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小説版 君が帯をほどく時

貴女を待つ間に

背を向けた襖のむこうで、微かに衣擦れの音がする。
静寂に包まれた部屋にシュルシュルと、帯と畳が擦れ小さく小さく響く。
耳を済まさねば聞き取れぬ程のその音と、微かな呼吸と人の気配を一枚の襖で隔て、僕はゆっくりと瞬きをした。
背中越しの煩悩を、振り払うように。手にした雪柳の枝に鋏を入れる。
プツンと響く手応えに耳の奥がぐっと震えて、世界は僕と花材だけになる。
右手の鋏を盆に戻し花器にその枝を挿すと、僕は傍の花材を眺めた。
用意したアネモネの束に、襖の向こうを思う。
仕立ての良い生地の着物の凛とした佇まい。彼女の華やかさや優しさを引き立てるように、控え目で柔らかな印象の柄を選んだ。外からは見えない位置に僕の着物と揃いの刺繍の入った襦袢。帯留めの飾り玉は僕のものと対になるのだと彼女は気付くのだろうか?
白、紫、赤……アネモネの束からそれぞれの色を1本ずつ選び出し、バランスを見て鋏を入れる。
細く繊細な茎を潰さぬように順序よくそっと差し込んで小さく息をついた。
花びらをそっと撫でるように優しく触れて、自分の指先と見比べる。
繊細とは程遠い指先。父に似た肉付きの良い大きな掌。
こんな時ですら父の姿を思い浮かべた自分に、思わず苦笑する。
家長として経営者として父の事は尊敬しているが、少々強引で身勝手なやり方はいただけない。小笠原家の後継である僕に“良き妻を”というのはわかるが、頻繁に用意される見合い話や会合の席で、当事者である僕の感情などまるでないもののように振舞われることに、いささかうんざりする。
僕には想い人がいるのだ。彼女は今、僕の部屋の襖の奥で着替えをしている。自分の感情に正直で、雪柳の花のようにたくさんの笑顔をこぼす素朴で愛らしい女性だ。少々気の強い、庶民の育ち。それが父にとって期待外れだったとしても。僕は彼女の聡明さや優しさに惹かれた。

年末の会合に、僕は彼女をパートナーとして連れて行くつもりだった。父が認めてくれないのであれば、外堀から埋めるまでだ。それとなく母に伝えて協力を仰ぎ、着物は僕が選んで用意させた。流石に着付けを僕がするわけにいかない事に気付いて、馴染みの女中を巻き込んで着付けを頼んだ。
「父上には内密に。それと、なるべく彼女に話し掛けぬようにお願いしたい。」
僕はそう言って、その女中に頭を下げた。きっと、このことが父に知れたらこの女中はこの屋敷を首になるだろう。幼い頃から世話になっていた。この屋敷のことで、知らぬことは無いのではないかと思う。“生意気な坊ちゃん”の我儘でその女中の生活を変える事になるかも知れないなんて、春に出会うまでは考えたこともなかった。僕は、僕の生活を支える人達の生活を知ることもなかっただろう。
協力して欲しいと頭を下げる僕に、その女中は驚き、慌てて、それから少し呆れたような笑顔を浮かべた。
「よほど大切な方なのですね。大旦那様にたてつく程に。」
「たてつく!?僕は、ただ、認めていただきたいのです。この家の後継として、いずれ良き妻を娶るという事は当然だと理解はしていますよ。」
「ええ。」
「しかし、“良き妻”って何でしょう?彼女は聡明だし、素朴で愛らしい。僕にとっては申し分無いパートナーです。」
「ええ。」
女中は僕を見ると「着付けはお受けいたします。」そう言ってにっこりと微笑んだ。
「葵様、ご立派になられましたね。」
「どういう…」
僕の言葉を途中で遮って、女中はくるりとこちらに背を向けた。
「できる限りの協力はいたします。では、私は仕事に戻らせていただきます。」
その後ろ姿を思い出し、僕には味方がいるのだと、自分に言い聞かせる。


