選んでくれた。……例え、『断るって選択肢があったこと』に気がつかなかっただけかもしれなくても。
 僕は口に残った桜漬けの酸味を、水筒のほうじ茶で流し込んだ。

 弁当を食べ終わっても、那由はコンクリートに座り込んだまま、じっと海を見ていた。僕は本当のところ、そろそろ動きたかったのだが、言い出すことができなかった。
 遠くの砂浜に、釣りをしている人が見えた。一定のペースで、仕掛けを沖に向かって飛ばし、また巻き取ることを繰り返している。 サーファーの人たちが数人、波に浮き沈みしている。寒くないのだろうか。
 はるか沖には、貨物船だろうか、大きな船がゆっくりと西から東に移動していく。
 横目で那由を見てみる。那由は身動きひとつせず、海を見ている。何を考えているのかは、わからない。

 少し日が傾きかけたころ、那由が何の前触れもなく、
「晴ちゃん、帰ろ」と立ち上がった。
「あ、うん、」
 僕も立ち上がる。服はすっかり乾いていたが、少し寒気がした。
「そう言えば、さっきの棒倒しの『何でも言うことを聞く』っていう約束、まだ内容を決めてなかったね。何にしようかなぁ」
「何でだよ、まだ倒れてなかったろ?」
 無駄とは分かっているが、一応言い張ってみた。当然、那由は反論してくるだろう。そうしたら、次はなんて返そうか。
 ところが、当の那由は立ち上がったまま、直立不動になっている。
「どうしたの」
 心配になって僕は尋ねた。那由は無言のまま、おそるおそると言った感じにズボンの後ろポケットへ手を突っ込んだ。そして前ポケット、パーカーのポケットにとあちこち手を移した後、顔色を変えてリュックの中をかき回し始めた。
「ない」
「何が」
「ない、やっぱりない!」
 突然、那由は砂浜に向かって走り出した。……と思ったら、また砂に足を取られて転んだ。おかげで、僕の足でも那由に追いつくことができたが。
「どうしたんだよ」
 起き上がった那由に、もう一度聞いてみた。
「どうしよ、どうしよ、どうしたら良いの晴ちゃん!」
 那由は僕のシャツの襟首をつかみ、ぐいぐいと揺さぶった。
「やめてくれ、ボタンが取れるよ」
 完全にパニックになっている。一瞬迷ったが、僕は那由の両肩をぎゅっとつかんで話しかけた。
「どうしたの、落ち着いて」
 那由は驚いたように僕の目を見つめ、そしてため息と共に肩を落としてうなだれた。
「自転車の鍵が、ないの」
 那由は暗い声でつぶやいた。
「どうしよう、こんな広い砂浜じゃ、探せない! 転んだ時に落としたのかな? それとも、さっきの砂山に埋もれちゃった? 波に飲まれちゃったかも知れないし……」
 また、パニックが始まりそうだ。
「大丈夫、見つかるって」
 僕は、あえて気楽に言った。実際、かなりの大ごとだが、ここで二人して慌てたら、絶対ろくな事にならない。
「とりあえず、荷物の中をもう一度探してみようよ。砂浜に探しに行くのは、最後の手段だ」
「でも、もし見つからなかったら……」
「その時は、二人乗りで帰るとか、どうにかするさ。自転車は、改めて母さんと取りに来ることにして」
「何でそんなに冷静なの? こんな時に落ち着いてるなんて、晴ちゃんらしくないよ!」
 那由が絶叫する。冷静だと僕らしくないっていうのはどういう意味だ。
「……僕に言わせれば、朝の自信満々な那由は何処に行ったのって感じだよ。ところで、リュックを開けてみて良いかな?」
「もちろん良いけど」
 那由といえども女の子の荷物の中身を探るのは気が引けたが、今回は緊急事態だ。コンクリートの坂道に戻り、自分のバッグからレジャーシートを取り出して、そこにリュックの中の物を全部出してみた。
 水筒、財布、携帯(今時ガラケーだ)、ハンカチ、ティッシュ、文庫本、ボールペン、メモ帳、あめ玉、双眼鏡……
「何で、双眼鏡なんか持ち歩いてるの?」
「いや、双眼鏡って、時々急に必要になるでしょ」
 そんなもんだろうか。
 出した物を調べてみたが、ハンカチやティッシュの間に鍵が入り込んでいるという事もなさそうだ。
 那由は、僕が一つ一つの物を点検しているのを、じーっと見つめている。それは良いとして、どんどん顔が近づいてくるのは……。
「えっと、手元が見えづらいから、もう少し離れてくれる?」
「あ、そうか」
 那由はまた座り直した。
 空になったリュックの中にも、猫柄に合わせて魚型のボタンで外蓋を停めたポケットにも、鍵はなかった。
「やっぱり、ないよね……」
 那由がますます落ち込む。
 僕も本当は、絶望しかけている。しかし、落ち込む那由の前でそんな姿は見せられない。
『落ち着け、落ち着け、思い出してみろ……』内心でそんな言葉をつぶやきながら、ここに着いた時のことを改めて振り返ってみる。
 自転車を停めた時には、当然鍵はあったはずだ。だから、問題はその後。早く海に入りたいと僕を急かしまくった那由が手に持っていたのは、自分の猫柄リュックと、『そんな重たいの背負ってるからだね!』と取り上げた、僕のメッセンジャーバッグ。
「まさか?」
 レジャーシートの横に置いてあった僕のバッグを引き寄せた。べりべりと面ファスナー式の外蓋を開けると、本体の正面に小さなポケットが付いている。
 そこを擦るようにさわってみると、本来取りつけられているキーリングの他に、もうひとつ堅い手ざわりがあった。
 あわててポケットを開けてみたが、何も入ってはいなかった。しかし、さわってみれば、感触はある。
「どういう事だろ……あ、そっか、なあんだ」
 正面ポケットの横から手を入れてみた。すると案の定、指先にぎざぎざとした物が触った。間違いない。
「ほら、見つけた」
 僕は、ポケットから取り出した鍵を那由に手渡した。
 那由はびっくりしたような、きょとんとしたような顔をしていたが、すぐに目が潤みだした。そして半泣きのまま笑顔になり、
「ありがとう、晴ちゃん」
と、いつになく小さな声でつぶやいた。 

