見出し画像

手をつなぐ二人の距離は 第12話

第1話はこちらです↓


12

 ひらひら、ふわふわ……
 その光には見覚えがあるような、ないような。そんな気がして、夢から覚めた。

 永野さんにカーディガンを返した次の日の朝。いつもなら部屋に飛び込んでくる那由が、来なかった。
 昨日のことで、また落ち込んでいるのだろう。「誰に何を言われようと平気!っくらいのドンとした気持ちを持つべきだ」、と日記に書いたのは、那由なのに。
 とはいえ、今日は月曜日だ。この前のように、引きこもる訳にはいかない。

 着替えて那由の部屋の前に立ち、ノックをしてみるが、返事がない。
 このままだと、遅刻してしまうかもしれない。一瞬考えて、僕はドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。悪いな、ルール違反だな、とは思ったが、少し開けた扉から手を入れ、部屋の電気をつけた。
 さすがの那由も、明るくなれば反応してくれるだろう。しかし、どれだけ待っても何の音沙汰もない。僕はついにしびれを切らし、
「ごめん、入るよ」と、部屋の扉を開けた。
 女の子の部屋とは思えない、余分なものが一切ないその部屋に、那由の姿はなかった。ベッドはきちんとメイクされている。まるで、誰も使っていなかったみたいに。

 那由が消えてしまった。
 母さんに知らせ、何か置書きはないかと二人で家の中を探し回ったが、メモ一つも残されていなかった。近所の公園にもいない。那由のガラケーに電話しても通じず、「電源が切られているか、電波が届かない場所に……」と、自動音声が流れるばかりだ。
 僕と揃いのビアンキは、ガレージに残されたままだ。なくなっているものといえば、ボストンバッグと着替えと携帯、そして那由の番のままの日記帳だった。この家に来たときに抱えていた、あのボストンバッグがないことに気づき、僕は胸が冷たくなった。
 ボストンバッグを持っていったなら、近所ではないに違いない。でもどこへ。自転車ではないのなら、朝一番で豊橋鉄道に乗ったのか……?
 僕は深呼吸して、那由の行きそうなところを必死で考えた。
 那由がいなくなった原因は、昨日、永野さんにカーディガンを返しに行った時の失敗だろう。あれだけ準備して、あんな風に失敗すれば、ガッカリもするよな。それにしたって、家を飛び出してしまうなんて。
 ショックで動揺しているだろう那由が、落ち着いて「平気な気持ち」を取り戻せる、電車で行く場所と言えば、どこだ。
 パニックになりそうな自分をなんとか抑えて、僕はそんな場所の心当たりを一つだけ思い出した。
 那由の実家に電話をかけようとする母さんを、
「多分、那由は家には帰ってない。おじさんとおばさんを心配させるだけだ」と、止める。
「証拠はないけど、きっと那由は、白神の、おじいさんとおばあさんのとこだと思う。もしそこにいなかったら、すぐ母さんに連絡するから」

 豊橋駅のロータリーまで車で送ってくれた母さんは、財布から、今持っている現金全部、二万円を渡してくれた。
 那由がいなかったらすぐ連絡することを僕に念押しして、那由が自分で帰ってきたときのために家で待機すると言い残し、母さんは帰って行った。
 切符売り場のある朝の改札口は、通勤や通学の人がたくさん行き来していた。そこに私服で入っていくのは人の目が辛過ぎて、僕はICカードで改札を走り抜けた。
 飯田線に向かう通路を曲がると、僕をとがめるように、
「交通系ICカードは、豊川駅より先ではご利用になれません あらかじめきっぷをお買い求めください」と、目の前の壁に特大の文字が書かれていた。
 流石にドキッとしたが、仕方がない。あとで謝ろう。壁の表示に責められているようなプレッシャーを感じながら、階段を駆け下りる。
 下りたホームのキオスクで、適当にスポーツドリンクやシリアルバー、水、おにぎりやお茶を買った。もちろん食欲なんかないけど、少しでも何かお腹に入れておかないと、あの山道を歩くのは辛いだろう。

