《等她》歌詞 解釈

 2020年6月17日にリリースされた、ReVdol!(リブドル)の新曲《等她》。日本でのタイトルは「HEROINE」です。

 中国語版を聴くと、繰り返される「等她(Děng tā)〜〜〜〜」が耳に残りますよね。この部分は当然聞き取れるのですが、他の部分の意味は……まったく分かりませんでした……(かなしい)。

 これ、どんな内容なんでしょうか。気になって1か月、どうしても知りたくなってしまいました。しかし調べても、詳しくまとまっているサイトを見つけられませんでした。

 歌姫たちには李清歌さんが講師として、歌詞の意味や内包された歴史、また中国の伝統的な民族楽器についての講座があったようです(詳しくは李清歌「歌姫訓練日記07」(2020/5/5公開)をご覧ください!:https://seika1222.fanbox.cc/posts/1009891)。

 残念ながら、李清歌さんの講座は歌姫にならないと受けられないようなので(?)、今回は自分で調べることにしました。以下ではその調査結果をここで報告しようと思います。


 ※追記:めちゃくちゃ長くなったので、手っ取り早く歌詞の雰囲気を掴みたい方は「意味だけ編」(https://note.com/cc_shiro/n/n655cc7c17471)をご覧ください。


はじめに

 さて、シャオメイコラム(https://www.revdol.com/column/2882/)によれば、今回の歌詞には「木蘭、樊梨花、穆桂英、梁紅玉、秦良玉、王昭君、この6名の中国古代女性英雄の物語」が入っているとのことでした。

 楽曲をプロデュースした音阙诗听(Interesting)の方も以下のように答えています。

 「戦場を駆け巡る」という普段と違った角度で女の子の英気をより直感的に表現したかったです。
 穆桂英、木蘭、樊梨花、梁紅玉、秦良玉、この5人は本当に長い歴史の流れの中に実在しているかどうかはともかく、彼女たちが成し遂げた功績は中国で知らない人がいないほど有名です。「家国の大義」を追求するため、美を求める権利を自ら諦めていました。でもだからこそ、一つ上の「美」を身につけることができました。(中略)

 もう一人、王昭君の物語を歌詞に入れた理由は、彼女なりに国の安定に貢献しましたが、何より中国四大美人の一人と言われています。あえてほかの女傑と一緒に並べて、「美」という共通性を表現したかったのです

 穆桂英、木蘭、樊梨花、梁紅玉、秦良玉については、日本ではあまり有名な人物ではありません。おそらくこの中で一番知られているのは「木蘭」でしょう(ディズニーによる『ムーラン』と言えばピンとくるでしょう)。あとはゲームのキャラクターとして僅かに登場するばかりです。みな、戦いで活躍した女性たちと言われています。

 古の時代に男性のように戦い活躍した女性のことを、中国語では「巾帼英雄(Jīnguó yīngxióng)」と言います。この「巾幗(きんかく)」、古代の女性が身に着けていた頭巾やひも状の髪飾りのことで、現在では「女傑」の意味で用いられる単語です。

 一方、王昭君は漢文や世界史の授業で名前を聞いた人もいるかもしれません。インタビュー中にあるように「中国四大美人」のひとりでもある女性です。彼女は武人ではなく、後宮に入っていた女性です。その悲劇的なエピソードは後述します。

アテンション!!(注意)

 以下は歌詞なので文法通りに意味をとれず、独自解釈になっている部分があります。現代中国語による歌詞を、むりやり文語文のように読み下しているところもあります。
 それから、私の中国語レベルは初級程度であることもお断りしておきます。中途半端に簡体字・繫体字・日本の漢字が混ざっているのもお許しください。


 それでは解釈に入ります。翻訳ではなく、解釈です。

イントロ

等她 浓墨重彩写她,眉眼如画 
Děng tā Nóngmòzhòngcǎi xiě tā, méiyǎn rú huà
等她 惊鸿一笔称她,清绝人家
Děng tā  Jīnghóng yī bǐ chēng tā, qīngjué rénjiā

彼女を待つ
濃墨・重彩で彼女を描いたように、その眉目は絵に描いたようである
彼女を待つ
美女を描くひと筆一筆が、彼女を清らかな人だと称えている

 「濃墨・重彩」は濃い墨・濃い色彩です。どちらも鮮やかではっきりした絵であることを印象付けます。「眉眼」は眉目秀麗の「眉目」と同じで、顔かたちを表す言葉です。歌われている女性の顔立ちが、まるで絵のようであるというんですね。

 さっそく本題から逸れますが、梁の簡文帝(503-551)が詠んだ宮体詩に「詠美人観画」という作品があります。前半部分はこんな内容です。

 殿上図神女 宮裏出佳人
 可憐俱是画 誰能弁偽真

御殿には神女を描いた絵がある
宮廷の奥から美人が出てきた
なんということだ、どちらも絵に見える
一体誰が絵と実物の区別をすることができようか、いやできない

 絵と見まごう女性の美しさは、昔から不変のようです。今から1500年前の南北朝時代の詩題が、現代のポップスの歌詞と結びついているのを感じると、歴史的な情緒を感じてしまいます。
 あと1500年後には、Popsの歌詞も芸術作品として残るのだろうか……?なんて想像もしてしまいます。

 戻りましょう。つづいて「惊鸿」ですが、これは「軽やかな美をもつ女性」を形容するのに用いられる言葉です。
 その出典は魏の曹植(192~232)による『洛神賦』にある次の部分と言われています。

 其形也、翩若驚鴻、婉若遊龍
(其の形や、翩として驚鴻の若く、婉として遊龍の若し)