しかし、大きな疑問が残る。
(なんで那由は、僕のバッグに、鍵を入れたんだ?)
「……思い出した!」
 そして那由の口から、衝撃の事実が語られ出した。
「鍵をかけてね、しまわなくちゃいけないんだけど、いつもみたいにズボンのポケットに入れるのは砂浜に落としそうだと、ちらっと思ったんだっけ。でも、リュックの開け閉めはひもやボタンで面倒くさいし。でも、こっちのバッグなら蓋の横から入れられるでしょ?だから……」
 僕のバッグには、蓋を開けなくても、その横から出し入れができる隠しポケットがある。万が一ファスナーを閉め忘れたら入れた物が落っこちそうで、僕は使ったことがなかったが。
「晴ちゃんに預けておけば、安心だと思ったし。ね、ほら、安心だった」
 そう言って那由は、緊張が解けたのか、盛大にため息をついてへたり込んだ。
 何が衝撃って、それだけの重大事をまるっと忘れてしまえる、という事だ。夢中になると他の物が見えなくなるのが那由の癖だが、そんなに海に夢中だったのだと思えば、微笑ましくない事もないかも……? いやしかし。
「……さっきの賭けだけど、この鍵に合うキーホルダーか何か、プレゼントしようか?」
 僕が言うと、那由は首を振った。
「決めたよ」
「何に?」
「これしかない、晴ちゃんにしかできない」
「だから、何のこと?」話が全く見えない。
「探すの手伝って」
「はい?」
「私って、なくしもの多いでしょ。一日に何回も探し物するなんてしょっちゅう。たいていはボールペン置き忘れたとか、教科書をなくしたとかなんだけど」
「なるほど」確かに那由は物の扱いが乱雑だし、あまり片付けも得意ではなさそうだ。
「でも晴ちゃんはこうやって、ちゃんと見つけてくれるから。だから、これからも、なくし物を一緒に見つけて」
「どんな時でもどんなものでも、って事?」
「そうだよ? 約束だからね!」
 そう言って那由は、いつもの様にニッコリと笑った。