 八時十一分。天竜峡行きの普通電車。遠足をサボタージュした時と同じ電車だ。違いといえば、向かいの席に那由がいないこと。
 電車は定刻通り出発し、とりあえず僕は、さっき買ったおにぎりを二つ、お茶で流し込んだ。
 白神駅までは二時間半近くかかる。万一居眠りして寝過ごしたら大変なことになるので、念のためスマホのアラームをかけておく。とはいえ、気が高ぶって全く眠れそうにない。
 焦る僕の気持ちを逆なでするように、のろのろとしたスピードで電車は進んでいく。
 普通電車だから、当然すべての駅に止まる。あまり変化のない田園風景のあとに駅に到着、乗客が乗り降りし、発車。その無数の繰り返し。飯田線という名の無限ループにはまり込んだのではないかという妄想まで湧き出てきた。
 もう三十分くらいたったかと時計を見ても、きまって五分くらいしか進んでいない。もたもたと乗り降りする他の乗客が、まるでわざと出発を遅らせているように思えて怒鳴りつけたくなる。ふと思い出して脈を測ると、かなり早い。何ヶ月かぶりに薬を飲み忘れてしまったことに、今ごろになって気がついた。
 本長篠を過ぎたあたりから、電車に乗っているのがとにかく苦痛になってきた。スマホで音楽を聴こうにも、イヤホンを持ってこなかった。立ったり座ったり、小声で歌を歌ってみたり、何度もトイレに行ってみたり。端から見ればかなり奇行だろうが、電車を降りる訳にはいかないので必死に耐える。この電車を降りてしまうと、次の電車が来るまで何時間かかるかわからない。今、那由と僕をつなぐのは、この一筋の線路だけなのだ。
 那由に会ったら、なんて話しかけようか。しかし、どれだけ考えても、那由に会った時に言うべき最初の言葉は思いつかなかった。まったく、那由のやつ。

 三時間の苦闘の後、ようやく電車は白神駅に着いた。
 降りたのは、僕一人だけ。もう一度、那由になんて声をかけようか考えたが、結局思いつかないまま僕は歩き始めた。
 杉に囲まれた山道を歩きながら、また不安が襲いかかってきた。本当に、こっちの道でよかっただろうか。一ヶ月前に来たときは那由とおじいさんが先導してくれて、ぼくは後ろをついていっただけだったから。一本道なのにも関わらず、よくわからなくなってきた。
 もともと早くなっていた脈のダメージと慣れない道に翻弄され、早々に息切れしてしまった。手に提げていたビニール袋から、お茶の残りを取り出して一口飲む。電車の中で全部飲まなくてよかった。この山道では、母さんが渡してくれた現金は何の役にも立たない。
 自分でもじれったいほど、のろのろとしか進めない。歩くにつれてずり落ちてくる眼鏡がうっとうしい。以前来た時も相当くたびれたが、今の気分に比べればハイキング気分だった。
 体力も限界が来て、足が動かなくなってきた。腰を下ろして休もうかと思ったその時、視界が開けて、あの吊り橋が姿を現した。こっちの道で合っていたのだ。
 あの時はあんなに恐ろしかったのに、僕は吊り橋と、輝く天竜川に手を合わせたくなった。ここまで来れば、あと少しだ。走り出したつもりだったが、体はまったく僕の気持ちに答えてくれない。それでも、僕は出せるだけの力で橋を渡っていった。
 
 廃屋だらけの集落を通り抜け、おじいさんとおばあさんの住む家にたどり着いたときは、僕はもうふらふらだった。
 玄関の引き戸を力任せにたたき、
「明石の晴宏です! おじいさん! おじいさん!」
と、家の中に声をかけた。
 できる限りの大声を出したつもりだったが、息も切れ、かすれ声しか出てこなかった。
 しばらくして人の気配がして、戸が開き、おじいさんが現れた。
「那由は、来ていませんか?」
 僕が訪ねると、おじいさんは、
「……来とらんぞ」と答えた。その一瞬の沈黙に、僕は、思った通り那由がここに来ていることを確信した。そして、那由は僕に会いたがっていないことも。
「そうですか」
 ここで何を言っても、おじいさんは、那由はいないとしか答えないだろう。それくらいは僕でもわかった。
「おじいさん、水を一杯ください」
 おじいさんは何も言わず家の奥へ入っていった。僕は玄関前に立った。那由へのアピールのつもりだった。おじいさんがコップにくんでくれた水を飲み干すと、少しだけ元気が戻ってきた。水のお礼を言って、僕は奥まで聞こえるように声を張った。
「那由が、僕の家からいなくなりました。今朝のことです。僕の勘ですが、那由は必ずここへ来ると思います。だから僕は、駅に戻って那由を待ちます」
「駅で待つって、いつまで待つつもりだ」
「那由に会えるまでです」
  おじいさんは何か言いたそうだったが、僕はあえて無視した。