 上述の引用箇所は「その姿は飛び立つ鴻のように軽やかで、飛んでいる龍のようにしなやか」の意味だそうです。

 ちなみにこの『洛神賦』、曹植が都から帰る途中、洛水(洛陽の近く)という川で出会った女神を賛美する内容で、引用箇所以降も女神をひたすら褒め続けています。(参考:猿渡留理「曹植『洛神賦』の特徴:『楚辞』の典故援用を手がかりとして」東京女子大学『日本文學』113巻、2017年、204頁)

 以上のことから転じて、現在では「驚鴻」は「飛び立つ雁のように軽やかな美をもつ女性、美女」を表す言葉になっています。

 「一笔」は一筆のことですから、前段の「濃墨・重彩」や「如画」を受けて、絵画的な表現を用いていることがわかります。そこで「惊鸿一笔」を「美女を描くひと筆一筆」と取りましたが、あまり自信がありません。
 前段で「絵に描いたよう」と言っているので、「(ひと筆一筆が描いたような)顔のパーツ」と解釈することもできる気がします(踏み込みすぎでしょうか……?)。

 「清絶」は日本語にもなっていますが、「きわめて清らかなこと」意味しています。「人家」は人の住む家や未来の嫁ぎ先というような意味もありますが、ここでは「あの人、あの方」という代名詞でとるのが自然であるように思います。

 したがって「〜称她清绝人家」で「〜は彼女をたいへん清らかな方だと称えている」と理解するとよさそうです。「她」と「清绝人家」を同格として、「~はたいへん清らかな彼女を称えている」と理解してもいいかもしれません。
 ですので「ひと筆一筆が彼女を清らかだと称えている」と解釈しています。

Aメロ(1番)

 それでは次にAメロの解釈に入りましょう。いよいよ人物が登場します。

借鞍马北渡燕山,借岁月画眉
Jiè ānmǎ běidù yànshān, jiè suìyuè huàméi
与西凉剑锋交汇,与春风一醉
Yǔ Xīliáng jiànfēng jiāohuì, yǔ chūnfēng yízuì
为忠烈挂帅出征,为生死同归
Wèi zhōngliè guàshuài chūzhēng, wéi shēngsǐ tóngguī
她换了布衣,仍旧熠熠生辉
Tā huànle bùyī, réngjiù yìyì shēng huī

鞍と馬を借りて燕山のある北へ渡り、年月が経ってから化粧をした
西涼と剣を交えて、笑顔とともに一酔いした
忠義を尽くし命がけで指揮をとって出征した 生死を共にする覚悟で
彼女は質素な服に着替えても、相変わらずキラキラと輝いている

「借」「与」「為」が繰り返されて、リズムを生み出していますね。

【(1)木蘭】借鞍马北渡燕山,借岁月画眉

 これは花木蘭(か・もくらん)のエピソードです。
 前述のように木蘭は「ムーラン」として世界中で広く知られている女性です。彼女は中国南北朝時代(439-589年)に成立したといわれる古楽府「木蘭詩」に登場して以来、何度も詩や小説、映像作品などのモチーフとされた男装の麗人です。

 《等她》に登場するのは、詩の以下の部分であると思われます。

 阿爺無大児 木蘭無長兄
 願為市鞍馬 従此替爺征
 東市買駿馬 西市買鞍韉

 父に成年の男子はいないし、娘である木蘭にも兄はいない。私が鞍と馬を市で買って、父の代わりに出征したい。そう言って、木蘭が馬や鞍を市場で買い集めた、という場面です。
 その後準備を整えた彼女は出征し、敵地である燕山(=燕然山、現在のモンゴルにある)までやってきます。

 不聞爺嬢喚女聾 但聞燕山胡騎鳴啾啾

 もう両親の娘を呼ぶ声は聞こえません。ただ敵である北方遊牧民(胡)の馬の悲しい声が聞こえるだけ。故郷を離れた物悲しさが涙を誘います。

 「鞍馬を借りて燕山を北渡し」の部分はこれでばっちりですね。木蘭は父の代わりに、単身戦地にやってきたのです。

 このあと12年にわたって戦い抜いた木蘭。大いに戦功をあげ、「策動十二転 賞賜百千強(12階級特進し、褒美も百千あまりであった)」と言われるほどの大活躍をしました。しかし、皇帝(可汗)からも欲しいものはないか?と尋ねられた彼女は、欲しいのは官位などではなく、両親のもとへ帰ることなのだと郷里への帰還を望みます。

 家に戻り、家族の歓待を受ける木蘭。長かった戦いを終えた木蘭は武装を解きます。

 脱我戦時袍 著我旧時裳
 当窗理雲鬢 対鏡貼花黄
 出門看火伴 火伴始驚忙
 同行十二年 不知木蘭是女郞

木蘭は軍服を脱ぎ、昔の衣装に着替えた
窓辺に向かって髪を整え、鏡に向かって化粧をした
門を出て仲間たちをみると、仲間たちはみな驚いた
12年も一緒にいたのに、木蘭が女性だとは知らなかった!と

 したがって「歳月を借りて眉を画く」というのは、戦地から故郷に戻り、化粧をして、再び女性としての生き方を取り戻した木蘭のことを表していると言えるでしょう。


【(2)樊梨花】与西凉剑锋交汇,与春风一醉

 次のエピソードをひも解いてみましょう。

 樊梨花(はん・りか)は架空の女性武人です。唐の貞観年間(627-649年)頃に、夫である薛丁山(せつ・ていざん)とともに西涼を平定した人物として知られています。ここでいう西涼とは5世紀に実在した国ではなく、唐王朝に服属しなかった西北の小国を指します。おそらく西涼のモデルは突厥だと思いますが、これも架空の国でしょう。

