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ナナメさん#014 あみんさん

あみんさんのプロフィール

・女性・36才・宮崎出身

・進んだ高校:商業高校

・部活動:中学生時 テニス部 

・好きだった教科:国語・美術・英語

・嫌いだった教科:数学・化学・体育

・現在の家族構成:義母 義父 夫 私 娘

・趣味:英語勉強 ブログ執筆 海外ドラマ パン作り お菓子作り 本を読んだり

・休日の過ごし方:趣味と同じ

・好きな音楽:小田和正・村下孝蔵・Cocco・鬼束ちひろ

・おすすめの本:7つの習慣・失敗図鑑 すごい人ほどダメだった・思いつき大百科事典

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地方の高校を卒業後、複数の職種を経験し、豪華客船のマッサージセラピストに。現在は異国セルビアで、セルビア人の旦那様と共に子育てに奮闘しているあみんさん。とても興味深いお話をお伺いすることができました。

就職できることが大事。職種にはこだわらなかった

――今日はよろしくお願いします。早速ですが、あみんさんは中高生の頃、将来に対してどのような考えをお持ちでしたか?

うちは4人兄妹で、家計にもそんなに余裕はないだろうと思っていたので、高校を出たら就職しようと、高校は家から比較的近く、簿記等の資格が取れて就職に有利そうな商業高校を選びました。

――なるほど。高校時代はいかがでしたか?

学校で勉強したことは正直あまり印象に残ってなくて…。今思うと、もっとお金の仕組みや社会のことを学んでおけばよかったなと感じています。
高校時代のアルバイトは良い経験になりました。自分でお金を稼ぐという体験を早くからできましたし、学校の外で年上の人と交流することで、社交性を養えたと思います。

――卒業後の就職先は、高校を介して決まったのですか?

いえ、当時は就職氷河期が始まった頃で、高校に来る求人応募も少なくて。たまたま叔父からの紹介で就職先が決まったんです。空港の手荷物検査場で荷物や身体検査をする警備員の仕事でした。初めは福岡勤務と言われていたのですが、結局いきなり東京で勤務することになりました。
就職できることが大事だったので職種にこだわりはなかったですし、卒業間近になって急に東京に変更と言われた時は心細くも感じましたが、「東京」という都会に上京できるというワクワクと好奇心も半分ありました。

警備員から服飾業界へ

――逞しいです…!実際働いてみていかがでしたか?

今振り返ると楽しかったです。たった数ヶ月前まで高校生だった私には、東京での生活全てが新鮮でした。寮生活で、同期も多く、休日はみんなで遊びに行ったりして。社会人になったというより学生気分でしたね。
仕事は、上下関係が厳しかったことと24時間の交代制シフト勤務が辛かったです。でも特別な場所での仕事なだけに、面白さもたくさんありました。

――確かに、刺激的な環境ですよね!でもそこから転職しようと考えたんですよね?

はい、アパレル業界への転職を考えるようになりました。もともと学生の頃からファッションが好きで、地元では小さなファッションショーに出たりヘアモデルをやったりしてたんです。東京はファッションの刺激もいっぱいで、一度アパレル業界に挑戦してみたいと思いました。

――なるほど。転職活動は順調にいきましたか?

仕事を見つけるのはそんなに苦労しなかったと思います。でも本当はレディースブランドのお店で働きたかったのですが、なかなか面接に受からなくて。結局、帽子専門店のオープニングスタッフの枠で採用が決まり、働き始めました。東京に出て3年経った頃でした。
その後、希望していたレディース衣料のお店に転職して、バイヤー兼副店長として働きました。

――希望が叶ったのですね。働いていて、いかがでしたか?
ファッションは好きだったし、有名人も訪れるお店ということもあって、刺激的で楽しかったです。でもお店に立つために多くの服を買わなければいけなかったし、スキルが身についている実感がなくて。手に職をつけたいな、と考えるようになりました。
それから、当時は全く英語がしゃべれませんでしたが、海外からのお客様がいらした際に「英語で接客出来たらカッコいいだろうな」と思うことがあって。
この時期に、自分の中に「手に職」と「英語」という、二つの柱が生まれました。

マッサージとの出会い、豪華客船との出会い

――それでエステティシャンとして働き始めたんですね。

はい。全く未知の世界でしたが、始めてみて意外と性に合っていると気づきました。自分の技術でお客様の体が変わるのが楽しくて。体を触る仕事なので責任も大きいですが、施術後に満足してもらえると今でもやっぱり嬉しいです。

――「コレ!」と思える仕事に出会えたのですね。ただ、労働環境に問題があったと…?

完全なるブラック企業でした。マッサージの技術は身に付きましたが、長時間労働や休日出勤が当たり前の会社で、プライベートを充実させる余裕が全くなくて辛かったです。
そんな時、同業の知人に豪華客船の話を聞いたことが、豪華客船で働く最初のきっかけでした。

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――初めて豪華客船の話を聞いた時、どう感じましたか?