 今さっき来た山道を、引き返す。ひょっとして那由が追いかけてきてくれるのじゃないかと期待して、何度も振り返りながら、できるだけゆっくり歩いた。しかし、那由は現れてくれないまま、駅が見えるところまで来てしまった。
 駅に着き、少し見晴らしのいい場所でうろうろすると、かろうじて電波を拾うことができた。しかし不安定で、いつ切れるかわからない感じだ。通話は諦めて、母さんにメッセージを送ることにした。
『今、白神駅。電波が不安定だから、通話は難しそう』続けて、『おじいさんの家に行ってきた。おじいさんは那由は来ていないと言っていたけど、明らかに嘘だった。なんとか、那由を連れ帰るから、あと一日だけ待ってて』
 既読がつき、しばらくして返信が来た。
『今日、明日は二人とも風邪で休むと、学校には連絡しました。晴宏には晴宏の考えがあるようなので、母さんはそれを信じます。でも、明日の夕方までには、那由ちゃんと一緒でなくても必ず帰ってくること。帰ってこなかったら那由ちゃんの家と、警察に電話します』
 そして続けて、
『待つと決めたなら待ちなさい。相手を、自分の思い通りに動かそうとしてはだめですよ』と、もう一つメッセージが届いた。
『OK』とスタンプを送っておく。

 連絡を終えてしまえば、後は待つより仕方がない。静寂がかえって気持ちを焦らせる。ここなら誰もいないから、音を鳴らしてもいいだろう。
 僕はスマホのプレイヤーを立ち上げて、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲、第四番を選んでみた。ベートーヴェンが作曲した数多くのなかでも難解といわれる曲で、スマホに入れてはいたものの未だ聴いていなかったのだ。時間ばかり持てあましている今の状況には、もってこいだろう。
 もの悲しい、でも優しい旋律が流れ始める。第一楽章のゆっくりとした、うねるような響きに木の葉を揺らす風の音が重なって、スマホのスピーカーの音ではあっても少しずつ心が落ち着いてきた。
 第二楽章に移り、弾むようなリズムに、僕は海へのサイクリングを思い出した。良い天気で、空が広かったっけ。あの日はあんなに楽しかったのにな。そう言えば、那由が日記に書いてた「自転車で川沿いに行けるとこまで行ってみるツアー」、まだ行けていなかったっけ。那由が帰ってきたら、今週末には僕から提案してみようか。那由、帰ってきてくれないかな。
 あっという間の第三楽章が終わり、可愛らしく明るい表現が続く第四楽章、小刻みに刻まれる第五楽章にも、あの、くるくるとよく動く丸い瞳を思い出す。
 それなのに第六楽章から、一転して重苦しい、暗い展開に変わってしまった。書き置きも残さず消えてしまった那由を思わせるようで耐えきれなくなり、僕は第七楽章を待たずにプレイヤーを閉じた。

 待合室のベンチで、昼食代わりのシリアルバーをかじりながら水を飲んでいると、次の電車が来る時間になった。到着の間は、ホームから出て木陰に隠れていた方がいいだろう。面倒だが、補導されては元も子もない。
 隠れながら見ていると、男がひとり降りてきた。大学生か、社会人か、よくわからない。大きなカメラで熱心に写真を撮ったり、スマホに書き込みをしていたりするところを見ると、鉄道ファンと考えて間違いないだろう。男は、三十分ほど駅周辺をうろうろしたあと、待合室の駅ノートに何やら書くと豊橋行きの電車に乗って帰って行った。
 電車が去った後、手持ち無沙汰な僕は、その駅ノートをパラパラめくってみた。
 最後のページには、さっきの男のものであろう『秘境駅に来た達成感』でいっぱいの文章が書かれている。
 那由が嫌いそうなタイプだ。以前、二人でこのノートを見たときのことを思い出して笑っていると、その一つ前に、鉛筆でぐしゃぐしゃと黒く塗りつぶされた部分があるのに気づいた。
 よく見てみると、塗りつぶされた文章が読める。
「 六月十五日(月) どうしたらいいかわからない。頭では戻ってはいけないとわかっているのに、心は戻りたい。そんな自分が大嫌い」
 それは間違いなく、見慣れた那由の文字だった。