 西涼といえばその字面から、中国西部の涼州(現在の甘粛省)が想起されます。7世紀の涼州といえば、突厥(北方遊牧民)や吐蕃(チベット)とたびたび奪い合いになった地域で、唐からすると防衛しなければならない地だったと言えます。

 こうした地域では「辺塞詩」と呼ばれる数多くの詩が作られました。唐の都からは遠く離れた辺境の地で、対外戦争のために挑発された兵士たちが故郷に残した家族を想ったり、西域独特の文化を詠んだりしたのです。
 8世紀の作になりますが、「葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催」で知られる王翰の「涼州詞」はオリエンタルな雰囲気と戦地での宴中にある寂寥感が読み込まれた名文です。王之渙、王昌齢、高適、岑参といった詩人も「辺塞詩」で盛唐期の中国詩を鮮やかに彩っています。

 話が脱線しました。樊梨花はそうした「辺塞」で活躍した女性武人といえましょう。その高い人気から、京劇をはじめとする中国の多くの伝統的劇作品でモチーフとされています。

 7世紀に活躍したとされる彼女ですが、はじめて登場する物語は、清代乾隆年間(1736-1795年)に著された小説『説唐三伝』のようです。これより以前に、樊梨花が登場する作品は専門家でも知らないようです。
(参考:大塚秀高「薛家将物語の生成と発展:清朝宮廷演劇との関係を中心に」『日本アジア研究』第14号、2017年、8頁。)

 樊梨花の物語は古代の女性英雄の物語だと思われていますが、その誕生は意外にも18世紀後半と最近なんですね。

 さて、樊梨花にまつわる大まかなストーリーです。
 梨花は西涼の出身でした。幼いころから梨山老母(驪山老母ともいう)に武芸を習い、しばらくすると梨花に敵う者はいないほどになりました。
 8年の修行の後、山を下りる際に梨山老母から「あなたは唐の薛丁山に嫁いで、征西(西方への行軍、ここでは唐が西涼を征討すること)を助けるだろう」との予言を受けます。自分の出身である西涼を討つ助けをする、一見すると不思議ですが、これが彼女の運命だったのです。

 唐は、西涼の攻撃を受けたのを機に、薛仁貴(せつ・じんき)を元帥として征西を開始します。息子の薛丁山もこの征西に同行しました。
 一方、西涼の樊洪(はん・こう、樊梨花の父)は西涼の寒江関に駐屯し、向かってくる唐軍を待ち受けました。梨花も戦いに参加しようとしましたが、途中で唐の薛応竜(せつ・おうりゅう)と出くわします。
 応竜は梨花を妻にしたいと思い勝負を挑みますが、彼女に敗れます。しかし、のちに梨花の義子になることになります(これはまた別のお話)。

 そうしているうちに、薛仁貴の軍が寒江関に到着しました。この時、薛丁山は樊梨花と一戦を交えることになりました。
 驚くべきことに戦いのなかで、梨花はなんと丁山に一目惚れしてしまうのでした。梨花はわざと負けてみせ、丁山が勢いづいて追撃してきたところを反撃、見事丁山を捕えます。そして梨花は彼に結婚を迫ります。丁山はこれを受け入れます。

 梨花は丁山と婚約し、そのことを父、樊洪に伝えました。すると樊の一族は敵と結んだという事実に怒り、梨花を殺そうとします。しかし持ち前の戦闘能力で梨花はこれを返り討ちにし、結果として梨花が主導権を握ることになりました。そして寒江関を明け渡し、唐に降ることを決めました。

 ところで薛丁山というのは大変疑い深い性格で、結婚を受け入れたのに、たびたび梨花を拒絶しました(三休樊梨花のエピソード、休は離婚の意)。しかし丁山がピンチに陥った時、梨花が駆け付けたことで二人は愛を確認しあい、ついに西涼も平定されたのでした。
 樊梨花と薛丁山の物語はこんなものでは終わらないのですが、とりあえずこれが西涼の平定にまつわるお話でございました。

 ところで樊梨花といえば有名な武器があります。そう「九鳳朝陽刀(きゅうほうちょうようとう)」と「鳳嘴梨花銃(ほうずいりかじゅう)」です。

 歌詞の解釈をしましょう。「西涼とともに剣鋒を交匯し、春風とともに一酔す」、この「剣鋒」は剣のこと、「交匯」は交えることですから、戦うことを意味します。また「春風」は穏やかで楽しそうな表情を表す成語でしょう。
 これを踏まえれば、九鳳朝陽刀を手に西涼と戦い、その勝利に微笑んだ樊梨花の姿をここには見出すことができるように思います。

【(3)穆桂英】为忠烈挂帅出征,为生死同归

 つづく穆桂英(ぼく・けいえい)も樊梨花同様、架空の女性武人です。主に『楊家将演義』などに登場する人物です。

 彼女は北宋前期(960-1020年ごろ)に活躍した女傑と言われており、穆柯寨(ぼくかさい)を根拠地とする山賊の娘でした。たいへん武芸に秀でており、仙女が伝授した「神箭飛刀の術(しんせんひとうのじゅつ)」も使えたそうです。これは弓も刀も百発百中という術です。
 この術を伝授した仙女というのが、樊梨花を鍛えたあの驪山老母でした。樊梨花が7世紀の人間で、穆桂英は10世紀の人間ですから、300年は生きていることになります。実はもっと生きています。仙女、すごい。