アネモネと雪柳

余った花材を束にして廊下のバケツに放り込む。道具を全て盆に戻し、棚に片付けると、僕は活けたばかりの花を眺めた。
きっと、この花の意味は彼女には伝わらない。でも、それでも構わないのだ。彼女は喜んでくれるだろう。蕾が開くようにほころぶ、その笑顔を思い浮かべたところで、背後で静かに襖が動く気配がした。
振り返ると、襖を開けた女中の向こうで彼女が恥ずかしげに微笑んでいた。
「よくお似合いです。僕の見立てた通りだ。」
本心から出た言葉だが、彼女はお世辞と受け取ったのだろう。
「葵さんが用意してくださったお着物が素晴らしいからです。」と控えめに笑う。その頬と耳にほんのりと朱が差して、彼女は僕から視線をそらした。
女中の手によってアップに整えられた彼女の髪は、襟足を露わにして普段と違う色気を纏う。
僕は気づかれぬように呼吸を整えると、彼女の視線の先を辿った。
「雪柳です。それとアネモネ。」
「素敵。…これは、どういう意味があるの?」
慣れない着物を着ている緊張感からか、彼女の笑顔はいつもよりも少しぎこちない。
「意味…ですか?」
「以前、言っていたじゃないですか。花にはそれぞれ意味があるんですって。」
「ああ、そうでしたね。…この花が気に入ったのであれば差し上げます。」
彼女が無知で良かったと、内心で息を吐く。雪柳はともかく、アネモネの花言葉など知られたくない。ましてや色ごとの意味だなんて。
彼女はこちらを振り返って僕を見上げた。こちらを覗き込む好奇心に満ちた瞳。はぐらかされたことに気付いて、少し不機嫌な口元。
「意味は?」
「少しはご自分で考えてみては?」
思わずそう言って視線を逸らすと、隅に控えていた女中が静かに顔を背けて肩を震わせた。
「……なにが面白いのです?」
「いえ。」
女中は花言葉の意味に気づいたのか、僕との約束を反故にして彼女を振り返る。客人に向ける柔らかな笑顔。
「貴女を待つ間。葵様のただの暇つぶしですよ。……では、失礼いたします。」
「ちょっと!?」
僕の言葉を無視するように静かに襖を開けて部屋から出て行く。その後ろ姿を呆然と見送る。
女中と入れ替わるように、廊下から健次郎が顔を出した。
「どうされました?」
背の高い彼は、大きな身体をかがめるようにして鴨居を避け静かに畳を踏む。
「あ、いえ、なんでもないです。」
「大きな声を出されて。旦那様に気付かれたらせっかくの計画が…」
咎めるようにそう言って、襖を閉めて顔を上げた健次郎は、彼女を見て丸い目をさらに丸く見開く。
「なんと、素晴らしい。」
「ちょっと、健次郎さんまで。」
彼女は両手で照れた口元を覆い隠す。短く整えられた爪先。
「いえ、素晴らしいです。ちょっと、葵くんの横に。」
そう言って、健次郎が僕の肩を掴むと思わぬ力で僕を動かして、彼女の横に並べる。僕らを見比べて満足げに頷くと、「お似合いです」と嬉しそうに繰り返した。

「先に伝えておきます。父上はおそらく女性を連れてくるでしょう。僕に相手をしなさいと、そう言うはずです。以前のように、君にも無礼な言葉を掛けるかもしれない。」
「……。」
「君は何を言われても気にしなくていい。」
向き合って、俯いた彼女の顔を斜めに見下ろしながら、今日こそは自分の胸の内を父に伝えなければと決意する。彼女ではなく、父にこの気持ちを認めてもらえない限り、彼女が僕の隣に添い続けることは難しいのだから。
「気にせずに、僕の側にいてください。」
「でも、それでは葵さんが。」
「大丈夫です。僕には貴女がいます。」
包み込むように、その手を握る。遠慮がちに握り返してくるその細い指先を、僕は失いたくないと思う。
「顔を上げてください。……周りが認めてしまえば、客人の手前、父上も強引なことは出来ないでしょう。君が不安に思うことはないのです。」
「はい。」
緊張の抜けぬ面持ちの瞳が、ゆっくりと揺れている。
「父上が恐いのですか?」
「……はい。」
「僕もです。でも、僕は父上に貴女との関係を認めていただきたいのです。」
不意に、後ろに控えていた健次郎が一歩前に進み出た。
「いざとなったら私が。」
「え?」
「担いで外にお連れしますので。」
大真面目な顔をした健次郎を見上げて、ぽかんとあいた口の端がゆっくりと笑みの形に変わる。目を細めてくしゃりとその表情が崩れて、彼女は声を立てて笑った。
「やだもう、健次郎さんたら。」
繋いだ手の中で、彼女の緊張が緩やかに解ける。
僕らの作戦を冗談と受け取ったのだろう。
健次郎には感謝しなくてはならない。いくら僕に忠誠を誓ってくれているとはいえ、実際のところ彼にとって、僕の恋路の行く末など関係のない話なのだから。
「いいですね。君は、そうやって笑っているのが似合う。」
その手を引いて僕は廊下へと続く障子を開ける。そっと一歩踏み出した廊下の床板は、ひんやりと冷たく、小さく軋んで鬨の声を挙げたようだった。

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