 どういう意味だ。僕は混乱したまま、とりあえず母さんに連絡した。
『駅ノートに今日の日付で那由のメモがあった。ここにいるのは間違いない』
 速攻で既読がついて、『少しだけ安心しました』と返ってきた。
 那由が、ここにいることはわかった。しかし、相変わらず姿は見せてくれない。
 なんで、那由は出てきてくれないんだろう。僕が迎えに来ているのに。

 いくつかの電車を見送り、夕暮れが近づいてきた。空は雲に覆われて重たげだ。ホームの明かりが自動で灯った。
 いつもなら、那由に勉強を教えてもらっているか、夕飯の支度をしている僕の後ろを那由がうろうろしている時間だ。でも今は、このベンチでじっと待つより仕方がない。食料も食べ尽くしてしまったので、夕食は抜きだ。そもそも、まるで食欲がない。
 じわじわと周囲の闇は深さを増していき、背後にそびえる巨大なコンクリート打ちの山の斜面も、圧迫感を増しているような気がする。那由が修学旅行に行っていた、あの地獄のような夜の方が、鍋に集中できた分、まだましのように思えた。じわじわと不安感が押し寄せてくる。

 岡谷に向かう最終電車が通り過ぎると、急に明かりが消えて真っ暗になった。いよいよ、本格的にここで夜明かしということになってしまった。
 初夏とはいえ山なので、どんどん気温が下がってきた。フェンスに囲まれただけの、吹きさらしのベンチではなおさらだ。
 その上、雨まで降り出した。幸い屋根はあるけれど、とにかく冷える。スマホの明かりを頼りに手探りでリュックを開けてみると、以前ここへ来たときに用意しておいた携帯用のダウンジャケットがそのまま入っていた。僕は幸運に感謝しつつダウンを着込んで、固いベンチに寝転がった。
 寝ながらスマホを出して、那由の携帯にメールを送信した。
『駅ノートを見たよ。那由、ちゃんとご飯食べてる? 今日の夕飯は何だった?』
 しかし、どれだけ待っても返信はなかった。
 送ってはみたものの、那由が読んでくれたのか、そもそも届いているのかもよくわからない。僕はスマホをダウンのポケットにしまい込んだ。