 穆桂英の夫は楊宗保(よう・そうほ)という武人です。その出会いからお話するほかないでしょう。

 折しも、宋は北方の遼と国境をめぐって対立していた時代、楊宗保も宋の軍人として遼と戦っていました。
 しかし遼側に仙人である呂洞賓(りょ・どうひん)がついたことで、宋側は苦戦を強いられます。洞賓による天門陣(めちゃくちゃつよい)を破るためには「降竜木」を柄にした斧が必要であることがわかり、楊家の当主(楊延昭。楊宗保の父でもある)は部下の焦賛(しょう・さん)に命じて、「降竜木」を取りに行かせました。

 焦賛は孟良(もう・りょう)とともに穆柯寨に向かいます。到着してすぐに彼らは穆桂英と遭遇します。彼らは桂英に「降竜木」を渡すよう要求します。
 しかし彼女はこれを拒絶、賛と良のふたりは桂英の強さに打ち負かされ、穆柯寨の近くにいた楊宗保に助けを求めるのでした。

 代わって宗保が桂英のもとを訪れ、「降竜木」を貸してくれるよう頼みます。桂英はこれも断り、宗保に戦いを挑みます。しかしボコボコにするでもなく、なんと彼を生け捕りにしてしまいました。穆桂英は楊宗保に一目惚れしてしまったのです。彼女は結婚を迫りました。降竜木を手に入れたい宗保はこれを受け入れます。

 さて宗保が帰ってこないため、楊延昭は息子を助けるべく穆柯寨に乗り込みます。一方、乗り込んできた人物が宗保の父とは知らない穆桂英は侵入者を発見、彼を追い詰めます。あわや、というところでお互いの正体が判明、桂英は義父を攻撃したことに気付き、これを恥じて逃げ帰ってしまいました。

 楊の一族の側では、宗保が勝手に山賊の娘と結婚したこと、そしてその女に追い詰められ恥をかかされたことで延昭が大激怒します。楊宗保は罪を問われ、拘禁されることになりました。

 夫となった楊宗保を守るため、桂英は延昭に戦いを申し込みます。桂英と延昭の一騎打ち、結果をいえば桂英が見事楊延昭を打ち負かし、宗保との結婚を認めさせたのでした。
 これにより宗保は許され、結婚により晴れて楊家の一員となった穆桂英は「降竜木」を楊家に献上、夫婦で共に天門陣に挑み、これを破るのでした。
(参考:田渕欣也「楊家将物語の研究」(大阪市立大学、博士論文、2013年)、39-40頁。/
新潮劇院「京劇:穆桂英」(https://www.shincyo.com/muguiying/index.htm))

 たいへん武に秀でていながら、一目惚れして戦い相手に結婚を迫るあたり、穆桂英と樊梨花はよく似ていますね。

 さて「為忠烈挂帥出征,為生死同帰」について、ここでの「為」の用法がイマイチわかっておらず、うまく解釈できていないのですが、「忠烈」は忠義を尽くして命まで犠牲にする、という意味の語です。
 「同帰」は一緒に帰ることです。中国語には「同生死,共患难」という「生死を共にし、苦難を分かち合う」を意味する成語がありますから、それを意識しているかもしれません。

 いかにせよ、それほどの強い思いをもって陣頭指揮をとり、そして夫と生死を共にすることをも厭わない愛と覚悟に、穆桂英の勇ましさを感じます。


 Aメロ最後にある「她換了布衣,仍旧熠熠生輝」についてですが、「布衣」は質素な服、簡素な服の意味ですから、ここは粗末な服に着替えてもキラキラ輝く女傑たちの姿をイメージさせる詞となっています。
 勇猛果敢、鎧に身を包んだ女性たちは、見た目に関係なく、その精神・姿そのもの綺麗なんですよね。

 それではBメロに入ります。

Bメロ(※①)

拂去长缨的灰
Fú qù chángyīng de huī
横刀立马捉寇贼
Héngdāo lìmǎ zhuō kòuzéi
创一个盛世,能与知己相陪
Chuàng yīgè shèngshì, néng yǔ zhījǐ xiāng péi
提笔写着思追
Tí bǐ xiězhe sīzhuī
巾帼也不让须眉
Jīnguó yě bù ràng xūméi
泱泱大国流传的韵味
Yāngyāng dàguó liúchuán de yùnwèi

長いひもの埃を払う 横刀ですぐに賊を捕らえる
こうして繁栄している時代を創造して、
理解者と付き添うことができるのだ
筆を執って書きながら思うことには
女性だって男性に負けないということ
これは堂々たる大国に語り伝えられている情趣である

 「長纓」というのは長いひもですが、「纓」の字は被り物についているひもを指しますから、ここでは兜のひもでしょうか。そして次の「黄刀」は、日本では「太刀」として知られる大きい刀です。兜をかぶり、刀で悪を断つ強い姿がここには抽象化されています。ひとつひとつの動作を重ねていくと、ビジュアルが浮かぶようですね。

 そして、戦いを通して繁栄している時代をつくり、知己(理解者)と一緒にいることができる、と言います。

 Bメロの後半では、筆を執って書きながら物思いにふける筆者の視点が出てきます。この「思追」の意味があやしいのですが、続く部分との関係から「昔のことを思い出す、回顧する」というような意味でとると、意味が通じるような感じがしています。

 では筆者が何を思ったかというと、「巾帼也不让须眉 泱泱大国流传的韵味」だというのです。

 「巾幗」は女性を表すというのは、最初の部分に書きましたね。これに対して「須眉」は「ひげと眉」、すなわち男性のことを表します。
 「巾帼不让须眉」は、これはもう慣用句のようなもので「女性も男性に負けない」という意味を表します。「〜も」を表す「也」が入って、さらに強調されているようです。