英語が話せる環境で、マッサージの仕事ができる点に魅力を感じました。成長できる環境だ!と思いました。

――確かに、「手に職」と「英語」を磨くには、ぴったりの環境ですね。そこからはすぐに行動に移ったのですか?

ちょうどその当時、「資金援助をするから都内で独立サロンをオープンしないか」というありがたい話をもらっていて。正直ちょっと迷ったのですが、独立するにも自分の力でやりたい!と思ってお断りさせていただき、すぐに豪華客船の説明会に行きました。

――おお…カッコイイ!豪華客船の採用試験ってどんな感じなのですか?

イギリスから面接官が来日しての、集団面接でした。英語力をはかるテスト、英語での自己PRプレゼン、実技テストがありました。今は面接前に英語力テストが必須になったそうですが、私の時は事前テストはなく、いきなり面接でした。

――英語でプレゼン…。難しそうですが、当時の英語力はいかがだったのでしょうか。

本来であれば合格レベルには達していないような英語力しかありませんでした。ただラッキーなことに当時はダイヤモンドプリンセスが日本航路を始めたばかりで、日本人を多く採用する必要があったようで。面接を受けたとき他に15人くらいいましたが、みんな採用になりました。

壮絶な研修を経て、乗船を果たす

――タイミングも良かったのですね。採用が決まるとすぐ乗船なのですか?

いえ、まずはロンドンで研修を受けました。でもその研修、かなりのスパルタで。
先生方は生粋のイギリス人で、海外ドラマや映画並みの速さの英語で授業が進みますし、毎日何かしらのテストがありました。そこで成績が悪かったり英語が話せないとわかったりすると、いきなり次の日に契約解除で強制帰国させられるんです。それもイギリスからの帰りのチケット費用は自分持ちで。
そうならないよう、毎日2、3時間の睡眠時間で勉強したり英語プレゼンを1日で仕上げたり、本当に必死でした。

――そんな研修を無事に受けきることができたんですね。するといよいよ乗船になるのですか?

本当に私が最後まで残ったのは奇跡でした…。
はい、研修が終わると乗船で、それも出航の数日前にいきなり言われるんです。そのまま数か月ずっと船の上。外資系だからか、急に決定や変更が出ることがよくありました。タフさと順応性がないと厳しい職場でしたね。

――実際に働いてみて、どんなことを感じましたか?

やはり英語力が足りなくて苦労しました。あの環境において、英語力はすべての土台です。この土台が固まってないと、自分を売り込めないし、自分を守ることもできない。そして人との心理的な距離を縮めることもできないのだなと痛感しました。
でも船で経験したことは全部、とてもいい経験です。

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――乗務員の中で日本人はたった数名だったとのことですが、ほぼ英語しか使えない環境でストレスはありませんでしたか?

自分が言いたいことが日本語のように表現できないもどかしさは常にありましたね。そんな中で、私のつたない英語でも辛抱強く話を聞いてくれたのが、ポルトガル人のルームメイトと今の夫でした。二人には、カタコトでもそれなりに深い話ができました。

結婚そして移住を決意

――旦那様のご登場ですね!お二人の出会いはどのようなものだったのですか?

初めて会ったのは私が乗船した初日です。夫はクルー用のバーで働いていたのですが、ルームメイトになったイギリス人の女の子にバーに連れて行ってもらったんです。その時は顔を見ただけで、話をしたりはしなかったですけど。

――クルー用のバーなんてあるんですね!そこからどのように仲が進展したのですか?

クルーバーはカオスですよ(笑) みんなお酒飲んで騒ぐのが大好きで(笑)
夫と付き合い始めたのは乗船してから2か月後でした。友人ふたりとクルーバーに行くことが多かったのですが、ある日その友人たちに夫を勧められて。私も夫のことは何となくいいなと思っていたし、夫も同じように思ってくれていたようで、お付き合いが始まりました。

――初めから何か惹かれあうものがあったのですね。

ただ、夫は初めは真剣ではなく船の中だけのカジュアルな恋愛のつもりだったらしいです。船の中には乗船中だけ恋愛を楽しみたいプレイボーイ・プレイガールが多く、そんなノリと思っていたようで。
でも私は、付き合うのなら船の中だけでも真剣交際のつもりでした。
夫は私が乗船してから3か月後に一旦船を降りたのですが、休暇の後にまた乗船してきて、付き合いが続いて。文化の違いとか色々あってケンカすることも多かったですが、私が9か月働いて船を降りる頃には将来のことを話し合うようになっていました。二人でまた同じ船に乗船することもできましたが、結局一緒にセルビアで暮らすことにしたんです。

――セルビアで暮らすことにしたとは、思い切りましたね!知り合ってから1年も経たないうちに、しかも会話も英語で大変な中、どうしてお互いに将来を考えるまでになったのでしょうか。

出会ったとき彼は26歳だったのですが、船で働いたお金をほぼ全てご両親の家のローン返済のためにコツコツ貯蓄していたんです。ご両親がローンを返すのが難しくなってしまい、彼が支払うと決意したらしくて。日本円でいうと150万くらいだったそうですが、セルビアでは結構大きな金額です。
26歳にしてそんなことができる彼を尊敬しましたし、思いやりと責任感があるところに惹かれました。この人となら多少生活が苦しくても乗り越えられるかなって。

――旦那様、ご立派です。それでも、セルビアで暮らすことに不安はなかったのですか?

