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人魚の鱗、ミッドナイトブルー。

ネイルをチェンジしようと、古いジェルを削り落として、カゴから新しいボトルをいくつか取り出す。

ベースの色は、ミッドナイトブルー。
重ねるのは、人魚の鱗。

ネーミングだけで買ったその瓶を覗き込んで、スタンドライトの光にかざすと、透明の液体に細かいホログラムが無数に混じりオーロラのようにピンクと薄青に輝いた。

ホログラムを紺青のベースに重ねると、ピンクの反射はひっそりと姿を隠して、かわりに深い青がキラキラと見事に光を放つ。
このホログラム、鱗と云うよりは、星みたいだ。

海の人魚は泡になって消える。
湖の人魚は流れ星になって消える。

ふと、高原の真っ暗な夜空に広がる、満天の星を思い出す。
それから、あの人の唇の感触も。


あれは、事故だった。
きっと、事故のようなものだった。
あの晩、湖の畔のキャンプ場のテントの群れから外れた灯りの届かない場所で、私は後輩を介抱していた。
彼は出会ったばかりの頃から私に懐いていた。背が高くて筋肉質なわりに、穏やかで、時々、浮かべる無邪気な笑みも、どこでも丸くなって眠る姿も、なんとなく柴犬みたいだと思う。
「だから、飲み過ぎだって。いい加減にしてテントに入りなよ。」
「せんぱーい。すんませーん。」
足元で丸くなる彼を、やっとのことで引っ張り起こして立たせると、私は彼の背中を軽く叩いた。
「ほら、歩ける?」
「歩け、まっす!!」
「そっちじゃない。ほら。」
よろよろと、あらぬ方向に歩き出す彼を引っ張って、遙か先に設営されたテントの方を振り返る。
満天の星空。まるで雨に打たれたビニル傘の表面を水滴が転がるみたいに、たくさんの星が流れていく。
私はこの流星群を見る為に、テントを離れたというのに。仔犬のように後を追ってきたこの後輩は、誰に飲まされたのか既に酩酊していたのだった。
溜息をつかぬように顔を上げると、ずっと憧れていた満天の星空がすぐそこに広がっている。手を伸ばせば、届きそうな星たち。
「星、きれいね。」
思わず呟くと、隣に立った彼も空を見上げた。
「星、きれーい!!」
叫んで、両手を広げるから、つられて笑ってしまう。
「星、きれーい!!」
彼の真似して上を向いて叫ぶと、小さな声で名前を呼ばれた気がした。
「ん?なに?」
振り返るのと同時に、強く抱き寄せられて、唇を塞がれた。
「…好き。」
溢れるように。掠れた小さな声で、彼は呟く。
予想もしなかった言葉が、夜空を滑り落ちて、暗い湖の水面に吸い込まれていく。
大きな身体に包むように抱きしめられて、これが夢ならよかったのにと思う。
酒臭い。
「……何言ってんの。一回、冷静になりなよ。」
突き放して、私は笑った。
私は彼に、たくさん隠し事をしているから。
溢れ出たその想いには、応えられない。
それに、彼はこの出来事を覚えていないだろう。
朝になれば、夢のように。
「ほら、テント戻るよ。」
腕を引くと、彼は笑って、もう一度「星、きれーい!」と叫んだ。
「はい、はい。きれーだね。」

翌日、彼は、それが酔って見た夢だったのか、現実なのかわからないようだった。
昨晩の泥酔を平謝りした後で、捨てられた仔犬みたいな目で、こちらを見上げるから。
私は「しばらくお酒はやめた方がいいよ。」なんて言って、笑ってみせた。
アレは仔犬に噛まれたようなもの、その出来事は“無かった事”にしよう。そう、心の中で付け加える。
私たちは皆で、キャンプ場のある湖の畔で釣りをしながら、湖の伝説の話をした。
「湖って人魚とかいないのかな?」と、誰かが言った。
「そういえば、人魚って海のイメージだね。」
「海水魚なのかな。」
「ヒレや鱗は淡水魚っぽいのにね。」
「海の人魚は泡になって消えるけど、湖の人魚は流れ星になって消えると思う。」
私の言葉に、彼だけが笑わなかった。
「なんで消えちゃうんだっけ?」
「恋に敗れたから。」
「なにそれ。人魚姫ってそんな話だっけ?」
「知らない。」
私たちは好き勝手に喋って、また星の降る夜を待った。


紫外線の出るLEDの小さなランプに照らされた爪先を眺めながら、ジェルの硬化を待つ。
青い光に照らされて輝くホログラムは、夜の湖面のようでも、満天の星空のようでもある。

結局、私たちは、あの“事故”を“無かった事”にしたままだ。
御伽話の人魚姫のように。
本当の自分を見られたら、湖に身を投げて流れ星になって消えよう。
だから、そのまま忘れて欲しい。
私が恋に敗れないように。
彼が私を失わないように。


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