 「泱泱大国」は雄大で、堂々とした大国、「流传」は広く語り伝えられていること、そして「韵味」は深みのある味わいや情趣を意味します。
 巾幗と呼ばれる女性たちの輝かしい功績が、現代の大国たる中国にも轟いている様を示しながら、楽曲はいよいよサビへ入ります。

サビ(※②)

等她 浓墨重彩写她,眉眼无瑕
Děng tā Nóngmòzhòngcǎi xiě tā, méiyǎn wúxiá
等她 惊鸿一笔称她,清绝人家
Děng tā Jīng hóng yī bǐ chēng tā, qīngjué rénjiā
等她 一曲长歌为她,可有回话
Děng tā Yīqǔ chánggē wèi tā, kě yǒu huíhuà
等她 溪涧旧居等她,故人归榻
Děng tā Xījiàn jiùjū děng tā, gùrén guī tà

彼女を待つ 
濃墨・重彩で彼女を描いたように、眉目は欠点ひとつない
彼女を待つ
美女を描くひと筆一筆が、彼女を清らかな人だと称えている
彼女を待つ 
彼女のために高らかに歌えば、返事があるだろう
彼女を待つ
谷川の昔の家で彼女を待てば、昔の友人が寝台に戻ってくる

 最初の「濃墨重彩写她 眉眼」まではイントロ部分と同じ歌詞ですが、「如画」だった部分が「無瑕」となっています。瑕が無い、つまり欠点がない、完璧であるという意味です。

 次はイントロと同じ歌詞になっていますね。その次は「长歌」は放声高歌する、つまり「高らかに歌う」ということです。「回話」は返事や応答の意味ですから、歌えばお返事があるだろうというのです。

 「溪澗旧居」は山間を流れる川にある昔の家、「故人」は昔なじみの友人・旧友、「帰榻」は寝台(ベッド)に戻ることです。ここは解釈が難しいです。なにかの古典に基づくのか、何かご存知でしたら教えてください。

 2番に参ります。

Aメロ(2番)

凭谋略守住淮水,凭一些芦苇
Píng móulüè shǒuzhù Huáishuǐ, píng yīxiē lúwěi
留鸿雁从此不归,留异乡垂泪
Liú hóngyàn cóngcǐ bù guī, liú yìxiāng chuí lèi
等一剑扫平川北,等不必颠沛
Děng yí jiàn sǎopíng Chuānběi, děng búbì diānpèi
她脱去环佩,比男装更干脆
Tā tuō qù huán pèi, bǐ nánzhuāng gèng gāncuì

 計略によって淮河を守りぬくのに、わずかな葦を頼った
 鴻雁は留まりここから帰らず、異郷に留まり涙を流した
 一剣で川北を平定するようになって、挫折する必要はなくなった
 彼女は環佩を外すと、男装の時よりもっと活発だ

 1番同様「凭」「留」「等」が繰り返されて、リズムを生み出しています。

【(4)梁紅玉】凭谋略守住淮水,凭一些芦苇

 続いての人物は南宋の将軍、梁紅玉(りょう・こうぎょく)です。
 彼女は宋の名将、韓世忠(かん・せいちゅう)の妻として知られていますが、その名は正史には名が登場せず「梁氏」「梁夫人」として現れます。紅玉という名は、明の時代に編纂された『双烈記』に初めてみえるそうです。

 さてここからは『宋史』の巻364、列伝第123「韓世忠」も参考にお話を見ていきます(https://zh.wikisource.org/wiki/宋史/卷364)。

 梁紅玉は淮安(現在の江蘇省北部)に生まれ、幼い頃から武芸を磨いていましたが、金の侵攻により、南の鎮江(現在の江蘇省南部)に母と二人で逃げました。そこで韓世忠と出会い、結ばれます。

 金の攻撃で北宋が滅びると(1127年)、宋の都は長江の南、臨安(現在の杭州)へと遷されることになりました。この時、梁紅玉と韓世忠は鎮江の防衛を任されます。

 「淮水」というのは、中国の南北の境界線とみなされる淮河のことで、12世紀においては淮河を挟んで、華北には金、華南には南宋が対峙しておりました(歴史地図を検索してみてください)。

 黄天蕩の戦い(1130年)は南宋と金がぶつかった一大水戦でした。この戦い、『宋史』によれば、金の完顔兀朮(わんやん・うじゅ)の軍は10万の大軍、対する韓世忠の軍は8000人と兵力に大きな差がありました。そこで紅玉と世忠は待ち伏せ作戦を立てることにしました。
 しかし川辺は広く、待ち伏せは難しいように思われました。ここで紅玉は兵を葦の茂みに隠して待ち伏せし、金軍を誘い出して攻撃すれば勝機があると閃きます。そして金を誘い出すため、自身は山頂から太鼓で合図を送ることにしました。

 こうして行われた戦いは実に48日に及び、かなり不利な状況だったにもかかわらず、夫婦の尽力により金軍に大打撃を与えることに成功したのでした。 

 ちなみに戦いの後、梁紅玉は夫である韓世忠を、敵を逃がしたという理由で弾劾する上奏を行いました。身内の悪事は隠すのが人情とも思われますが、紅玉はそうは思わず、公明正大なる処罰を求めたのでした。この一件によって紅玉は、大義を弁えて行動する人物であると評価されるようになったのです。

 歌詞に戻りますと「謀略に凭りて淮水を守り住(とど)むるに 一些の芦葦に凭る」とでも読み下せましょうか(無理矢理)。
 これを「計略によって淮河を守りぬくのに、わずかな葦を頼った」と解釈してみれば、「計略」と「わずかな葦」の裏側に、梁紅玉の大いなる才知と果敢な勇猛さがあったことがうかがえます。素晴らしい活躍です。