 帰りの登り坂については、多くを語りたくない。ただ、汗だくの僕に対し、那由は相変わらず平気な顔だった、とだけ言っておこう。
 少し遠回りして、いつものスーパーに寄った。海を見た那由が、「お魚の天ぷらが食べたい!」と言いだしたからだ。
「刺身じゃなくて、天ぷらなんだね」
 僕が聞くと、那由は少し恥ずかしそうにした。
「生のお魚ちょっと苦手なんだ。でも、お魚は大好きなんだよ」
「そうなんだ」
 僕らは駐輪場に自転車を停めた。
「今度はちゃんと意識して……私は、自転車の鍵をここに入れました、と」
 那由は、ズボンの後ろポケットに鍵を入れ、その上からポン、と叩いた。
「あ、これこれ、このまえ、日記に書いたハナミズキ」
 そう言って那由は、スーパーの前の街路樹を指さした。那由の話は、時々ぽんぽんと話題が飛ぶ。
「へえ」
 せっかく教えてもらってなんなのだが、那由のお気に入りだというそれは、僕には枝が細いばかりの何の変哲もない木に見えた。

 家に帰って、自転車をガレージにしまうと、
「さあて、もう一仕事!」と、那由は棚からぼろ布を手に取った。
「どうしたの?」
「今日一日頑張ってくれたビアンキくん、キレイにしとかなくちゃと思って」
 そう言いながら那由はぼろ布で、ビアンキの車体を一心不乱に拭き始める。フレームのつなぎ目や、車軸、スポークの一本一本まで。正直「面倒くさいなあ」と思っていると、那由はこちらを振り向き、こう言った。
「晴ちゃん、私がやっておくよ。その代わり天ぷらの準備よろしく」
 その言葉を幸い、僕は、「分かった、よろしく」と、食材と荷物を持って先に家に入ることにした。
 玄関から入ろうとして気がついた。潮風と汗で、体がドロドロだ。慌てて玄関先で靴と服の砂を払い、食材だけ冷蔵庫にしまってから、風呂に直行することにした。
 着ていた服はいつもの脱衣かごではなく洗濯機に直接放り込んで、那由のために湯船にお湯をはりながら自分はシャワーを浴びる。これから料理だから、爪の間は特に念入りに洗っておく。少しほてった体を冷ますため、Tシャツにチノパンという軽装にしてキッチンに戻った。
 ちゃんと吸水させたいから、まずは米の準備だ。優しくなでるように研いで、炊飯器に仕掛ける。
 スーパーで買ったメゴチとシロギスを処理して、バットに並べる。ネギは小口切り、エノキ茸は石づきを切ってから半分に切ってほぐし、大葉は手でちぎって、殻をむき酒でさっと洗った芝エビと一緒にボウルに入れていく。直売所で買ったペコロスは、思い切って丸揚げにしてみよう。根と頭を切り落とし、皮をむいて爪楊枝を刺しておく。あとは、家にあったサツマイモと人参、ピーマンといった所か。
 付け合わせのサラダのために、スナップエンドウは塩ゆで。ラディッシュは薄くスライス。プチトマトは、半分に切ってオリーブオイルと酢と胡椒であえておく。
 正直、自転車の掃除より、こちらの方が断然楽しい。そんな自分を再発見した。