 目を閉じても開いても全く同じ闇の中で、雨の音だけが時間が止まっていないことを教えてくれる。
 日本一惨めな中学生になった気がする。こんな僕を見たら、飯山あたりは「お似合いだな!」と腹を抱えて笑うに違いない。そう思うと、とても情けなくなってきた。
「あんな暴力女を追いかけて、こんなところで震えてるなんてなあ」
「いいだろ、放っといてくれよ」
「部屋は全部片付いて、買ってもらった自転車も置いてあったんだろ? もう戻らないつもりだって決まってるし」
「何でそんなこと知ってるんだ!」
「みんな知ってるさ」見渡すと、クラスのみんなが冷ややかな目で僕を囲んでいる。
「お前が、苦労して入った名古屋の中学で落ちこぼれたことも、うじうじ不登校してたことも」そう言って飯山は、スマホを、僕に見せつけるように振った。
「な……」
 声が出ない。たまらず、僕は教室を飛び出した。
「いくら待ってても、あいつは来ねえよ。お前もわかっているんじゃないか?」
 走っても走っても、飯山の声が追いかけてくる。足が思うように動かない。
 逃げた先に、敦が永野さんと並んで立っていた。
「あら、明石君、いつも一緒の穂積さんはどうしたの?」
 さらさらの髪をなびかせ、永野さんが不思議そうな顔をする。
「当たり前のことって、当たり前じゃないのよ?」そう言って、永野さんは敦に顔を向けた。
「俺は佳音に、ちゃんと自分の気持ちを打ち明けた。お前はどうなんだ」
 敦が問いかけてきた。
「穂積さんは、お前のことを『自分を100パーセント理解してくれてるパートナー』だと思ってる。でも、実際の所、お前は穂積さんに合わせてるだけだ。それは、逆にも言える。お前は穂積さんに『自分を100パーセント分かって欲しい』と思っているけど、穂積さんはお前のことを分かっている訳じゃない」
 いつか聞いた言葉だ。
「嫌でも、受け入れるにしても、どっちにしても覚悟を決めろ」
 そして敦は、
「お前はこの先、どうなりたいんだ」
と言い残して、永野さんと一緒に歩いて行ってしまった。
 僕は……僕は、那由を迎えに行かなくちゃ。電車に乗って、山道を歩いて。
 山道の果て、たどり着いた家の戸を叩く。
「おじいさん、おじいさん! 那由は、ここにいるんですよね!」
 僕は、戸を開けて出てきたおじいさんに噛みつかんばかりに詰め寄った。なのに、おじいさんは何も言わない。僕をじっと見つめるだけだ。まるで、僕を叱るように、そして何かを問いかけるように。
 何か……?
 そうだ、僕は、昨日ハンバーガーショップで那由を怒鳴りつけてしまった。「何やってんだ!」と、いらだちのままに。思い返せば土曜の公会堂でも。自分自身にイライラしていただけなのに、那由にそのままイライラをぶつけた。気づかなかっただけで、他にも、もっと、もっと。
 なんてことだ。
 今の瞬間まで、僕は心のどこかで「傷心の那由をわざわざ迎えに来てやった」と思い込んでいた。でも違った。那由を追い出したのも、戻ってはいけないとまで追い込んでしまったのも、僕だったのだ。そう気づいて、愕然とした。
 僕の家に住むことを選んでくれた那由。戻れないようにしたのは、それに甘えた僕だ。
 「誰に何を言われようと平気!」なんて、とんでもない。僕だけは、それを言ってはいけなかった。どうしたらいいか分からなくなって、これ以上僕をいらだたせる存在にならないように、那由は僕の前から姿を消した。多分、そういうことだ。でも、そうじゃない。僕が望んでいることはそうじゃない。
 おじいさんには、那由の居場所を守るように頼まれたんだ。それなのに、僕は。
 僕は駄目だな。自分のことに手一杯になってしまって、大事なことをいっぱい忘れてしまう。いつだって、何を周りに言われたって、何をしでかしたって、那由はいつだって那由だ。そんなことすら忘れてしまっていた。
 おじいさんは戸を閉め、僕は、一人闇の中に取り残された。
 ひらひら、ふわふわ…… 闇の中、光る泡が、ゆらゆらときらめきながらのぼっていく。
 泡に囲まれて、小さな那由が膝を抱えてうずくまっている。
「いるところが、なくなっちゃったの」
 そう言って泣きべそをかいている。
「どこに行ってもだめだから、どこにいていいかわからないの」
 僕が手を伸ばすと、小さな那由の姿は薄くなって消えてしまった。
 なくしものは、僕が探すと約束したのに。
 一緒に帰って、ご飯を食べようよ、那由。
「そうでしょ、一緒に食べるご飯は美味しい」
 いつの間にか、テーブルの向こうで、髪を伸ばして少し大人になった那由が笑っている。
「今日の食事当番は那由だったよね」
「はい、そうです」
「今、食べている常夜鍋は誰が作ったのでしょう」
「晴ちゃんです」
「今日、僕は、連続五コマの授業をして、おまけに専任の不採用通知までいただいて、とっても精神状態が悪いんですけど」
「私も、翻訳の締め切りが迫っていて精神状態は良くないです。久々に知らない単語ばかり出てきて、思わず二、三行すっ飛ばそうかと思っちゃった。近頃はAI翻訳にも押されっぱなしだし」
「で、話を戻すと今日の当番は」
「私です。でもこの常夜鍋はとてもおいしいです」
「なんだか寒気がする」
「また?本当によくひくね、風邪」
「那由は風邪ひかないね」
「どうせ、ナントカは風邪ひかないって言うんでしょ、晴ちゃんの意地悪」
「あんまり食欲がないな」
「だめ。ほら、この鍋底に忍ばせたニンニク、晴ちゃんが食べなさい。ほうれん草も豚肉も。で、すぐ寝れば治る治る」
「ニンニクって、明日も一限から授業なんだけど」
「息が気になるなら、マスクしていけばいいじゃない。風邪なんだし」
「それもそうか。那由、頭いいね」
「やったあ、ほめられたあ」
「……僕、このまま非常勤講師を続けなくちゃいけないのかな」
「別にいいんじゃない、私は生活に何の不満もないけど」
「駆け落ち同然のアパート暮らしだぞ」
「住めば都っていうじゃない。どこに住むかじゃなくて、誰と住むかが問題でしょ」そう言って、食卓の向こうの那由は笑った。
 急に辺りが暗くなった。何も見えない。電気をつけようとして転げ落ち、肩をひどくぶつけた。
「――――っ!!!」
 痛みで声も出ないまま、ここが白神駅のベンチであることを思いだした。眠れない眠れないと思っていたまま、いつの間にか夢の中にいたようだ。
 ダウンジャケットの下は汗をかいているのに、震えるほどの寒気がする。どうやら夢の中だけじゃなく、現実に風邪を引いてしまったようだ。この感じでは熱もありそうだ。頭痛がして、雨に濡れたホームの床に転げ落ちたまま、立ち上がる気力も出ない。