不安はありませんでした。…というか、甘く見ていました。
夫は日本語が全く話せないので、英語ができる私がセルビアに行った方がまだいいだろう、とセルビアに住むことにしたのですが、基本的に楽観主義なので軽い気持ちで決めたところがあって。生活し始めてからが、もう…辛かったですよ。

言葉の壁に苦戦しつつも、セルビアで働き出す

――どんなところが辛かったのですか?

セルビアは英語が通じると言われていますが、行ってみると英語がわかるのは若い人たちだけで、その人たちも日常会話はセルビア語。夫の友達の集まりに参加しても、セルビア語のわからない私は完全に蚊帳の外で…。「私、いても意味なくない?」って、セルビアに着いて3日目で号泣しました。
夫は頑張って通訳してくれていましたが、毎日すべての会話を通訳するのはしんどいですよね。一緒に暮らすことで、相手の知らなかった面や価値観の違いも見えてくるし、お互いストレスでよくケンカしていました。
あとは食事も。セルビア料理、おいしいんですが、やはり日本食が恋しくなりましたね。

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――何もかも違う土地で、大変でしたよね…。何か風向きが変わるような出来事はあったのですか?

夫の親戚の紹介で、ホテルでマッサージセラピストとして働き始めたんです。ホテル側が「日本人セラピスト」というのを売りにしたかったようで。まだセルビア語が話せなかったので、お客様からクレームがついたり職場でも同僚と仲良くなれなかったりと辛いこともあったのですが、やってよかったと思いますね。

――なぜそう思うのですか?

この経験がなければ、今でもまだセルビア語しゃべれなかったでしょうし、夫に頼るしかない自分にもっと絶望していただろうと思います。仕事先はいい人ばかりではありませんでしたが、セルビア人の根本的な考え方や仕事に対する姿勢がわかって良かったなと思います。

――なるほど。とても意味のある経験でしたね。

その後、ホテルで働きながら自宅でもマッサージサロンを始めたんです。細々と始めたのですが、口コミで結構予約をいただくようになって。リピーターさんや遠くの町から訪ねてくださるお客様もいて、自信がつきました。ホテルの仕事以外でもセルビア語を話すようになったことで、セルビア語がぐっと上達した感覚もありましたね。

セルビアと日本、両方の家族と支え合う日々

――住み始めてから数年でそこまで…。たくましいです。セルビアのご両親やご親戚とはどのようなご関係ですか?

義両親は、本当に良くしてくれて、本当の娘のように思ってくれています。人と人なので価値観が合わないところも絶対あって、ガチでケンカするときもあるんですが(笑)、お互いに引きずらず、次の日にはケロッとしてますね。
親戚の人たちとも、ようやく3年目にして打ち解けてきました。言葉の壁を克服できたのが大きいですね。

――では、日本のご家族の方はいかがでしょうか。セルビアに住むことについて、心配されたりしませんでしたか?

父以外は賛成してくれました。私の人生なので、好きにしたらいいと。
父は、セルビアは遠すぎる、夫とは二度しか会ったことがなく本当に信用できるのか、と不安だったようです。父の言葉を聞いて少し揺らぎましたが、移住の決意は変わりませんでした。でも普段あまり私への気持ちを口に出さない父が、自分のことを心配してくれたのは嬉しかったですね。

――今は一時帰国も叶わない時期でお辛いと思いますが、日本のご家族とも連絡はされていますか?

連絡は、LINEグループを作ってほぼ毎日しています(笑)
妊娠中は、頻繁に日本に帰って子供を両親に会わせてあげられないことが子供にも親にも申し訳なくて落ち込みましたが、今は「最低2年に一度は日本に帰れるくらい、自分が稼ごう!」と前向きに考えていますし、モチベーションになっています。

――母は強しですね!それでは最後に、今後セルビアでどのような人生を歩んでいきたいか、お聞かせいただけますか。

平和で、みんな健康に暮らしていけたらいいなと思っています。私自身の理想は、夫と娘を幸せにすることなんです。あとは、定期的に日本に帰れるように頑張りたいですね。

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――セルビアでも自然体の、あみんさんならではのお答えですね。お互いに頑張りましょう!お話ありがとうございました。

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あみんさんのTwitterとブログはこちらです。

https://twitter.com/amin78351841
https://amin01.com/




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