 下ごしらえが一段落した所で、キッチンに那由が顔を出した。
「天ぷら、天ぷら、おっさかなの天ぷらっと。何か手伝うことある?」
 しかしその手はチェーンの油で真っ黒、足は砂だらけの靴下をはいたまま、というワイルド極まりない姿だ。
「とりあえず、お風呂に入っておいでよ。ためておいたから。」
 僕がそう言うと、那由はキョトンとして、
「何で? 私は寝る前に入る派なんだけど」と首をかしげた。
「潮と、自転車の整備で汚れてるからだよ。僕は、もうシャワー浴びたから」
「そっか」
「入り終わったら、風呂の湯を抜いておいて」
「何で?」
「潮で汚れてるから」
「そっか、そこまで気が回らなかった。ついでに洗濯もしとこうかな」
 そう言って、那由は風呂場に向かった。よく見ると、今まで那由が立っていた場所に、細かい砂がパラパラと落ちている。……明日は玄関マットから廊下まで、念入りに掃除しなくては。

 煮切ったみりんと醤油に鰹だしを加えて天つゆを作り、あとはおろし生姜の準備だけしておけば、当座はすることがない。キッチンの椅子に座って、少し休憩することにした。
 何か、めちゃくちゃ疲れた気がする。

 そして一時間後、那由が風呂から上がってきた。その顔を見て、炊飯器のスイッチを入れる。
「いやあ、たまには日が高いうちからのお風呂もいいね! 何か、温泉みたいで。ビールって訳にもいかないから、プレーンな炭酸水を……って、晴ちゃんも飲む?」
 かなりハイになっている那由とは対照的に、何故かどうやっても僕は気合いが入らない。
「いや、僕はいいや」
「天ぷらと炭酸水って、食い合わせ悪かったっけ?」
「うーん……大丈夫だと思うけど。確か天ぷらと食い合わせが悪いのは、スイカじゃなかった? まあ、迷信だとは思うけど」
「そっか、なら大丈夫だね」
 那由は冷蔵庫から炭酸水のボトルを出し、キャップをひねった。
「お魚の天ぷらを食べ過ぎて亡くなったの、誰だっけ」
「徳川家康だよ、魚はタイ」
「さっすが、物知り晴ちゃん」
 僕は気力を振り絞り、天ぷらの衣の準備を始めた。

「いっただっきまーす!」
 那由の箸は、いつものように動き始めると止まらない。
「このサラダ、可愛いねえー! この小さいタマネギ、ペコロスっていうの? 甘くておいしい!」
 喜んでもらえて何よりだ。
 みるみるうちに皿に盛った天ぷらが消えていく。例によって仕事で遅くなる母さんの分は、別に取ってあるけど。
「そんなに食べて大丈夫か? 油物だから、あとで気持ち悪くなるぞ」
「晴ちゃんこそ、どうしたの。お腹こわした?」
 那由の言うとおり、僕はどうしても食が進まず、かき揚げを一つとシロギス、メゴチを一尾ずつつまんだだけで、もう入らない。ご飯も半分残してしまった。
「残すなら、頂戴」
 那由は、その僕が残したご飯まで、かき揚げを一つぽんとのっけてお茶漬けにして食べてしまった。

 洗い物は、一緒にやることにした。今日は油物なのに、那由の皿の洗い方は丁寧とはとても言えないからだ。
「……だからさ、油で汚れた皿を重ねると、裏の糸じりまでぬるぬるになっちゃうだろ?」
「あー、言われてみれば、そうかも。ところで糸じりって何?」
 不可解なことだが、自転車をあれだけ丁寧に整備できる那由が、食器に関してはガラスのコップも天ぷらをのせたバットもすべて一緒に洗い桶に放り込んでしまう。
 シンクに並んで立って、僕がスポンジで洗い、那由がお湯でゆすいでいく。
「ところでさ、晴ちゃん、一つ聞いて良い?」
「何?」
「何で、お昼くらいから晴ちゃん、晴ちゃんじゃないの?」
「新しい薬が、よく効いているんだよ」
「そうなんだ、良かったね」
 『新しい薬』って、二週間前に家に来た誰かさんのことだよ……なんて、さすがに言えない。
 あまりにも疲れていたので、母さんの帰宅を待たずに、自分の部屋に引っ込んだ。

 日記は一行だけ。

四月十一日(土)
 那由、何であんなに長い時間、海を見てたの?

(続く)


次の話はこちらです。


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