 遠くで、泡の光が一つ、ひらひらと小さく揺れている。僕はまだ夢を見ているのだろうか。その光がだんだん大きくなって、近づいてくる。
「晴ちゃん!」
 ピシャピシャと濡れた足音が聞こえ、懐中電灯を手に持った那由が飛び込んできた。
「ごめんね! ごめんね! 大丈夫!?」
 そう言って僕の体を起こし、頭や背中をゴシゴシとなでてくれる。乱暴だが、温かい。本当に、本物の那由?
 頭がぼうっとしている。気づかないうちに、あれほどの暗闇は少しずつ薄まっていて、かろうじてホームの形や線路、山の影、そしておかっぱ頭が見えていた。
「ごめんね、ごめんね、無理させちゃって」
 那由の丸い眼から、ぽろぽろと涙がこぼれている。
「でも、私は帰っちゃいけなくて、勇気が出なくて、でもここまで探しに来てくれて、いつでも見つけてくれるんだと思ったらうれしくて、でも、ここに来ちゃいけないこともわかってるし、」なかなか止まらない。
「昨日の最終で帰っちゃったと思ったから、明るくなったから、様子を見に来たんだけど、」
 まだ十分暗いじゃないか。そういえば、那由は夜目が利いたっけ。那由の怒濤の勢いに思考が追いつかず、あらぬ事を思い出す。
「そしたら晴ちゃんが倒れてて、ごめんね、ごめんね……」
 そこからたっぷり十分間、那由はわんわんと泣き続けた。
 濡れた暗い山道を来てくれたのか。僕のために。謝るのは、自分の都合しか考えていなかった僕の方なのに。僕から先に謝らなくちゃいけなかったのに。こんなときですら那由は、僕の想定を飛び越えてくる。
「とりあえず、ベンチに座ろう」
 ようやく泣き止んだ那由に声をかけると、那由は僕の手を引いてくれた。
「すごい熱いじゃない!!」
「いや、大丈夫。熱には慣れているから、平気だよ」
 再び泣き出しそうな那由に、慌てて強がってみせた。
「私って、いつでもこうだなあ……。晴ちゃんに、迷惑かけてばかり」
 まだ薄暗い中、固いベンチに二人並んで座る。雨はほぼ止んでいたが、始発の電車はまだまだ来ない。謝罪の言葉をどうやって切り出そうか悩むうちに、また那由が口を開いた。
「晴ちゃんは怒ってるし、もう、私、邪魔したくはなくって……」
 やっぱり、僕の言葉を気にしていたのか。
「そんなこと、ないよ。僕こそひどいことを……」と言いかける言葉を聞かず、那由は続けた。
「晴ちゃん、永野さんのこと好きでしょ」
 なんだって!?!!?
 あまりに意外な言葉に、僕は殴られたような衝撃を感じた。なんと返せばいいのかわからず、思わず口ごもる。
「いくら鈍い私でも、あの日記を読めば、それくらいはわかるよ」
 そうだ、那由から日記帳が帰ってこなくなったのは、敦が永野さんを連れて遊びに来た日からだ。
 那由はうつむいたまま続けた。
「私は、ものすごく欲張りなんだ。いつだって晴ちゃんと話をしたいし、晴ちゃんのご飯が食べたいし、それで晴ちゃんにも楽しいと思ってて欲しい。でも、私は間違いばっかりするし、永野さんはきれいだし、世の中でどう振る舞ったらいいか知ってるひとだし、晴ちゃんが永野さんを好きになるのもわかるから。私はどこに行ってもだめなことばっかりしちゃうから、どこにいていいかわからなくなっちゃって……」
 そう言って那由はベンチで膝を抱えて、顔を伏せた。
 嘘だろ!? 確かに、永野さんは、とても気になる存在ではあるけれど。
 僕は、なんてバカなんだろう。何度も、何でも、わかったつもりで、肝心なことをわかっていなかった。余計なことを言ってしまって、大事なことを言ってない。那由に振り回されていると思ってばかりで、僕も、こんなにも那由を振り回しているじゃないか。
 悩んでいる暇はない。僕はありったけの勇気を振り絞って、那由の黒髪から飛び出している丸い耳に顔を近づけた。
「僕は、那由に言わなくちゃいけなかったことが、いっぱいあるんだ」
 那由は、じっと動かない。
「正直、永野さんは素敵な人だとは思ったよ」
 言葉を切って、息を整える。
「でもね、僕は、小さい頃に座敷童に出会って以来、その子のことがずっと好きなんだよ」
 那由が顔を上げ、首を回して放心したように僕を見つめる。互いの顔の距離は、十センチくらいだ。さっきまで涙でいっぱいだった瞳が、まん丸になって僕を見つめている。
「もう一回言って」
「……好きな子との距離は縮めたいし、好きな子の気持ちはわかりたい。でも、那由はがっかりするかもしれないけど、僕はそこまで鋭い人間じゃない。那由はいつも僕のことを『何でもよく知ってる』って言ってくれるけど、そんなに大した人間じゃないんだ」
 那由は、黙って聞いている。
「それでも、他の人より、誰よりも那由のことを知りたい。指でソーセージを作ることも知ってるし、ハナミズキの名前も知っている、そんな那由のことをもっと知りたいし、理解したいし、もっともっと見つけたい」
 周囲が明るくなっきて、なんだか景色がキラキラしている。ひらひら、ふわふわと光る泡が、ゆらゆらときらめきながらのぼっていく。
 泡に囲まれて、居場所を見失った小さな那由が、膝を抱えてうずくまっている。
「だから、僕の横にいてよ」
 僕は那由の手を取る。
「いいの?」
「うん、なくし物は一緒に見つけるって約束したろ」
 小さな那由が、僕の手をおずおずと握り返してきた。
「だから、一緒に見つけよう。なくしちゃってごめんね」
 僕の記憶は、そこで途切れている。