【(5)王昭君】留鸿雁从此不归,留异乡垂泪 

 漢の王昭君(おう・しょうくん)については、少し長めに語らせてください。彼女は2000年間のうちに、たくさんの詩人や画家がその題材としてきた人物です。雅楽の曲名としても知られていますね。

 「明妃」と呼ばれることもありますが、それは晋のころ、昭君の「昭」の字が、司馬昭(三国志で有名な司馬懿仲達の子で、また西晋を建てた司馬炎の父でもある)の「昭」の字と重なるとのことで、忌避されたことに由来します(詳しくは「諱(いみな)」で検索!)。
 
 さてそんな王昭君、モデルとされた数多の作品のなかでも、特に元代の雑劇(元曲)の傑作、馬致遠(ば・ちえん)の『漢宮秋』は代表的なものと言えましょう。史実とは内容が異なるようですが、参考にエピソードを見ていきましょう(参考:馬致遠「漢宮秋」塩谷温訳『元曲選:国訳』目黒書店、1940年、103-180頁)。

 漢は北方遊牧民の匈奴(きょうど)とたびたび戦っていましたが、和親のために公主(皇族の女性)を匈奴の単于(ぜんう、君主のこと)に嫁がせる策を採っていました。
 前漢の元帝の時代(前48〜前33年)、匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)は漢との和親を結ぶ通例に従って、漢に公主との結婚を求めました。しかし、漢は公主が幼少であることを理由にこれを断ります。元帝の御代は後宮もたいへん寂しい限りで、国中の美女を探し出しては後宮に送っていたようです。
 そんな折に市中で見いだされたのが王昭君です。

 後宮に入る際は画家が絵を描き、その絵を見て皇帝は女性を選んだと言われていますが、王昭君もまた入るにあたって絵を描いてもらうことになりました。
 しかし悪徳宮廷画家の毛延寿(もう・えんじゅ)が現れます。彼は昭君に賄賂を要求し、金を払えば美人に描いてやると言いました。彼女がそれを拒否したため、昭君は延寿によってわざと醜く描かれてしまい、後宮でも冷遇されることになったのでした。

 そんなある日、元帝が宮中を歩いていると、どこからか琵琶の音が聞こえてきました。音を訪ねれば、見たことのない傾城(絶世の美女)が琵琶を弾じているではありませんか。これにより王昭君のことを知った元帝は彼女を寵愛することにし、事実を知ったのち、絵を描いた延寿を処罰しました。

 罰せられた延寿は匈奴へと逃げ延び、王昭君のことを単于に伝えます。「漢の後宮にはとびきりの美女がいますよ」と。ここに至って単于は、漢に対し「もし王昭君を嫁がせなければ、国を挙げて漢を攻める」と脅迫します。話を聞いて単于も王昭君が欲しくなってしまったのです。
 漢の朝廷はこれに震え上がり、家臣たちは王昭君を呼韓邪単于に嫁がせるよう皇帝に進言しましたが、彼女を手放したくない元帝がこれを聞き入れませんでした。しかし王昭君は話を聞き、国恩に報いるためにと単于に嫁ぐことを願い出ました。元帝も昭君が言うならと、泣く泣く諦めました。

 いよいよ単于は昭君を迎え、彼女を「寧胡閼氏」(ねいこえんし)としました(閼氏は単于の妃という意味)。昭君は単于とともに北に渡り、漢と匈奴の国境である黒竜江に差し掛かった時、突然王昭君は漢から離れることを嘆きます。そして南を向いて酒を地面に注いで元帝への礼としたからと思うと、そのまま川に身を投げて絶命してしまいました。

 単于が助けた時にはすでに遅く、彼女は丁寧に埋葬され、その墓は「青冢/青塚」と呼ばれました。またこの時、単于は毛延寿を漢へ送り返します。
 元帝も王昭君の死をきいて、嘆き悲しみます。『漢宮秋』の作中では、その悲しみを垓下で「虞や虞や若を奈何せん」と詠んだ項羽(四面楚歌の故事)や、謂城にて「西のかた陽関を出れば故人無からん」と西域都護へ行かされる友人との別れを詠んだ王維にも重ねられています。そして匈奴から送られてきた毛延寿の首を刎ねることで王昭君への弔いとするのでした。

 完全に余談ですが、上述の王維の詩「西のかた陽関を出れば故人無からん」の出典である「元二の安西に使ひするを送る」は、リブドル!の「心动的日常第16期:做了个奇怪的梦」(2020/3/25公開)に登場します。
 夢の中でゲームをしないように、とお告げを受けたカティアが、動画の後編で清歌に習っていたのがこの王維の詩でした(「謂城朝雨浥軽塵 客舎青青栁色新」の部分)。残念ながらまだ日本語字幕版は公開されていないようですが、先日ミニプログラムでもクイズとして出題されていましたね。正解率も高めでした、本国サポーターさんすごい!

 本題に戻ります。正史である『漢書』(「元帝記」「匈奴伝」)や『後漢書』(南匈奴伝)によれば、元帝が自ら呼韓邪単于に王昭君を賜したこと、昭君は生きて匈奴に渡ったのち、呼韓邪単于との間に子を設けたことが書かれています。
 さらに呼韓邪単于の死後、彼の子である復株累若鞮単于(ふくしゅるいじゃくていぜんう)が即位すると、王昭君を閼氏(妃)として、間に2児を設けています。実際に、川に身を投げたわけではないようです。

 このエピソードを踏まえたうえで、詩の解題のためにもうひとつ参考にしたいものがあります。
 宋の名宰相である王安石(おう・あんせき)の「明妃曲二首」です。「其一」「其二」から部分引用します。