 次に気がつくと、僕は電車に乗っていた。天竜川が、車窓の外に光っている。
「あ、晴ちゃん、目が覚めた?」
 向かいの席に座った那由は、大きなおにぎりをほおばっている。横には、大きなボストンバッグ。
 那由に聞けば、おじいさんが、那由の荷物と一緒におにぎりを二つ持ってきてくれたらしい。そして、寝ている僕を担いで始発に乗せてくれたのだそうだ。
「はい、こっちが晴ちゃんの分」
 そう言って那由は、アルミホイルの包みを渡してきた。でかい。両手で持つほどの大きさだ。
 ホイルを剥がすと、真っ黒な海苔に包まれた丸いおにぎりが現れた。海苔の香りに誘われて一口かじると、刻んだ小梅と、シソや青菜のふりかけが混ぜ込んであった。
「おいしい……」
 滋味というのだろうか。素朴だけど、体に染み渡るような美味しさだった。
「食べれるなら良かった。寝たからちょっと回復したんだね」
 那由は安心したように微笑んだ。
 どうやらおじいさんは、母さんに連絡を入れてくれるとも言っていたらしい。
「晴ちゃんが熱を出してるから、豊橋駅に迎えに来てくれるように頼んでくれるって」
 結局、お世話になってばかりだ。
「おじいちゃん、すごいよね。私の帰りが遅いから、きっと晴ちゃんと帰るんだろうって。いろいろお見通しだもん」
「へえ」
 改めて、那由そっくりのおばあさんと一生を共にしてきた凄味を感じる。
 おじいさんはとても怒っていたに違いないけれど、一晩、駅で那由を待っていたことに免じて、僕はもう一度チャンスをもらった、ということなのだろう。
「おじいさんには、改めてお礼に行かないとな……」
「うん、私も携帯を忘れてきちゃったから、そのうち取りに行かないと」
 マジか。
 その時、僕のポケットから短くスマホの通知音が鳴った。敦からだった。
『風邪の具合はどうだ? 早く、コンクールの感想を聞かせてくれ。じっくりたっぷり。』
 そして『はりきって!』と書かれた派手なスタンプ一つ。 始業前に送ってくれたのだろうか。スタンプの意味はよくわからないが、どうやら気にしてくれているらしい。
 ありがたさを感じつつ、ひとこと『バッテリー切(ぎ)れ。』と書かれたスタンプを返しておく。