其一より
 一去心知更不帰,可憐着尽漢宮衣
 寄声欲問塞南事,只有年年鴻雁飛

ひとたび行ってしまえば心はさらに戻らなくなると分かっているので、
かわいそうに、彼女は漢服を全身に着たままである
(※この頃、匈奴は胡服と呼ばれる服を着ていました)
砦の南(漢のこと)について訊きたいと思っているけれども、
毎日ただ雁が南に飛んでいく(のを見る)だけである

其二より
 明妃初嫁与胡児,氈車百両皆胡姫
 含情欲語独无処,伝与琵琶心自知
 黄金杆撥春風手,弾看飛鴻勧胡酒
 漢宮侍女暗垂泪,沙上行人却回首

明妃(王昭君)が初めて異民族(単于)に嫁いだ時、
氈車(フェルトを敷いた車)が百両も迎えに来た(※※)
気持ちを誰かに言いたいと思っても孤独で伝えるところもなく、
ただ琵琶に気持ちをのせて自分に言い聞かせるだけだ
黄金のばちで鳴らせば、その手から春風のように美しい音が響き、
琵琶を弾きながら空飛ぶ雁を眺めれば、胡の酒を勧められる
漢からの侍女は音を聞いてこっそり涙を流し、
砂漠を行く旅人はこの音に振り返る

(※※「氈車(せんしゃ)百両」は、『詩経』の「鵲巣(せきそう)」にある「維鵲有巣 維鳩居之 之子于帰 百両御之」(ここにかささぎの巣があり、鳩がそこに住んでいる その子が他所へ嫁ぐことになったので、百両の車で迎えに行く)に由来しており、「高貴な女性が嫁ぐときにたくさんのお供がこれを迎えた」の意味です)

 以上を読んでから、改めてこの歌詞「留鴻雁从此不帰,留異郷垂涙」を見ると、王安石の詩による影響をつよく感じませんか。

 「鴻雁」は雁のことです。雁が渡り鳥であることから、北へ渡る王昭君が自身の姿と南へ行く雁を対比させている様子を感じます。
 漢の方へと飛んでいく雁を見ては、二度と帰ることはできない哀しみを感じ、そしてひとり異郷で涙を流す。なんとも寂寥感のあるフレーズです。

 ところで、王安石ついでにリブドルの話をひとつさせてください。
 李清歌さんの春節の挨拶動画(2020/1/26公開:https://youtu.be/Pm_MjNg0_PE)で、王安石「元旦」(爆竹声中一歳除 春風送暖入屠蘇 千門万戸曈曈日 総把新桃換旧符)が引用されています。覚えていますか。
 いやはや漢文も学べるバーチャルアイドル、リブドル。最高ですね。

 また脱線してしまいました。
 最後に王昭君で雁といえば「落雁」にも触れておきたいです。

 中国四大美人を表す語に「沈魚・落雁・閉月・羞花」というものがあります。それぞれ「泳いでいた魚が見とれて沈むほど/飛んでいた雁が見とれて落ちるほど/月が美の眩しさに思わず雲に隠れてしまうほど/開いていた花が美の眩しさに思わず萎んでしまうほど」美しいという意味があります。

 その2番目にある「落雁」が王昭君のことです。
 呼韓邪単于に連れられて北へ向かう途中、黄砂が風に舞うと、馬が嘶き、雁も鳴きました。すると王昭君は突如として不安な気持ちになり、馬に乗りながら手持ちの琵琶で別離の曲を奏でたそうです。するとどうでしょう、あまりの素晴らしい音色に、南へ飛んでいた雁が飛ぶことを忘れ、砂の上に落ちてきたというのです。

 このエピソードは正史や先に挙げた『漢宮秋』には見えません。王昭君と琵琶のエピソードについて研究した論文(山本敏雄「王昭君説話と琵琶」『愛知教育大学研究報告』53号、2004年、13-21頁。)でも、雁の話は触れられておらず、詳細はよくわかりませんでした。

 しかし王昭君と琵琶と雁とは、郷愁と離別にまつわる物悲しいエピソードが背景にあり、後世の想像を大いに刺激したことは言うまでもありません。

【(6)秦良玉】等一剑扫平川北,等不必颠沛

 秦良玉(しん・りょうぎょく)は正史に列伝を持つ唯一の女性武将です。カティア・ウラ―ノヴァ「歌姫訓練日記10」(2020年5月14日:https://katya0606.fanbox.cc/posts/1046683)にも登場しました人物です。某スマートフォンゲーム(FG〇)のキャラクターにもなっているようで、日本語でも比較的たくさん情報があるようです。

 さて『明史』(参考:岩城隆之「世界名将録:《明史》270巻、秦良玉」:http://archive.is/20121129095856/iwakitakayuki.blog119.fc2.com/blog-entry-124.html)の記述によれば、彼女の生没年は1574-1648年、時はちょうど明末清初にあたる時期のようです。

 秦良玉は騎射に秀でており、詩文の才もあり、さらに常に男装をしていたとも言われています。
 四川に生まれ、石砫(現在の重慶市)の馬千乗(ば・せんじょう)に嫁いだ秦良玉は、夫とともに従軍して播州(現在の貴州省遵義県、当時は四川の管轄)の地で楊応龍(よう・おうりゅう)の反乱を平定します。しかしこの後、馬千乗は役人に賄賂をしなかったとかで、無実の罪を着せられ獄死してしまいます。そこで秦良玉が夫に代わって兵を率い、民を治めることになったわけです。