 おにぎりを食べ終わった那由が、リュックをごそごそし始めた。「あったあった、良かった」
 そう言って出してきたのは、色ペンでデコレーションされた、四つ葉の表紙のノート。
「……交換日記、持って行ってたんだね」
「うん、大事だもん」
「結局、日記を交換していても、お互い誤解ばかりだったし。あんまり役に立たなかったな」
「そんなことないよ!」那由は声を大きくした。
「那由、もう少し小さな声で」
 僕が思わず注意すると、那由は日記を胸に抱きしめた。
「だって、残るもん。晴ちゃんが私に贈った言葉、口に出したものは消えてしまうけど、ほんの一部だけでもこの中に残ってる」
 僕は、顔が赤くなるのを感じた。まだ、頭がクラクラする。
「春から、いつ何をしていたかとか、どんなことを考えていたとか、二人分の時間が、この中にはちゃんと残ってる。それってすごいことじゃない?」
「でもその中には、永野さんについて書いた僕の言葉も入っているよ。いいの?」
 僕が鈍かったせいで、那由を追い詰めてしまった。
「それも残しておこうよ。そのことも、私が書けなかった時間の空白も、積み重ねた毎日には違いないし」
 そう言って、那由はページを開いて日記を書き始めた。

六月十六日(火)
 迎えに来てくれて、ありがとう。
 私も晴ちゃんが好きだよ。

 メールもありがとう。
 昨日の夕ごはんはね、おじいちゃんが畑で育てた青菜の炒め物と、おからと、根曲がり竹とサバ缶の味噌汁でした。 おいしかったけど、やっぱり晴ちゃんのご飯が恋しくなって、泣いちゃったな。おじいちゃんに心配されたよ。
 熱が下がったら、コロッケ作って。お願い☆

 ……さっそくご飯のリクエストか。そうだね、熱々のコロッケ、いっぱい作ろう。
「どうせなら一緒に作ろうよ。コロッケの衣をつけるの、一人じゃ大変なんだ」
「そうなの!? 知らなかった。やりたいやりたい!」
「包丁の上手な使い方も教えるよ」
「よろしくお願いします、師匠!」
 きっと、並んで作ったら、もっと美味しくできるよ。
 しかし照れくさいな。たぶん一生の記念になるだろう那由の言葉。こそばゆくもあり、通常運転の那由が嬉しくもあり。
 僕がゆるむ頬を抑えられずにいると、那由は、僕の手から日記をひったくって書き足した。

P.S. やっぱりちゃんと残しておきたいから、あとで、もう一回「座敷童がずっと好きだった」って、書いておいてね!

そして僕に日記を渡し、ニヤニヤしている。
「……まあ、その件については、一回置いといて」
「えー!!」
 那由は、ぷっと頬を膨らませた。その顔がおかしくて思わず吹き出すと、那由も笑った。

 振り回されるのも、振り回すのも、互いにしっかりと手をつないでいるからだ。そう思えば、怖くはないね。

 電車は、僕たちの街に向かってゆっくり走り続けている。

(おわり)



これにて終了です。
お読みいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?