 それからというもの、北方から後金が攻め入れば守り、領地で賊が起これば平定するなど、統治に力を注ぎました。

 後金が明に攻め入ると、時の皇帝、崇禎(すうてい)帝は地方から援軍を出すように各地に要請しますが、これが聞き届けられないうちに永平(現在の河北省秦皇島・唐山)にある4つの城が落城してしまいます。
 この危機に秦良玉は立ち上がりました。秦良玉は落城の責任を咎められる覚悟で入朝しましたが、予想に反して、帝は彼女に褒賞を賜り、さらに4つの詩まで送ってその功労を称賛しました。それほど誰も助けに来なかったのですね。

 その一件の後も、秦良玉は四川に入る多くの賊を平定しましたが、張献忠(ちょう・けんちゅう)の反乱には手を焼き、1644年四川はついに落とされてしまいます。同年、李自成の反乱によって崇禎帝が自害すると、明朝も滅亡します。
 それでも秦良玉は明を裏切ることなく、明の亡命政権である南明に仕えながら、張献忠による攻撃から民を守ったのでした。良玉は張献忠が死んだのを見届けたのち、老衰で亡くなったようです。

 ということで歌詞の話に移りますが、「等一剑扫平川北,等不必颠沛」の「川北」とは四川省北部のことを指します。ですから前半は「1つの剣で川北を平定し」と解釈できます。
 そして後半、「颠沛」(てんぱい)は挫折するということですので、「不必颠沛」で挫けることはないという意味になります。ここの「等」の訳し方は「〜してから、〜に及んで」の意味でしょうか。
 確信がありませんが、「ひとつの剣で四川の北部を平定してから、必ずしも挫けなくなった」という意味でとれそうです。

 たったひとりでも明に仕え、賊を平定し、最後まで決して諦めなかった姿には、力強さを感じずにはいられません。


 2番Aメロラストの「她脱去环佩,比男装更干脆」の部分、「环佩」は玉で作られた女性用の環状装身具で、紐を通して腰から下げてつかわれるものです(画像検索するとお分かりになるかと思います)。
 それから「干脆」はサッパリとした思い切りの良さを表す語です。したがって「彼女は装飾品を取り去っても、男装の時よりもサッパリしている」となり、1番の「她換了布衣,仍旧熠熠生輝(粗末な服に着替えてもキラキラしている)」と対になっていることが分かります。

 オシャレをしていなくても、男性の格好をしなくても、女性はありのままで輝いているのです。そういうメッセージです。

 このあとは※①と※②の繰り返しがあって、いよいよラストのラップに入ります。

Dメロ(ラップ)

那些分外勇敢的姑娘,没等来好时光
Nàxiē fèn wài yǒnggǎn de gūniáng, méi děng lái hǎo shíguāng
脱下红妆与世情对抗,留遗憾长长
Tuō xià hóngzhuāng yǔ shìqíng duìkàng, liú yíhàn cháng cháng
她们披铁甲横刀沙场,怎么说是荒唐
Tāmen pī tiějiǎ héngdāo shāchǎng, zěnme shuō shì huāngtáng
曾经无数巾帼的梦想,我们替你唱
Céngjīng wúshù jīnguó de mèngxiǎng, wǒmen tì nǐ chàng

あれらのとても勇敢な娘たちは、よい時期を待つことはなかった
化粧を落として世間と対抗したが、ずっと心残りがあった
彼女たちは戦場で鉄の鎧、横刀を身につけていたが、どうしてこれをおかしなことだと言えようか、いや言えまい
かつて存在した無数の女性英雄たちの夢を、私たちがかわりに歌う

 6人の女性たちにとっての「好時光(よい時期)」というのが何を指すのか、具体的にイメージできていないのですが、彼女たちはいわゆる「女性」らしい生き方ではなかったと言えます。ある英雄は男性のように戦い、またある英雄は国家間関係に翻弄されました。
 「红妆(紅粧)」は紅の粧い、すなわち化粧のことです。歌は化粧もせずに世と戦った彼女たちには心残りがあったんだと言います。

 「沙場」はそのまま読むと砂地、砂漠の意味ですが、前述した王翰「涼州詩」に出てくる「酔ひて沙場に臥す 君笑ふ莫れ」といった用法のように、ここでは戦場という意味でとれます。
 彼女たちは、美ではなく武を選び、戦場を駆け巡ったのです。しかしこれは決して荒唐無稽な、馬鹿げたことではありません。

 自身の身を捧げて、国家や人民のために生きた巾幗英雄たち。

 彼女たちの物語を、歌姫たちが代わりに歌うことで、新しい時代の自立した強い女性の生き方をそこに感じることができるような気がしています。

 音阙诗听の方は、冒頭にも引用したシャオメイコラムのインタビューの中でこのようにも書いていました(https://www.revdol.com/column/2882/)。

 「等她」は……木蘭や穆桂英などといった中国古代の女傑のように、「自分の力で人々に勇気を与えてほしい」という思いが込められています。歌姫たちの成長を待つ、つまり彼女たちが各々の物語を紡ぎ、そして強くしなやかな人なるのを待っている、という意味でもあります。

 改めて歌詞を振り返ってみると、立派なスワン、そしてイドゥンを目指す歌姫たちにふさわしい一曲であったことが頷けますよね。

最後に

 引用が多いものの、ここまでで16000字を超えていました。長い文章にお付き合いくださりありがとうございました。

 調べ物にあたっては、Wikipediaや百度百科の記述を参考にした部分も多くあります。引用した詩もあちこちのサイトから引っ張ってきています。しかし本記事は学術論文ではなく、また表記の煩雑化を避けるため、参照した各記事URLは省略してしまいました、申し訳ありません。
 なお参照した日本語の文献や論文については、文中に典拠を示しています。

 以上のために、誤訳や論の飛躍もたくさんあると思います。鵜呑みにすることなく、楽曲を楽しむ参考程度にご覧いただければと思います。

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